5世紀頃までの国境と守備軍事的長ヒナモリ Part1.1 (824レス)
上下前次1-新
315: 2024/03/29(金)01:23 AAS
依頼者の滞在どうするかってこと
逆にしてもらったよ。
316: 2024/03/29(金)01:27 AAS
>>106
そっちのが1番になってるはず
317: 2024/03/29(金)02:33 AAS
小林製薬買ったぞ、お前らも売れえ
318: 2024/03/30(土)01:29 AAS
上野原台地の南東側に位置する区域の最も高い場所からは,
対で発見された壺形土器をはじめ11基の土器埋納遺構が見つかっています。
この場所で,マツリが行われたと考えられています。
外部リンク[htm]:www.jomon-no-mori.jp
一般的に弥生時代になってから使われるようになる壺形土器が,
5,000年以上もさかのぼる約7,500年前にすでにつくられていたことも明らかになりました。
それに、一般的な縄文土器と違い模様のない弥生土器の様な趣きがある。
現在,上野原遺跡の成果から,同じ時期の壺形土器の出土例が増えつつあります。
約7,400年前の遺跡である城ケ尾遺跡(霧島市)からは,埋納された壺形土器が,
ほぼ完全な形で3個体出土していますが,上野原遺跡のような「双子壺」
省4
319: 2024/03/30(土)02:14 AAS
上野原遺跡発掘30周年
外部リンク:www.jomon-no-mori.jp
円筒形と角筒形,そしてレモン形土器の発見!
上野原遺跡の集落跡から出土した縄文土器の文様は縄目ではなく,主に,「ハイガイ」や
「サルボウ」といった海に生息する貝で文様が施されています。
形は,上から見た形が○の円筒形と□の角筒形があり,
胴部は筒状,底部は平らになっています。 なお、遼河文明の一つ
興隆窪文化の遺跡からも櫛目文を施した平底円筒土器やけつ状耳飾りが出土する。
角筒形は全国でもほとんど例のない特殊な形の土器です。南九州で独自に発生したと
考えられ,上野原遺跡で用いられていた頃が文様・形状ともに最も美しいと言われています
省3
320: 2024/03/30(土)02:25 AAS
ちなみに日本最古の耳飾りは「ケツ状」と「耳栓」の二つのタイプが
鹿児島県の上野原遺跡で出土しており、どちらも約7,500年前の物なので、
年代的には遼河で出土した物とほぼ誤差みたいなものだと思います。
ちなみにこの上野原遺跡では、弥生式土器に類似した壺形の土器が、
縄文時代早期後葉、鬼界カルデラから噴出 7,500年前の地層から1組出土しています。
縄文時代から既に弥生式土器の源流があり、それらに類似した土器が支那の一部地域に、
大陸側に何のルーツもなく唐突に出現したということは、日本から縄文人が外洋を渡り
伝えたとしか考えられません。 O1b2(47z)人が逆に遼河で無文土器か??
