[過去ログ] 【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬弐拾玖 (1002レス)
1-

このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています。
次スレ検索 歴削→次スレ 栞削→次スレ 過去ログメニュー
428
(1): 02/24(土)13:49 AAS
>>425
邪馬壱国の王都が伊都国なんですよ。
429
(1): 02/24(土)13:52 AAS
・・・東行至不弥国百里 官日多模 副日卑奴母離 有千余家
ここまでは公孫氏の記録からの引用

南至投馬国水行二十日 官日弥弥 副日弥弥那利 可五萬余戸 南至邪馬壱国 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次日弥馬升 次日弥馬獲支 次日奴佳鞮 可七万余戸
は梯儁の報告からの引用

分けて考えると意味が通る。
430
(1): 02/24(土)13:52 AAS
>>421
>伊都国の説明に「世有王皆統属女王国」とあるから伊都国に王は居たんだ

これは、過去の後漢時代のことを述べてる。
その王たちは、邪馬台国の大倭王に属していたとね。
その王たちは、今、官になっている。官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚だな 。
其の上に王が残っているならその名も必ず書かれる、が、書かれていないのだからいなかった。
431: 02/24(土)13:56 AAS
>>421
>伊都国の説明に「世有王皆統属女王国」とあるから伊都国に王は居たんだ

その王が、一大率=出入国在留管理庁長官。   @阿波
432: 02/24(土)14:01 AAS
>>428
邪馬壱国の王都が平原・伊都国などと、世迷い言を云うでない。
何が何でも伊都国を王都にしたい下心が見え透いてる。
寺澤本人か、その手下のパシリ。

唐津東南の伊都国は、佐賀川上の皇統太神宮跡できまりだよ、佐賀県はその線で秘かに動いてる。、
433: 02/24(土)14:05 AAS
佐賀市大和町川上の 七ヶ瀬(しちがせ)遺跡から
弥生時代後期の墓群が出土したと発表した。
251基確認され、中国製の銅鏡などの副葬品も見つかった。
素焼きの土器でできた「 甕棺墓」、「 石棺墓」、「 土壙墓」など多様な埋葬形態の墓が集積し、
うち9基から、銅鏡やガラス製の玉類、刀剣なども出てきた。
鏡は、大きいものは直径約17センチ。
中国の前漢〜後漢(紀元前206年〜紀元後220年)に作られ、
持ち込まれたという。
434: 02/24(土)14:22 AAS
卑弥呼の女王国は奴国だよ、それが分かり難いように陳寿が書いてるだけ
435
(1): 02/24(土)14:31 AAS
弥生時代後期の墓群で前漢鏡か? 
もっと長期間継続の集落じゃ無いのか?
436
(1): 02/24(土)14:54 AAS
>>430
後漢代の事を公孫氏が記録したものだね
「世有王皆統属女王国」は公孫氏の記録からの引用だね
世は公孫氏の時代の事で
元々は公孫氏の時代には伊都国に女王卑弥呼が居た、倭の国々はみな女王国(伊都国、奴国、不弥国)に統属していたの意味だったんだ。
437: 02/24(土)15:30 AAS
後漢の世なのか、公孫氏の世なのか、魏の世なのか
コンセンサスは取れそうに無いな
438
(1): 02/24(土)16:12 AAS
>>436
書かれてもいないのに、見えるのは妄想という
439
(1): 02/24(土)16:13 AAS
一連の行程が247年の張政の報告なのに
なんで時制の問題が出てくる?

循海岸 水行 歴韓国 乍南乍東 到 其北岸 狗邪韓國 七千餘里
始度 一海 千餘里 至 對海國
又 南 渡 一海 千餘里 名日 瀚海 至 一大國  
又 渡 一海 千餘里 至 末盧國 有四千餘戸
東南 陸行 五百里 到 伊都國

