5世紀頃までの国境と守備軍事的長ヒナモリ Part1.1 (761レス)
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154: 02/19(月)21:11 AAS
韓半島新石器時代集落の展開と生業の変化
林 尙澤 (釜山大學校 考古學科)
外部リンク[pdf]:www.meiji.ac.jp
韓半島新石器時代集落遺跡(縄文時代に相当)は現在、「100余り」が知られている、

最近、南韓の中西部地域を中心として集落の調査事例が増大している (図1)。
本格的な集落遺跡は新石器時代早期 (6000〜4500BCE)から出現して、

後期まで全国的に分布するが晩期 (2200〜1300 BCE)になると急速に減少する。

ちなみに日本の後期旧石器時代の遺跡数はのべ 1万4千500 以上にのぼり
縄文時代のもので約9万件、弥生時代のもので約3.5万件が登録されている。
155: 02/21(水)00:42 AAS
「支石墓・石棚墓・卓上テーブル型支石墓」
紀元前1700年〜紀元前256年頃ということは殷(商)から春秋・戦国時代

「紀元前1500年頃になると遼東半島から吉林省南部地域にも出現」
朝鮮半島北部の支石墓は山東半島→遼東半島→遼河→吉林省→朝鮮北部といった流れ。
山東龍山文化時代は紀元前2600~1900年頃、岳石文化の時代は紀元前1900~1500年頃です。

浙江省温州地市瑞安 (碁盤型石棚墓)紀元前1700年〜紀元前256年頃にかけて
 「江南地方で営まれた墓制、石棚墓の下には甕棺も埋葬されている。
中国南部、長江下流域、江蘇省でも支石墓が見つかった。

山東半島 「紀元前1500年頃
遼東半島 「卓上テーブル型支石墓・北方式支石墓」紀元前1500年頃
省6
156: 02/21(水)00:43 AAS
>長江流域と九州地域には類似した文化がある。

崖に横穴墓 貴州省都江鎮不巫郷にある横穴墓と極めて似ている。
石棚墓群 (浙江省温州地市瑞安) 長江下流域、江蘇省でも支石墓が見つかった。
土とん墓 墳丘墓の源流、中国江南地方で呉・越の限られた時代の土とん墓の影響か。

舟型木棺 江蘇省の土とん墓群からは船形棺の葬具が出土している
銅鐸祭祀 の源流、湖南省寧郷市老糧倉で出土した殷代の鐃(にょう)に関しては、
 「日本の銅鐸のルーツではないかとの見解が出されている。
 「長江中流域などの鐃は概して大ぶりで、高さが1メートルに迫る。
157: 02/21(水)17:16 AAS
縄文晩期 長崎県佐世保市大野台・島原市原山に石棚墓群が出現。
浙江省の石棚墓群に類似する。屈葬や箱式石棺,甕棺を伴う。

(支石墓としている記事もあるが、石棚墓に近い。行きに支石墓が皆無であることから
浙江省から直接渡来した人々によるものではないかとの説もあり)
佐世保市鹿町町 大野台支石墓
画像リンク[jpg]:livedoor.blogimg.jp
158: 02/27(火)00:42 AAS
中国陝西省西安市、約4千年前の太平遺跡、大規模な集落跡が発見された。
客省荘第2期文化に属する灰坑173カ所、灰溝2カ所、家屋跡5カ所、墓7基が見つかり、
大量の土器、石器、骨角器、動物の骨(卜骨)のほか、少量の玉器と玉原石が出土した。
三足土器は出土してない。

>中国人の移民は相当数いるはずが三足土器はない。黒色・紅色磨研土器はある。
台湾史前博物館と卑南文化公園 沖縄写真通信
外部リンク[html]:okinawa.ave2.jp

台湾4千年前の卑南新石器文化時期、円山文化年代は、約四千五百年前から始まり、
約二千年前に消失。 三足土器はなし

近年韓国南部固域貝塚から西周時代長江下流の江蘇,浙江地帯で盛行した
省4
159: 03/01(金)01:23 AAS
>メソポタミア・ウバイド文化の壷が熊本県南部の細頸長頸壷・免田式土器とソックリ。
中国には免田式土器と同じ青銅器があるらしい。

Twitterリンク:yayoibot8
画像リンク[jpg]:ja.wikipedia.org
Twitterリンク:thejimwatkins
160: 03/01(金)01:24 AAS
>朝鮮半島の無文土器・黒色磨研土器にある角が2つ付いた土器と同じ土器。

イラン南西部銅石器時代の煮炊きに関する研究
方解石、赤色シルト岩粒を混和した薄手の磨研粗製土器が作られるようになる(図 1)。
把手が付いている本発表では東京大学総合研究博物館所蔵のタル・イ・ギャプ遺跡
出土土器 19 点(紀元前 4700-4500 年)、タル・イ・バクーン A 遺跡
出土土器 2 点(紀元前 4500-4300 年)、合計 21 点の胎土を分析試料とした。

