平原女王墓が卑弥呼って聞いたけど?Part986 (632レス)
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588: 10/23(水)07:16 AAS
<倭国王師升>井原鑓溝遺跡・107
漢鏡5期:方格規矩四神鏡、四葉座内行花文鏡

<倭国乱>

【董卓が洛陽破壊】191
洛陽廃墟となり漢鏡7期は南方系となる

<狗奴国>金銀錯嵌珠龍文鉄鏡・216
漢鏡7期:画文帯神獣鏡など
※一時的に筑後平野→吉野ケ里滅亡→佐賀平野→末蘆国滅亡→対馬海峡、を占有(=漢時有朝見者)

【後漢滅亡・魏建国・洛陽復興開始】220
【司馬懿の公孫氏遠征】238
省14
589: 10/23(水)15:22 AAS
卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
「卑弥呼は既に死んでいた。多くの冢が作られた、径百余歩に徇葬者の奴婢は百余人である。」
卑弥呼の墓の周囲には殉葬者が多数埋葬されてる
590: ネトウヨ撲滅隊! 11/13(水)00:06 AAS
鹿児島県の悪石島の来訪神の祭りにボゼという東南アジア的な扮装したものが出てくる
従来はこれを一つの根拠として隼人はオーストロネシア系などと言われていた
しかし記録にある隼人語は日琉語で解釈できるので、彼らをオーストロネシア系というのは不自然なのだ

ナマハゲなど今の日本の来訪神は殆どが鬼の扮装をしている
ただ鬼というのは仏教の羅刹がデザインの元になっているため、これは仏教の影響を受けて後世に変化したもので、仏教以前の来訪神の姿は伝えていないのだ

仏教伝来以前の来訪神はどのような姿だったのか?

それは恐らくボゼのような姿であったろう
なぜならば魏志倭人伝に倭人の習俗は東南アジア系と書いてあるからだ

国学者やネトウヨは仏教伝来前の日本文化を現代の神社神道的なものと想像していただろう
しかしそれは全く違う。
省2
591: 11/14(木)06:28 AAS
吉野ケ里遺跡に王はいない、と言われるが、
二塚山遺跡(三根国)がその地域=彌奴國の王だった、のではなかろうか。

二塚山遺跡は吉野ケ里遺跡の北東内陸に位置するので、
当時有明海に面した城塞都市であった吉野ケ里遺跡は、
有明海からの弥生水軍来襲に対する防御施設であったと考えれば地理的にも矛盾しない。
592
(2): 11/14(木)08:34 AAS
>>576
論理的に考えて魏志倭人伝等の東夷伝で使われてる1里は約80mである事は動かない
否定してる人は魏の1里が約400mだから東夷伝の1里も同じであると言うが
東夷を50年間支配していたのは公孫氏であり魏志倭人伝には公孫氏時代の記録からの引用が多用されている
1里約80mは公孫氏が使用していたと考えると何の問題も無いのである。
593
(2): ネトウヨ撲滅隊 11/14(木)11:48 AAS
広域を統治する王がいたのなら儀礼の中心となる王宮があったはずである
纏向のように大王の世俗権威の担保となる施設がなければならない

歴代の中華王朝には礼制の中心となる王宮があった
これは殷王朝よりも古い二里頭遺跡の時代から既に存在していた

この王宮の有無を以て、朝廷が存在していたかどうかを判定するのである
いくら大きな都市遺跡でも王宮がなければ王の存在は証明できない

九州に大倭王がいた痕跡はない
594: 11/14(木)12:02 AAS
>>592
九州説を前提に考えるから、そのような架空の単位を作る羽目になってるだけ
普通に考えたら記述の文面が間違ってると判断する
595: 11/14(木)12:05 AAS
>>592
魏と同じく中国人が統治しているのに、どうして、自分が以前から使いなれていた里程を捨てて、短里なんてぇ変な単位を導入する必要があるのか
596
(1): 11/14(木)13:33 AAS
九州には太宰府があり王が居た痕跡を留めている
三国時代は分裂の時代で各地に独立した権力が存在した
公孫氏が独自の度量衡を制定しても何の不思議もない
魏等に公孫氏の勢力の地図情報が漏れた場合に魏とは違う里を用いていれば実際の大きさがわからない
1里400mの国に1里80mの国の情報が漏れた場合25倍の広さに見せかけられる。
597: 11/14(木)15:15 AAS
>>593
今まで日本の歴史や古代史はデタラメばかりだけだしね