(丗有王皆統属女王國 郡使 往来 常所駐)は、
女王国に所属する(三十の)王は皆伊都を往来していた
郡使(張政)は伊都に常駐した。 これによって
省11
440: 02/24(土)16:20 AAS
>>435
発掘されたのは1-2世紀分のほんの一部。この時代があって、次の3世紀があるわけだが、
隣にはまだまだ未発掘の場所区画が続く。
墓だけではない、伊都国の郡衙跡も出てくるだろう。
その郡衙推定地(伝説のカワカミノタケルの砦跡)だけでも30haある。
441: 02/24(土)16:20 AAS
倭が女王国だった時代(卑弥呼が王だった時代)は後漢末から魏に掛けての時代
公孫度が遼東太守に任じられたのが189年、卑弥呼が共立されたと推定されるのも189年
卑弥呼時代の倭が漢に朝貢するには必ず公孫氏の勢力圏を通る必要があったので、公孫氏は卑弥呼の事をよく知り卑弥呼の国を女王国と呼んでいたのだろう
「世有王皆統属女王国」は卑弥呼の国を女王国と呼んでいるので公孫氏の記録からの引用である
従ってこの世は公孫氏時代を指していたものを、公孫氏を魏の時代に意味を置き換えてるものだ。
442: 02/24(土)16:22 AAS
倭人伝で2回の郡使関連以外の情報は以下
23 男子 無大小 皆 黥面 文身 自古以來 其使 詣中國 皆自稱 大夫
24 夏后少康之子 封於會稽 断髪文身 以避 蛟龍之害
25 今 倭 水人 好沈没 捕魚蛤 文身 亦以 厭大魚 水禽後稍 以為飾
26 諸國 文身 各異 或左 或右 或大 或小 尊卑 有差
27 計 其 道里 當在 會稽東治 之東
(旧語 自謂 太伯之後 衆聞皆訝 以其遠絶 計 其 道里 當在 會稽東治 之東)

28 其 風俗 不淫 男子 皆露結 以木緜招頭 其 衣横幅 但結束 相連 略無縫
29 婦人 被髪 屈結 作衣 如 単被穿 其 中央 貫頭衣之
30 種 禾稻 紵麻 蚕桑 緝績 出 細紵 縣綿 其地 無 牛 馬 虎 豹 羊 鵲
省16
443
(2): 02/24(土)16:27 AAS
>>438
魏の時代は卑弥呼・男王・壱与だから女王国とは呼ばないよ

>>439
張政の報告書の引用は下記の部分だけ
因齎詔書黄幢 拝仮難升米 為檄告喩之 卑弥呼以死 大作冢 徑百余歩 徇葬者奴婢百余人 更立男王 国中不服 更相誅殺 當時殺千余人 復立卑弥呼宗女壹與年十三為王 国中遂定 政等以檄告喩壹與

下記の部分は魏の公文書の写しそのまま
正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭国 拝仮倭王 并齎詔 賜金帛錦罽刀鏡采物 倭王因使上表 答謝恩詔 其四年 倭王復遣使 大夫伊聲耆掖邪拘等八人 上献生口倭錦絳青縑緜衣帛布丹木拊短弓矢 掖邪狗等壱拝率善中郎将印綬 其六年 詔賜倭難升米黄幢 付郡仮授 其八年太守王頎到官 倭女王卑弥呼與狗奴国男王卑弥弓呼素 不和 遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状 遣塞曹掾史張政等 
壹與遣倭大夫率善中郎将掖邪拘等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹
444: 02/24(土)16:30 AAS
卑弥呼の時代は公孫氏が楽浪郡帯方郡で東夷からの朝貢をせき止めていた時代
238年に公孫氏が滅亡してからのち、卑弥呼はようやく中華王朝(魏)にたどり着いた
445: 02/24(土)16:32 AAS
女王国を使用している部分は公孫氏の記録からの引用

従郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓国 七千余里 始度一海 千余里 至 対馬国 其大官日卑狗 副日卑奴母離 所居絶島 方可四百余里 土地山険多深林 道路如禽鹿徑 有千余戸 無良田 食海物自活 乗船南北市糴 又南渡一海千余里 名日瀚海 至一大国 官亦日卑狗 副日卑奴母離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴 又渡一海千余里 至末盧国 有四千余戸 濱山海居 草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深浅 皆沈没取之 東南陸行五百里 到伊都国 官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千余戸 世有王 皆統属女王国 郡使往来常所駐 東南至奴国百里 官日兕馬觚 副日卑奴母離 有二万余戸 東行至不弥国百里 官日多模 副日卑奴母離 有千余家

自女王国以北 其戸数道里可得略載 其余旁国遠絶 不可得詳

自郡至女王国 萬二千余里

自女王国以北 特置一大率検察 諸国畏憚之 常治伊都国 於国中有如刺史 王遣使詣京都帯方郡諸韓国及郡使倭国 皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯 
省1
446
(1): 02/24(土)16:34 AAS
>>443
間にいる男王なんて誰からも承認されずに再び内乱になっただけで
統治した期間ほぼゼロなんだから卑弥呼→台与でいいんだよ

>更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人
447: 02/24(土)16:34 AAS
奴国王が卑弥呼で伊都国王が男弟だ
1-
あと 555 レスあります
スレ情報 赤レス抽出 画像レス抽出 歴の未読スレ AAサムネイル

ぬこの手 ぬこTOP 0.014s