外部リンク:encrypted-tbn0.gstatic.com
外部リンク[pdf]:jswaa.org
(P40)
161: 03/01(金)02:06 AAS
>紀元前5500年頃のものや古代南インド、弥生時代の福岡県スダレ遺跡からなど
インドや中東辺りの子持壺が日本まで伝えられて来たこと。
古代シリアの子持壺
外部リンク[html]:kiyond.blogspot.com

>中国「アンダーソン土器」とそっくりなペルシャなど中東の彩文土器。

>このシュメール土器と縄文土器の似すぎる共通点?? なんだかな?
外部リンク:detail.chiebukuro.yahoo.co.jp
162
(1): 03/01(金)02:50 AAS
 シュメール人は自らの国を「キエンギ」と呼んでいました。
これは「葦の主の国」という意味になり、
古代日本の呼称である「豊葦原中国」とよく似ているのがわかります。

日本の古語で、天皇や皇族を、「スメ(皇)」や「スメラ(天皇)」と言い、
それは古代バビロニアの「Sumer(スメル)」と似ているだけでなく、
「シュメール」とも発音されていました。

ほとんどの方が「菊花紋」というと、天皇、皇室を連想することでしょう。
実は、シュメールから出土した粘土板にも、菊花紋が描かれています。

当時のイラク大統領サダム・フセインが、バグダッドの官邸で記者会見を開いた時、
十六菊花紋がデザインされた腕輪をしていたのです。シュメールの子孫だと誇示するため。
163
(1): 03/01(金)03:22 AAS
草薙の剣(くさなぎのつるぎ)(スサノオ)
八咫鏡(やたのかがみ) (天照大神)
八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)(勾玉は月像、月読み)
(中東では勾玉のデザインが良く使われる)
欧州「ペイズリー」ペルシャ「ボテ(Boteh)」インドでは「ブータ」「カルカ」など。

シュメールや古代バビロニアの三種の神器である
武神のシンボルの剣
日像鏡
月像の首飾り

日本の神話には8つの首を持つヤマタノオロチを退治したときに、
省6
164: 03/01(金)04:05 AAS
シュメール人とは?その文明と「日本人のルーツ」の謎に迫る

後世ペルシャ王族の象徴だった「白瑠璃の碗」と同じ意味合いなのかも
3枚目の写真(大分県から出土した黒色磨研土器の形によく似てる)
外部リンク:newsphere.jp
165: 03/01(金)20:10 AAS
パンテオン
大部分のシュメールの神々はアヌンナ(Anunnna、アヌの子孫たちの意)に分類される。
一方でエンリル、イナンナを含む7柱の神々はアヌンナキ(アヌの子孫たち+キ)とよばれる
「地上、冥界の審判者」に分類される。アヌンナキは天(アン)から地上(キ)に
降りたものたちを意味する[要出典]。ウル第三王朝の頃、シュメールのパンテオンには
60の60倍、すなわち3600の神々が存在するとされた。

紅陶(鬹 キ・規に鬲レキ )『足が中空なもの』 鼎(かなえ、テイ)『足がつまったもの』
ナンム: 原初の海(Engur)の女神。天(アヌ)と地(キ)を生んだ。最終的女神ティマト。
アヌ: 天の神。
シン: 月の神。ウルの都市神のなかの1柱。
省2
166: 03/01(金)20:23 AAS
紅陶・鬹(鬹 キ・規に下が鬲レキ (足が中空なもの))

いわゆる三足土器。三本の袋足を組み合わせて作った器で、その上の一方に口頸部が付き、
その反対側に幅広の把手が縦に付く。口は円を二方からつまんで作った形を呈している。
胎土は精製された土で、整形した後なめらかに磨かれている。
この種の鬹は、黄河下流域の大汶口文化やその流れをひく山東龍山文化のものが
よく知られているが、良渚文化にも出土例がある。
167: 03/02(土)23:09 AAS
シュメールは人類最古の文明化。
メソポタミアのシュメール文化(紀元前3500年頃)から
エジプト文明前3000年頃が生まれ、
さらにインダス文明(紀元前2500年頃から1500年頃)が生まれた。
黄河文明(紀元前2000年頃から甲骨文字)もシュメールが作ったのだという。
象形文字が4大文明で共通している。 彩文土器などは明らかに中央アジアの物である。
日本の古代文明もシュメールの影響があるという、縄文土器のなかに似た物がある。
旧約聖書もシュメールの歴史である。イラクの古遺跡の名も旧約聖書のそれと同じである。 
地名が歴史の化石と言われるゆえんである。

