戦国時代の始まり?享徳の乱について (746レス)
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58
(1): 03/09(土)19:45 AAS
軍事面でのメルクマールとなった
文明三年から四年(1471~1472)にかけての古河争奪。
 
管領方は敵の本拠地を攻落占拠するという大戦果を上げながら僅か八箇月で御所方による奪還を許している。
詳細経緯は史料不足で不明とのことだが本当に不可解としか云いようがない。
それこそ五十子陣を空にしてでも総力を挙げて古河を確保し続けなければいけない局面だし、
小山、佐野、宇都宮までもが管領方になった情勢下では不可能ではなかった筈なのだが…。
 
同年に旱魃飢饉の記録が激増していることから見て軍勢の維持が困難になったかとも思えるがそれは御所方も同じこと。
軍事/政治意識の上で利根川を「超えられなかった」のか。
省2
59
(1): 03/11(月)10:17 AAS
足利荘とか新田荘が維持できなくて背後から補給線断たれる可能性を考慮したんじゃないの
これが大将の邪推なのか古河方の策略なのかは知らないけれど
60
(1): 03/13(水)02:02 AAS
>>59
黒田基樹氏の著書に拠ると、
古河攻略に先立つ文明元年(1469)八月には新田庄、翌文明二年(1470)五月には足利庄及び佐貫庄を管領方が制圧。
周囲の小山、佐野、宇都宮、桐生、岩松、…は管領方に転向済。

一見磐石に思えるが支配維持を困難にする要因が何かあったのかな。
それとも既に地域権力化していた古河御所をその地域=経済基盤から切断してしまえば早晩立ち枯れるだろうと踏んだか。
 
61
(1): 03/13(水)03:55 AAS
というか帰還は鎌倉でなくて古賀なんだな
鎌倉のほうがちかいのに
62
(1): 03/13(水)11:50 AAS
鎌倉は今川と近いしね
まだ早雲も今川方だし
武田や斯波の侵攻可能性もある
63: 03/13(水)18:56 AAS
>>61
そもそも足利成氏が乱の初期から古河を本拠地として選んだのは何故か。
それを考えれば容易に解る。

鎌倉に還っても経済基盤が殆ど無い。
周辺に御所直轄領が集中所在しているわけでもない。
國衆化した奉公衆が周囲を固めている強味もない。

軍事的には、
鉄板の管領方地盤である相模國で鎌倉と云う「点」だけ占拠しても防御困難。
自然地形が致命的に悪い。
強固な城館も無い。
省5
64
(1): 03/13(水)19:23 AAS
>>62
享徳ノ乱に於ける管領方の鎌倉制圧当時(文明三年[1471])、
伊勢新九郎盛時は荒廃の京都を彷徨う十六歳のガキであって未だ何者でもない。
やっと元服したかどうかの時期だ。
その生活には「関東」など1μmも存在していなかったろう。
盛時の駿河下向は長享元年(1487)を俟たなければならない。
 
65: 03/13(水)20:11 AAS
失敬。
史実の鎌倉陥落は六度だった。

・元弘ノ乱(北條高時←新田義貞 他)
・中先代ノ乱(足利直義←北條時行)
・南北朝動乱(足利義詮←北畠顕家)
・上杉禅秀ノ乱(足利持氏←犬懸禅秀)
・永享ノ乱(足利持氏←山内憲実 他)
・享徳ノ乱(足利成氏[不在]←扇谷持朝 他)
 
66: 03/14(木)03:46 AAS
北条時行は3度落としていても処刑されてるのはこだわりすぎたんかな
京も同様だから歴代足利将軍は危なかったら何度も逃げてる
67: 03/14(木)08:22 AAS
>>64
そんな若造が長尾景春と共闘するとこれが面白いな
68: 03/15(金)03:44 AAS
共闘しても負ける長尾景春
69: 03/15(金)03:51 AAS
一字拝領
主君の下の偏諱を、家臣の上の字に充てるのが基本なんじゃよ」
「主君の家の通字が下…つまり偏諱が上にくる大名の場合は、どうなるんですか」
「そういう場合は2種類の対応がある」
1、上の偏諱を与える
2、下の通字を与える
「1は、あまり例がない」
「そうだね。 古河公方がやってたけど…」
「あそこは、ちと特殊じゃからの…」
外部リンク[html]:ameblo.jp
省1
70
(1): 03/15(金)11:43 AAS
初代 足利成氏 1455年 - 1497年
2代 足利政氏 1497年 - 1512年
3代 足利高基 1512年 - 1535年
4代 足利晴氏 1535年 - 1552年
5代 足利義氏 1552年 - 1583年
- 足利藤氏 1561年 - 1562年?

高基が例外?
義氏も?
71
(1): 03/15(金)11:50 AAS
足利義輝(義藤)から藤氏が出来たが、それと対抗していた義氏は義の字を使うことによって格上を表そうとしてたのか
72: 03/15(金)21:29 AAS
>>70
足利高基の元服当初の実名は「高氏」だった。
等持院殿の初名と同じなのは流石に憚られるから改名したと云う経緯がある。
「基」が基氏に肖ったものであったかどうかは知らない。
 
些かスレチの度が過ぎるようだ。
73
(1): 03/16(土)18:43 AAS
足利政氏も尚氏にはしなかったんだな
74: 03/17(日)02:41 AAS
乱初期の享徳四年(1455)段階で島河原、分倍河原と惨敗して
特に後者では将領クラスが壊滅した管領方が、
同年のうちに大袋原、三宮原、更に穂積原と連勝して巻き返したのは殆ど越後上杉の関東進撃に拠るものだった。
この時点で享徳ノ乱の実態は純軍事的には利根川左岸vs越後上杉の構図になっていたとさえ云える。
しかもその主宰者上杉房定は関東介入の傍ら本国に於いては「戦国大名」権力構造の確立をも果たしている。
後年の房定子息顕定の山内入嗣まで併せて房定期越後権力体の画期性やこの大乱に於ける存在意義はもっと広く深く議論されなければならないものだと強く思う。
 
尤も、
当時の壊滅的な生産状況下ではかなり無理も重ねたのだろう、
次代上杉房能期に至って在地の憤懣を糾合した長尾為景の蹶起を招いてしまったのは皮肉と云うべきか。
省3
75
(1): 03/17(日)04:30 AAS
後代長尾氏に傀儡擁立されたりするスキがある間は戦国大名化に成功と言うには難しい気もするけど
生産性が低いと平和裏に分家を新設する余裕が無くて家督争いが発生しやすいのかもしれん
76: 03/17(日)18:06 AAS
>>75
貴論を否定はしない。
見方の分かれる所かな。
戦国大名化が不完全であるが故の「隙」か、
戦国大名化を急激に推進したが故の「歪み」か。
 
77: 03/17(日)18:15 AAS
>>73
おや?と思って調べたら足利義尚はアル中で父義政より早世、
古河政氏元服の頃は既にホトケか。
親不孝者。
 
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