戦国時代の始まり?享徳の乱について (740レス)
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32
(1): 02/29(木)01:09:23.16 AAS
享徳三年(1454)十二月二十七日、足利成氏による山内憲忠謀殺。
以後三十年に及ばんとする大乱の火蓋を切った一挙は、
これに接する同年十一月二十三日と十二月十日、二度にわたって関東を襲った大地震と津波に誘発されたものと謂われる。
 
寛正期(1460~1466)から文正期(1466~1467)に顕著な有力國衆の帰趨動揺は、
>>28に書いた如く寛正大飢饉によって規定されたものである蓋然性が想定される。
 
文明九年(1477)春先、
太田道灌は豪雨による多摩川氾濫で対長尾景春戦略の変更を強いられたが、
結果としてこれが道灌の神憑りとも云うべき驀進を生んで行くことになる。
省9
80
(1): 03/21(木)00:02:19.16 AAS
>>79
北條の江戸重視や徳川の江戸選択の理由は今や広く認識されている(と思う)し、
小生もそれについては他スレに書いたが、
その過程で色々調べるうちにやっぱり「太田道灌の江戸」の存在の大きさを痛感した。
 
俯瞰すれば享徳ノ乱こそが江戸城の、そして江戸なる都市の生みの親だったことは争えない。
しかし前線軍事拠点と云う位置付けは江戸の巨大なポテンシャルを考えれば「制約」でしかなかった。
それを漸く解き放ち始めた道灌に、しかし残された時間は少な過ぎた。

その夢の跡を承継した北條徳川は江戸を壊すことなく育て上げた。
この史実を以て道灌も僅かに慰められたものと思いたい。
150: 03/29(金)01:15:35.16 AAS
将軍が似合うかわからんのでチェックだのを見直す
自炊するとでも、悪用される可能性も思い描く
390: 06/24(月)18:35:57.16 AAS
北条家に当たるものや織豊時代に当たる武力が無かったからじゃない?
395: 06/25(火)00:20:21.16 AAS
その論で行くとそう気候が変わらない中国や朝鮮に共通項は無いのか?
勿論地政学的違いから状況は違うとは思うが
456: 07/02(火)08:35:08.16 AAS
1473年(文明5年)、扇谷上杉氏では上杉定正が当主となりました。執政は太田道灌です。

一方、山内上杉氏では上杉顕定が当主を務めていました。執政は長尾忠景です。
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