世界の象形文字・絵文字の代表的なものが
省6
168: 03/03(日)16:53 AAS
『日本書紀』の「斉明天皇紀」の五年(659)七月の条に、つぎのような文がある。
「伊吉連博徳(いきのむらじはかとこ)の書によると、この天皇(斉明天皇)の御世に、

この記事で注目されるのは、九月十四日の午前四時ごろに大海に乗りだし、
十六日の夜半には、中国の江南の会稽県についていることである。
二日(二昼夜)と八時間ほどで東シナ海を渡っていることになる。
縄文、弥生時代と、七・八世紀ごろとでは、船の構造の違いもあるとみられるが、
参考になると思われるので、以下に紹介してみよう。
169: 03/03(日)17:55 AAS
原始和弓の起源 2015年『日本考古学』
外部リンク:fieldnote.info

原始和弓が属する丸木弓系単一素材弓は,太平洋・インド洋沿岸の湿潤な樹林帯に多い。
とくに,太平洋周辺の長大な弓の分布は,オーストロネシア語族の拡散域と
非常によく重なるので,その拡散には彼らが強く関与していたとみられる。

源郷とされる中国南部の跨湖橋新石器時代遺跡からは,初期のイネやブタ,
丸木舟とともに,世界最古の漆塗りの丸木弓が出土しており,
原始和弓も含めた太平洋型長大弓の共通の祖形ではないかと考えられる。

東シナ海、杭州湾を臨む浙江省跨湖橋遺跡から,新石器時代(紀元前5000〜6000年頃)
のI類漆塗り丸木弓が出土している(図4–26・浙江省文物考古研究所2004)。
省2
170
(1): 03/03(日)18:16 AAS
 さらにこの地域の先住民例を見ると,台湾のアミ族やタイヤル族,海南島のリ族が,
140〜150cm台の比較的長い丸木ないし竹製のI類弓を使用している。

フィリピン〜南太平洋島嶼群のI類弓
 さらに南下すると,フィリピンからタヒチまで,
太平洋の島嶼伝いにはるか東へとのびる,I類弓の広大な分布域を認めることができる。
 この地域では,180cm〜190cm台あるいはそれ以上の長さに達するような,
長大なI類弓が主体である。フィリピンのネグリート族は,原始和弓と同じ弓幹に
樋と巻を施した長弓と,三叉族を付した長大な矢で,漁労に使用する(Krieger1926)。
171: 03/03(日)18:19 AAS
 後藤守一は、弓幹の長さと形態によって弓を分類した(後藤 1928)。
弓のうち「長さ2m 位のもの」を長弓、「長さ1m 内外のもの」を短弓と称し、
弦をはずした時に弓幹がほぼまっすぐで、弦を張るとほぼ同じ曲率で曲がるものを直弓、
弓幹の中央が弦に向かって逆に反った弓字形になるものを彎弓と称した。
そして、多くの場合に長弓は直弓、彎弓は短弓であるとの見方を示している。

 朝鮮半島南部では紀元前1世紀に,跨湖橋遺跡の弓に類似した漆塗り長大弓が出現する。
朝鮮半島南端部では,日本の弥生時代に相当する原三国時代に,
原始和弓に匹敵する長大なI類弓が確認されている。
紀元前1世紀中頃の慶尚南道昌原市茶戸里1号木棺墓(国立中央博物館2012),
2世紀前半頃の金海良洞里21号木槨墓(図4–25・国立金海博物館2012)出土例である。
172: 03/03(日)18:23 AAS
>>170 続き。

インド洋沿岸のI類弓
 フィリピンから東へ向かっては,分布の希薄なインドシナ半島を跨ぐようにして,
インド洋東岸へI類弓の分布が広がる。インドネシアのメンタワイ族,
スリランカのヴェッダ族などの弓が代表的なものである。南太平洋の島嶼群と同様,
180cm〜190cm台あるいはそれ以上の長さに達する長大なI類弓が主体である。

 なお,アンダマン諸島のグレート・アンダマン族は,彼らの身長をはるかに越える,
180cm以上の長大な木製の弓を用いることで知られる(Brown1906)。
173: 03/03(日)20:15 AAS
 縄文時代の弓に長弓と短弓があることは、近年の発掘で明らかになってきた。
長弓の例として、莉内遺跡・寿能遺跡などの例があり、短弓の例として、
埼玉県伊奈氏屋敷跡遺跡例などがある。

 さらに小型弓と呼んでいる、発火弓、穿孔弓と考えられる木製品を確認されているが、
これは、仕掛け弓としても用いられたのかもしれない。
弓の全体形は上長下短で、握りの部分は弓幹の下よりにくるものが多い。

 縄文時代の丸木弓は、長弓が多い。しかし、北海道忍路土場遺跡では、 1m 以下の
短弓が大量に残っており、縄文の弓は時期や地域毎に異なった姿があったらしい。
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