321: 2024/03/30(土)20:25 AAS
「罛こ」。
『詩経』衛風・碩人「施罛濊濊」について、罛は最も一般的な漁網であるようで、
前述の『爾雅』でも「魚罟ぎょこ[うをあみ]、之れを罛こと謂う」とあり、
郭璞注には「最大の罟あみ」だと言うのみである。
『詩経』衛風・碩人「施罛濊濊」について、毛伝は「罛は魚罟こ、濊濊かつかつは
之れを水中に施すなり(罛魚罟、濊濊施之水中)」とし、
漁網を水中に設置する様子だと説明している。朱熹『詩経集伝』ではより具体的に
「濊濊は罟の水に入りし音(濊濊罟入水聲)」だと述べる。
そしてそれを使う音が「濊濊かつかつ」と象徴的であるのなら、
濊濊とは投網なのかもしれない。
省2
322: 2024/03/30(土)21:48 AAS
縄文時代後期初頭(BC3000年前後)に、遼東半島、渤海湾や韓国・西南海岸と
共通する漁具(3種類の釣り針)や漁労文化が九州北西部地域に出現するそうだ。
? 単式釣り針(いわゆる標準的な「し」形釣り針)。
? 逆T字形釣り針(半島では朝鮮海峡沿いで出土)。? 結合式釣り針(日本海側に多い)。
縄文時代後期の大陸と日本の間の交流を行ったのは、海人族・海神族と言われる
人々であったと考えられる。
新石器時代の古代中国(長江文明)
長江文明の担い手は、漢族からの南蛮や西南夷と蔑称されていたが、
長江の南で7000年前の稲作文化の河姆渡(カモト)遺跡(新石器時代前期末〜中期初頭)
が発見され、長江の北の山東半島南(500km程)に、
省1
323: 2024/03/31(日)04:09 AAS
日本稲作の系譜 ー石包丁についてー P97
外部リンク[pdf]:repository.kulib.kyoto-u.ac.jp
北九州より数例発見、大型石包丁(25cm以上、摘まみが有る石匙形)、
中国浙江省で出土する。
324: 2024/04/01(月)21:42 AAS
武王とは周王朝の祖である。
従って、周代から粛慎(みしはせ)は石砮(せきど)と楛矢(こし)を
献納していたようだが、それに関して、次のような記録がある。
(紀元前1016年)成王が東夷を討伐。粛慎が来朝の時、
成王は大臣の茉伯を派遣して『粛慎に命じて作る』(と楛矢に刻印させた)。
(紀元前1066年)周の武王が商の紂王を討ち、朝歌(河南省淇県)を陥落させて占領し、
商は滅んだ。奉納を命じる前に(粛慎が)祝賀に来朝し、楛矢と石砮を献納した。
(『尚書』)
「楛矢」 楛(こ)は、中国原産の牝荊(にんじんぼく)に似た赤い落葉潅木で、
幹が矢幹(やがら)に適している。それで作った箭杆(矢)を楛矢という
省1
325: 2024/04/01(月)21:50 AAS
『晋書』粛慎伝
周の初代、武王の時代、楛矢と石砮を献じる。
周公が二代、成王の補佐をしていた時代に再び遣使が朝賀に来た。
その後千余年、秦漢の隆盛時といえども来貢しなかった。
三国魏の文帝が丞相となるに及び、景元5年(264年)、
楛矢、石砮、弓甲、貂皮の類をもって来貢。
魏帝は相府に詔き、帰り際しては、その王に侲鶏、錦罽、綿帛を賜る。
武帝の元康初(291-2年)、再び来貢して献納する。
326: 2024/04/01(月)22:01 AAS
夏王朝で宮廷儀礼に用いられたと考えられる玉璋、玉斧、玉刀、玉戈など
多種多様な大型玉器が出土し、宮廷における「礼制」が整備されたことがわかる。
会稽山の麓、良渚文化期の玉器は明確な等級区別があった。
東南アジアの仮面に似た、「神徽像」を共通の神としたほか、玉?j(ぎょくそう)、
玉鉞(ぎょくえつ)、玉璧(ぎょくへき)に代表される神権、軍権、王権が
良渚社会特有の玉礼制を形成し、政教一致を特徴とする国家形態を反映していた。
福建省・広東省・広西省からベトナム北部にかけて活動していた
越人は夏人の末裔を自称していた。
また禹の墓があると伝承される会稽山は越人の聖地でもある。
紀元前333年、越国は楚に滅ぼされ越人は四散した。
327: 2024/04/01(月)22:08 AAS
良渚文化(りょうしょぶんか、拼音: Liángzhǔ wénhuà、Liangzhu Culture)は、
長江文明における一文化。紀元前3500年ころから紀元前2200年ころにみられた。
1936年、浙江省余杭県の良渚遺跡で発掘された。?ッ沢文化などを継承しており、
