5世紀頃までの国境と守備軍事的長ヒナモリ Part1.1 (769レス)
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431: 06/04(火)14:13 AAS
>>429
おいおいWiki記事を丸写し転載して
一体何を伝えたいんだよ?
432(1): 06/04(火)21:50 AAS
>>428
>各地に「ヒナモリ」って地名が残ってる場所があるんだよ。例えば、
>宮崎県小林市や新潟県妙高市、上越市、岐阜市茜部本郷・・・・・
倭人とは言語・習俗など文化の異なる(敵対するかもしれぬ)種族の日本列島の盤踞地との
境界地に置かれた守備・監視施設の名残りなのだろうか?
小林市は対熊襲・隼人族、妙高市・上越市>>1はAD640年代にヤマト王権が設けた「沼垂柵」同様に
北の対蝦夷と推測できるが濃尾平野只中の岐阜市付近に棲息していた異種族って何族なのだろう?
古代のある時期まで東隣の尾張西部or北隣の美濃北部にも蝦夷が盤踞していたのか?
433(1): 06/13(木)12:31 AAS
画像リンク[jpg]:i.imgur.com
もうすぐ終了です
434: 06/13(木)12:56 AAS
>>433
分かりやすいな
435(1): 06/27(木)03:30 AAS
>>429
>「肥後の守 ひごのかみ」「越前の守 えちぜんのかみ」など・・・・
律令制国司四等官(守・介・掾・目)の役目分担の
長官 (かみ) ・次官 (すけ) ・判官 (じょう) ・主典 (さかん)のうち
長官を「守」と表記するのに「モリ」でなく「カミ」と読む由縁は何なのだろう?
436: 06/30(日)18:34 AAS
>>435
通説を疑うスレに
小学校の教科書みたいな文体で通説を解説する馬鹿
437(2): 07/01(月)17:01 AAS
筑前国、日向国、美濃国、越後国に残る「ヒナモリ」の地名や神社名は、そこに邪馬台国の軍事的長がいたことを示唆し、邪馬台国の勢力範囲の端であったことを意味する、という説があります。しかし、地名や神社名に残る「ヒナモリ」と邪馬台国の「卑奴母離」との関連性は不明です。日向国の「ヒナモリ」は人名の「兄夷守」・「弟夷守」に関連しており、実際に3〜4世紀に設置されていた役職名である可能性もあります。
438(2): 07/01(月)17:02 AAS
奴国が位置していた筑前国には、現在の福岡市にあたる糟屋郡に「夷守駅(ヒナモリえき)」(『和名抄』)があった。現在は日守神社が建っており、卑奴母離が駐屯していた場所と考えられている。
『延喜兵部式』(延長元年・923年)には日向国諸県郡に夷守駅が記されており、『日本書紀』景行天皇紀に登場する兄夷守・弟夷守がいた場所でもある。現在は宮崎県小林市細野夷守となっている。
近くの霧島岑神社は夷守神社とも称されている。3〜4世紀頃、熊襲や隼人に対する守備隊が駐屯していたと考えられる。
『和名抄』は越後国頸城郡「夷守郷」を「比奈毛利」(ヒナモリ)と訓をつけている。現在は新潟県妙高市に「美守」(ヒダモリ)があり、新潟県上越市にはかつて美守村が存在した。3〜4世紀頃、北陸道の守備隊が駐屯していたと考えられる。
『延喜式神名帳』には、美濃国厚見郡(現在の岐阜県岐阜市茜部本郷)に比奈守神社を収めている。3〜4世紀頃、飛騨(ヒダ)人に対する守備隊が駐屯していたと考えられる。
439: 07/01(月)17:03 AAS
『魏志倭人伝』における「卑奴母離」と「夷守」
『魏志倭人伝』によれば、邪馬台国に属していた北九州の対馬国、一支国、奴国、および不弥国には、「卑奴母離」(ヒナモリ)と呼ばれる副官が存在しました。これらの国々は邪馬台国の海外交易ルート上に位置しており、外敵や海賊から領土を守るために置かれた男性軍事的長官の称号と考えられています[2]。
この「卑奴母離」は、奈良時代以降の「夷守」(ヒナモリ)と同音と見られますが、上代特殊仮名遣における「モ」の発音は、「夷守」では甲類なのに対し、「卑奴母離」では乙類であり、音韻的に差異が見られます。
考えられる可能性としては、「卑奴母離」が『魏志倭人伝』における誤記であるか、あるいは「夷守」の「モ」が弥生時代には乙類の発音で、奈良時代までに甲類の発音に変化したという説があります。また、「卑奴母離」と「夷守」が別の意味を持つ言葉である可能性も否定できません。
古事記では「モ」の甲類と乙類の区別が記されていますが、『日本書紀』ではこの区別は消失しており(乙類の発音は残っているものの)、奈良時代には「モ」乙類の発音はすでに消滅しかけていたと考えられています。
440: 07/01(月)17:05 AAS
ヒナモリ(卑奴母離、比奈毛里、鄙守、比奈守、夷守)は、3世紀から4世紀頃の日本の邪馬台国、ヤマト王権の国境を守備する軍事的な責任者の名称でした。後に地名、駅名、神社名などに残されています。また、ヒナモリの「モリ(守)」は、身分や役職を表すカバネとしても用いられました。
441: 07/01(月)19:28 AAS
AA省
442(1): 07/03(水)10:17 AAS
>>437
>筑前国、日向国、美濃国、越後国に残る「ヒナモリ」名は・・・邪馬台国の
>軍事的長がいたことを示唆・・・・・
>日向国の「ヒナモリ」は・・・実際に3〜4世紀に設置されていた役職名・・・・
美濃・越後地方にヤマト王権でなくて邪馬台国の軍事的長がいたという根拠は何なの?
日向地方の「ヒナモリ」役職が3〜4世紀設置という大胆な年代根拠は何なの?
下記Wiki記事の丸写しだが記事の正誤を吟味点検されてから転載しようね
443: 07/03(水)10:18 AAS
ヒナモリ
外部リンク:www.weblio.jpヒナモリ_ヒナモリの概要
444: 07/03(水)13:11 AAS
>>442
お前はいつも見えない何かと戦ってるんだな
病院池
445(1): 07/04(木)01:36 AAS
>>437
越後国が邪馬台国の勢力範囲の端であった?
越後国頸城郡「夷守郷」>>438一帯は『記』の記す八千矛神(大国主)の越沼河比売
求婚譚にみられるように邪馬台国の勢力範囲端などでなく日本海海流を利用して交流の
あった出雲勢力の勢力圏だったよ
その後7世紀中盤647〜648年にヤマト王権が越地方に沼垂柵・磐舟柵を相次いで設営して
東北地方に8世紀に北上して行ったよ
446: 07/08(月)02:31 AAS
アイスタイルは要するに
大人が頑張ってたやろ?
こっちのが丁度良い感じのやつ
画像リンク[png]:i.imgur.com
447(1): 07/08(月)11:17 AAS
>>445
邪馬台国の勢力範囲は謎に包まれ、出雲勢力の越後国進出も確証がない。沼垂柵と磐舟柵の築造時期も議論の余地があり、ヤマト王権の東北進出は8世紀以降と見なされている。
448(1): 07/11(木)21:00 AAS
しかし
生主てみんなそうだな〜
449: 07/11(木)21:10 AAS
抜けた瞬間にヤレヤレ売りしてる
ロマサガも終わりが見えてもある
450: 07/11(木)21:18 AAS
嵌め込み酷い
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