【日本史】GHQに焚書された書籍 (542レス)
1-

410: 2024/11/03(日)00:40 AAS
>>205
小笠原壱岐守の小倉城の戦いはここにもあるけど、手紙では幕府優勢に見えるがボロ負けだったんだな。
411: ブログ転載 2024/11/03(日)11:46 AAS
p844
七月三十日、日本新聞は英国公使が征長に関し局外中立を布告した理由を報じる

〔尊攘録新聞紙並びに夷情探索など〕

日本新聞第五十二号
西暦一千八百六十六年九月八日
我が国の慶応二年七月三十日

日本政府がドンバルトル船を買う価格が十八万元の理由である

○英国ミニストル〔※公使〕布告
この度長州征伐が始まりますにつけ、日本在留の英人は、一千八百六十五年三月九日の会議にて定めました規則中、左の箇条を厚く心得るべし。
省12
412: 2024/11/03(日)11:51 AAS
他国の戦争に参加したら罪人になるけどそれを隠して長州征伐を煽る壮大な後出し
413: 2024/11/03(日)14:53 AAS
何が怖いって薩長と欧米の都合のいいように歴史が隠蔽されているのを歴史学者も皆黙っている闇。
司馬遼太郎はそのカリスマ的作家性を存分に使ってプロパガンダを行った側の人間と思う。日本人は朝鮮半島から来たと力強くプロパガンダもしていたし。
荘村の手紙にも外国の船に乗って北京に密航した人の話があったから、龍馬の空白の三ヶ月間密航説は信憑性ありそう。
薩摩と長州が戦争吹っ掛けて幕府が払った賠償金はどこに行ったのか?と考えると、朝鮮が日本へ支払った賠償金が親日の朝鮮人に流れたように、幕府が払った賠償金はそのまま薩長へ流れたのではないかと予想。
414: 2024/11/03(日)17:47 AAS
>>1
以上>>361-『肥後藩国事資料巻六』転載終わり

>>4
以下『高等小学国史新指導書』の続き
第五十二 北清事変と日英同盟
415: 2024/11/04(月)08:04 AAS
p246 第五十二 北清事変と日英同盟

学習目的

北清事変の始めから終わりより、第一次日英同盟が締結される次第を学習し、我が国が東洋平和の中心であり、世界に重きをなすに至った国家的発展を主として、認知感得させたい。

学習事項

(一)諸外国は清国に利権を求める
省3
416: 2024/11/04(月)15:09 AAS
野心を包蔵しながら列強の意向を憚っていたロシア国は、これを視て、直ちに軍艦を派遣して旅順口を占領し、清国がドイツに許したと同じ条件で、旅順・大連の租借を要求した。英国はこれに抗議を申し込んだが、結局三十一年三月二十七日、期間二十五年で租借条約が成立した。
こうしてこれを放任する時は、ついに列国の清国分割という勢いに導かれるであろうとも見られたので、米国政府は清国の領土保全と門戸開放との必要であることを宣言し、三十二年九月には、英・露・独・仏及び我が国に同意を求めた。清国の内地を開放して列国通商の公市場とし、かつ清国の領土の保全を原則とする主意であったから、列国は直ちにこれを受け容れたが、北清事変勃発のために一の空文に帰してしまった。

(二)義和団の乱

だから清国民の間には、これら諸外国の圧迫を憤る者が多く、したがって排外の思潮が強く起こり広がるようにして巻き起こった。ちょうどその時、明治三十二年三月山東省の一角に、義和団または拳匪と称する一団が現れた。彼らはいずれも義和拳と称する一種の体術を備え、これがあれば弾丸も刀剣もその人の身体を傷つけることができないと言い、保清減洋を標榜して、キリスト教徒を虐殺し、教会堂を壊して勢いを逞しくした。翌三十三年四月から五月にかけては、直隷省においてあらゆる乱暴狼藉を加え、天津の外国人居留地を襲い、やがて官兵も加わって北京を囲み、ドイツ公使ケットレル及び我が国の公使館書記生杉山彬を殺害するに至った。
417: ブログ転載 2024/11/04(月)22:13 AAS
AA省
418: ブログ転載 2024/11/05(火)12:22 AAS
p250
(四)日英同盟

ロシア国は三十一年三月遼東半島における旅順・大連の地を清国から租借するに及んで、満州の経営に忙しく、しばらく鉾を韓国に収めて大いに我が国に譲り、翌月第二の協商は東京で成立した。

第一条
日露両帝国政府は韓国の主権及び完全な独立を確認し、かつ互いに、同国の内政上には総じて直接の干渉を行わないことを約束する。

第二条
将来において誤解を来すというところを避けようとするため、日露両帝国政府は韓国が日本国もしくはロシア国に対し、勧言及び助力を求めるときは、練兵教官もしくは財務顧問官の任命については、まず互いにその協商を遂げた上でなければ、何らの処置を行わないことを約定する。