九州には西都原古墳群という古墳時代でも仁徳天皇陵を除くと

日本最大クラスの九州栄華を誇ったであろう前方後円墳が存在してる現実
598: 11/15(金)13:03 AAS
魏志倭人伝の行程

里数行程
帯方郡⇒7000里⇒狗邪韓国⇒1000里⇒対馬国(400里×2)⇒1000里⇒一大国(300里×2)⇒1000里⇒末盧国⇒500里⇒伊都国⇒100里⇒奴国⇒100里⇒不弥国⇒1000里⇒倭種
(伊都国〜不弥国が女王国)

日数行程
帯方郡⇒投馬国(朝鮮半島南部)⇒邪馬台国(北部九州地域)
599
(1): 11/15(金)15:21 AAS
>>596
長期間に綿って分裂していた春秋戦国時代でも実際には各国の度量衡は誤差程度のわずかな差しかなかったことが判明しているんだよ

あんまり違いの大きい度量衡を使うと政治的にも困るから変えにくかったんだ

だからこそ短里はない
600: 11/16(土)19:03 AAS
>>593
吉武高木遺跡に王宮がずっと営まれていたのだが、
それを無視して何言ってんの?

東夷伝里についても解釈出てるよ
2chスレ:archeology

漢魏が金印を贈った=漢魏以外の統治王朝を認めた=独自の里(東夷伝里)を認めた

つまり東夷伝里で記載された領域というのは、
奴国王
あるいは
倭王卑彌呼
省1
601
(1): 11/17(日)08:17 AAS
>>599
春秋戦国時代に各国の度量衡は誤差程度のわずかな差しかなかったから短里はないとは言えない
他国と違いの大きい度量衡を使うと交易で不便なだけで支配者は困らない
中原の国々間では交易が活発に行なわれていたので成るべく近い値の度量衡が使用されただけ
公孫氏の領域は東夷であり中原との交易は然程活発ではなかったので不便は無かったのであろう
602
(1): 11/17(日)12:37 AAS
>>601
問題点は二つ

公孫氏は長い間、少なくとも名目上は漢の臣下であって独立国ではないと装っていて、正式に独立してた期間は滅亡直前の短期間だけ
仮に独自の度量衡を作ってても、それを広めるほど長い時間はない

もうひとつ、下々は困っても君主は困らないと言うが、しもじもの不便は国力の低下として君主に跳ね返ってくるのだから争乱の時代には実行したくない下策
だからこそ春秋戦国時代にも度量衡は国ごとの地域差が少なかった
603
(1): 11/19(火)06:59 AAS
なんで公孫氏だよ。

金印を貰った奴国王の度量衡だろ。

倭人=水上生活者=アマ、は里ではなく、日数を用いる。
倭種=陸上生活者=クニ、が用いたのが東夷伝里=短里。

遅くとも1世紀から用いられていて、
金印奴国王〜高句麗奴部諸族〜東夷各地に奴〇河
つまりは奴族=O1b2の里程だ。
604: 11/19(火)07:23 AAS
>>603
いや、倭人は度量衡を知らなかったろ
605: 11/19(火)20:53 AAS
>>602
確かに公孫氏が独自の独自の度量衡を使用した期間は短かったと考えられ
それを広めるほど長い時間はないかったろうね
そもそも公孫氏の勢力圏は異民族が殆どで中国の度量衡など知らなかった
使用してたのは支配階級の中国系の官僚で
その官僚が作成した資料が魏の手に渡り、それを基に魏志倭人伝等の東夷伝が作成されたんだ
官僚は国が新たな度量衡を定めれば直ちに切り替えて使用するから時間は掛からない
606
(1): 11/19(火)21:19 AAS
独自の度量衡を用いる
イコール
独自の支配権を認められる
イコール
金印授与

候補は漢委奴國王と親魏倭王だが、
親魏倭王の倭人は里を知らないと当の三国志に記載されている。
だから自動的に漢委奴國王が東夷伝里を用いた支配者で倭種なんだよ。

日本列島での東夷伝里記載は侏儒國までであって、
それはつまり中広形銅矛の出土範囲と一致する。
607
(1): 11/19(火)22:42 AAS
>>606
独自の度量衡を用いるってことは他に支配されない独立した勢力だってこと
魏に対する反逆
魏と違う度量衡を用いていたら魏は金印なんて授与しない
そもそも当時倭では度量衡は知られておらず使用されてはいなかったんだよ
臣従するなら年号とかも魏の年号を使用する。
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