戦国時代の始まり?享徳の乱について (745レス)
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431: 07/02(火)02:11 AAS
>>425
まだそんなスタート地点で迷ってるのですか?
432: 07/02(火)02:12 AAS
>>427
コピペやめてね。
グーグルで見つけた。
433: 07/02(火)02:16 AAS
さて、どうやらAIを用いる事に対する反論は無いようだな
では皆納得したようなのでテンプレに入れるとしよう
434: 07/02(火)02:17 AAS
>>425
そんなすぐにバレる嘘をつくから畿内説は嘘だってバレちゃうんだぞw
435: 07/02(火)02:19 AAS
>>427
ナイスジョークwww
436: 07/02(火)02:20 AAS
>>427
まるで漫画みたいで低品質だな・・・
437: 07/02(火)02:21 AAS
>>425
ワケわからん。
438: 07/02(火)02:22 AAS
>>426
ほんとそれなw
439: 07/02(火)02:25 AAS
>>425
タワケの雄叫び。
440: 07/02(火)02:31 AAS
おやおや
荒らしの勢いが増してる所を見ると>>425がヒットしちゃったか
いい加減な年齢なのに職業も家庭も持てなかった社会不適合者なんだろうがこんなことをやってる恥ずかしい自分を客観視もできないぐらいの低能だからそれも当然
441: 07/02(火)03:03 AAS
室町幕府は京都の将軍の権威=統治力という体制だったからな
足利義教のような強い人物が将軍で無ければ統治力が失われてしまう
これは韓国や中国といった中央集権体制を整えた国々からみたら丸で政府の体をなしていない
442(2): 07/02(火)03:09 AAS
今川、越後上杉は動いたがあとの小笠原や奥州諸豪族は笛吹けど踊らずで
443: 07/02(火)03:10 AAS
>>442
更に斯波に至ってはそもそも幕命を奉ずる気さえない、と。
本気本腰でその状態だったわけだから、
それが幕府の「最大限」だったと断定して可だろう。
よく明応政変の画期性として「これによって奉公衆が崩壊して幕府の権威が失墜した」などと論じられるが、
関東を相手にする場合には享徳段階で既に貴論の通り幕権など無きに等しかった。
荒廃して行く社会状況に何ら有効な政策を打ち出せない以上は当然だが。
444(1): 07/02(火)03:36 AAS
山内憲忠謀殺の直前、
享徳三年(1454)十一月二十三日(M8.4、東日本大震災と同型のプレート境界型地震とみられる)と十二月十日(前記の余震か)の二回だな(『王代記』『大宮神社古記録抄』『鎌倉大日記』他)。
黒田基樹氏はその影響について;
・世上の混乱、対立勢力間の疑心暗鬼による強迫観念から暴力の発動が促進されたか
・足利成氏が対立する山内憲忠を易々と召喚できたのは「震災対策協議」という口実によるものか
−−と考察している。
東日本大震災直後の状況を想起すれば影響はもっと広範囲、具体的、且つ激甚なものであったことは確実だが、
史料が乏しい為にこれ以上のことは推断し難い。
省4
445: 07/02(火)03:38 AAS
おっと、日本史板にもスレ乱立荒来襲か。
アーカイブ保存&対策
446(1): 07/02(火)03:43 AAS
「享徳の乱」は、15世紀半ばの関東地方で起こった、室町幕府8代将軍・足利義政の時代を代表する戦乱です。1454年(享徳3年)から1482年(文明14年)までの約30年間、断続的に戦闘が続き、関東の秩序を大きく乱しました。
この戦乱は、単なる権力争いではありませんでした。鎌倉公方・足利成氏と関東管領・上杉憲忠の対立を皮切りに、多くの武将たちが巻き込まれ、複雑な人間ドラマが繰り広げられました。
447(1): 07/02(火)08:02 AAS
要するに「今そんなことしてる場合じゃないだろ。後回しにしてくれよ」と言いたいわけだな。
災害や飢饉に関する年表などを調べてみると、その理由がよくわかるだろう。
「各地で戦乱が起きていた」という状況の根本原因が、さらに深刻化していたと推測される。
時代は>>3で書いたような惨状が当たり前で、領地の人々は生きることさえ困難な状況だった。
その上、永享の乱や結城合戦などと言った戦乱で、人や物資、金銭を徴収された大名たちの領国は荒廃し尽くしたことは想像に難くない。
省4
448: 07/02(火)08:21 AAS
1447年(文安4年)、14歳の遺児である永寿王は、鎌倉公方を継承し、鎌倉へ下向しました。これが後の足利成氏です。しかし、成氏は父・足利持氏を殺害した上杉家を憎んでおり、関東管領・上杉憲忠(父は上杉憲実)との関係改善は叶いませんでした。
山内上杉氏では、若年の上杉憲忠に代わって、長尾景仲が関東管領代として政務を執っていました。一方、扇谷上杉氏では、上杉持朝が上杉憲実派の中心人物として家督を嫡子・上杉顕房に譲っていました。顕房も若かったため、太田資清が政務を代行していました。扇谷上杉氏の勢力基盤は南関東にありました。
対する足利成氏は、反上杉勢力である結城氏、小山氏、宇都宮氏、佐竹氏、千葉氏らの奉公衆と結んで北関東を基盤としていました。
449: 07/02(火)08:22 AAS
1450年(宝徳2年)、上杉氏の有力家臣であった長尾景仲と太田資清らは、足利成氏の御所を襲撃しました。これが、江ノ島合戦と呼ばれる戦いです。この戦では、千葉氏は成氏側に参陣していました。戦の結果、長尾一族の所領は没収されます。上杉憲忠は、この状況を「家臣の謀反である」と成氏に訴え、両者の間で和睦が成立しました。
450: 07/02(火)08:26 AAS
1454年(享徳3年)、和睦が成立したものの、関東管領の上杉憲忠は長尾一族の所領返還を鎌倉公方の足利成氏に嘆願しましたが、成氏はこれを許可しませんでした。そこで、長尾景仲は寺社の所領を奪って一族に与えました。
成氏は景仲の処罰を憲忠に要求しましたが、憲忠はこれを拒否しました。
12月、上杉側の陰謀が密告されると、成氏は家臣の多賀谷氏家と結城成朝に命じ、300騎で突如上杉憲忠邸を襲撃しました。憲忠主従22人は防戦空しく討ち死にました。ここに、30年間にわたる享徳の乱が勃発しました。
上杉側は京都に使いを送って「足利成氏討伐軍」の派遣を要請し、成氏も「京都に対しては謀叛の意図はありません」と釈明の使者を送りました。しかし、幕府は「成氏が私的な恨みから憲忠を討った」として、成氏討伐を決定しました。
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