黄河文明の山東龍山文化との関連も指摘されている。
柱形・錐形・三叉形など多様な玉器の他、絹なども出土している。
分業や階層化が進んでいたことが、殉死者を伴う墓などからうかがえる。
近年、長江文明研究の進展により、良渚文化は夏や殷王朝に比定されている。
また、黄帝の三苗征服伝説を、
黄河流域の中原に依拠した父系集団の龍山文化による三苗征服の痕跡とみなし、
黄河文明と長江文明の勢力争いを描いたものとする見方もある。
328: 2024/04/01(月)22:11 AAS
徐朝龍によれば、良渚文化は稲作都市文明を形成していた。
1000年ほどの繁栄を経て、洪水でこの文化は崩壊する。
良渚文化集団の一部は北上し、黄河中流域で夏王朝を興した。
やがて夏王朝は支配下にあった東夷の后羿(こうげい)部族に倒される。
夏王朝の遺族の一部は北西に逃れ、のち四川盆地に移住し、三星堆文化を築いたとする。
古人骨では、良渚文化の遺跡(3300BC-2100BC)で60%以上の高頻度で発見されている。
329: 2024/04/01(月)22:36 AAS
夏(か、拼音: Xià、紀元前2070年頃 - 紀元前1600年頃[注釈 1])は、
史書に記された中国最古の王朝。夏后氏ともいう。夏・殷・周を三代という。
『史記』『竹書紀年』などの史書には、
初代の「禹」から末代の桀まで14世17代、471年間続き、
殷の湯王に滅ぼされたと記録されている。
越人は夏人の末裔を自称し、「禹」の墓があると伝承される会稽山は越人の聖地でもある。
330: 2024/04/01(月)22:39 AAS
周の?脂、(在位:前878年 - 前841年)が無道であったため、
淮夷(わいい)は中国に侵入して略奪をおこなった。
?脂、は虢仲に命じてこれを征伐させたが勝てなかった。
宣王(在位:前827年 - 前782年)の時代、
周は召公に命じて再び討伐をおこない、淮夷の平定に成功した。
周の幽王(在位:前782年 - 前771年)が悪政を行い、四夷の侵入を招いたため、
周王朝は東の洛邑に遷都することとなった(春秋戦国時代の始まり)。
その後、斉の桓公が春秋の覇者となると、斉の周辺の東夷諸族を追い払った。
331: 2024/04/02(火)00:01 AAS
楚の霊王(在位:前540年 - 前529年)が諸侯や淮夷らと
申で会盟したのを機会に淮夷は楚に朝貢し、盟を守った。
後に越が瑯琊に遷都すると、越王の勾践は淮夷を征伐し、
諸夏を撃って山東地方の小国を侵略していった。
夫概(夫槩、ふがい、生没年不詳)は、呉王余昧の子[1]。闔閭の弟。息子は呉王夫差。
紀元前505年、兄が呉越の戦いの最中に、こっそりと陣払いをし、
自立して呉王を名乗ったが、戻ってきた闔閭の兵に敗れて、楚に亡命した。
その後、楚から領土の淮水の上流、堂谿を与えられて、その子孫は堂谿氏と称した。
秦が六国を併合して中国を統一すると(前221年)、
淮夷や泗夷はすべて分散し、秦の民戸となる。
省3
332: 2024/04/03(水)15:27 AAS
なんだかな〜〜
333: 2024/04/03(水)16:24 AAS
これって「倭」=「淮」なんだ。当て字か? 米国、美国、みたいな??
孔子時代(bc500年)頃には海の向う朝鮮半島と思われる地に東夷、九夷、がいた。
「倭」わ=ウェ 越南ウェトナム=ヴェトナム 越智ヲチ=オチ、オロチ ??
「倭」
(わ、やまと、ワ、ヰ、ウェイ(中国南方音)、ゥオー(中国北方音)朝鮮語で왜ウェ)
「淮」
呉音 : ウェ(ヱ) ヱ「ゑ」(例.夷「ゑびす」→欧米語の/we/音「ウェ」
漢音 : カイ(クヮイ)・ガイ 慣用音 : ワイ
334: 2024/04/03(水)18:24 AAS
民俗学者には長江流域からの稲作民の渡来を強く指摘する、
石毛直道(いしげなおみち)は、考古学的遺物としての収穫用石包丁、
特に穂刈り用の 「半月形外彎刀」 は、長江下流、南朝鮮、北九州にしか
分布していないとし、これによって江南渡来説を支持した。
外部リンク[pdf]:repository.kulib.kyoto-u.ac.jp
P106 第五図 石包丁型式別分布図
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