第三条
ロシア帝国政府は韓国における日本の商業及び工業に関する企業が大いに発達させること、及び同国居留日本国臣民が多数なことを認めるのをもって、日韓両国間における商業上及び工業上の関係の発達を妨害してはならない。
省3
419: ブログ転載 2024/11/05(火)15:36 AAS
p252
すぐに北清事変は局を結ぶも兵を撤退させず、密かに清国に迫ってこれを領有しようとし、ついに韓国を威圧して独立を危うくするという観があり、東亜の不運は甚だ急であった。
この時に当たり、英国は東洋に広大な領土インドを有し、しかも支那においては商業上莫大な利益を有していたから、清・韓両国の領土及び主権を保全尊重し、その門戸を開放させ、東洋の平和を保つことにおいては日英はその所見を同じくするところであったから、ついに日英同盟を締結するに至ったのである。
日清戦争の頃は、英国は、日本よりも清国の贔屓をしたものであったが、彼の国は日清戦争や北清事変によって、我が国力が信頼するに足るを知り、ついに自ら称して「光輝ある孤立」の歴史を捨てて、しかも黄色人種である我が国と同盟するようになった。
我が国の政界ではまた、ロシア国の東方経路が進行するや、日露協約か日英同盟か、親露か親英かの議論がやかましかった。伊藤・井上はむしろロシアと協約を結んで東洋の平和を確立した方がよいといい、桂・山縣は英国と結んでロシアを退けた方がよいといっていた。そのうち伊藤はロシア都を訪問することになった。英国はこれを見て、にわかに動き出し、積極的に交渉を始めだした。時は桂内閣であり、元老の支持があり、伊藤も反対しないようになったので、日英同盟は成立したわけである。
この同盟は明治三十五年一月三十日に調印され、日英両国のいずれかが、他国と交戦する場合、一国は厳正中立を守り、もし敵国に他国が加勢する場合には直ちに協同戦闘に当たるという日英防御同盟で、有効期間は五年であった。
この同盟は列強の注意をひいたことは言うまでもなく、独仏同盟が東洋にまで、その範囲を拡張して、新しい均勢を保とうとしたくらいであった。
やがて日露戦争に当たって、この同盟は、よく日仏の協同を食い止めて、我が国の地位に千鈞の重みを加えたことは争われない事実であった。

※千鈞=非常に重いこと。極めて価値が高いこと。
420: ブログ転載 2024/11/05(火)18:47 AAS
p253 学習参考

(1)挿絵解説

「貴族院における日英同盟の発表」は聖徳記念絵画館画題考証五姓田芳柳筆に拠ったものである。明治三十五年一月三十日、日英同盟はイギリス京ロンドンで調印されたので、明治三十五年二月十二日、折しも開会中の第十六次帝国議会の貴族院において、内閣総理大臣桂太郎が発表している光景である。議長は近衛篤麿、議長席の後ろが玉座で、玉座の左右は、親王、国務大臣、その他の高官、手前は議員である。何分「名誉ある孤立」と称した英国と同盟したことであるから、桂総理が発表した時には、盛んな拍手が送られて、桂内閣はゆえに強固を加えたといわれている。ちなみに衆議院の方では外務大臣小村寿太郎が発表した。ちなみに英国では加藤高明公使の時代から、日英同盟の問題が次第に事実問題として取り扱われるのに至っていたが、明治三十二年四月林薫が加藤に代わって駐英公使となって以来、もっぱらこの事に全力を尽くし、ついに成功したものである。

(2)指導要領

欧米の東洋政策は何を目的として、どのように行われたかを明らかにし、かつそれを十分に批評する。
この東洋政策に対する、支那・朝鮮及び我が国の態度を明らかにして、それぞれ批評する。
かねてから支那・朝鮮と我が国との関係を明らかにし、我が国が東洋平和の中心に立っていたことに、よく注意させる。
こうして我が国の「発展」について十分認知感得させると共に、国家的発展と国際生活の関係を考察させる。
結局はインターナショナリズムを背景としたナショナリズムを展望させるのである。
この国際国家として発展させようとするには、内には文化の総合発展がなければならないことも心得させたい。
省3
421: ブログ転載 2024/11/06(水)07:10 AAS
p255 第五十三 明治三十七八年戦役

学習目的

明治三十七、八年戦役の始めから終わりにつき学習し、国家的発展の認識を中心として、道徳その他文化の総合的発展の事を暗示する。

学習事項

(一)ロシアとの交渉
省7
422: ブログ転載 2024/11/06(水)11:48 AAS
p257
ここにおいて我が国論はいよいよ高調に達したので、我が国の政府は彼の国我が国両国の利害の触接点である満韓両地において、相互の利益を友誼的に調理し、東洋の和局を恒久に維持するつもりのことを期し、我が国が、ロシア国の満州における特殊な利益を承認すると同時に、ロシア国に韓国における我が国が優越な利益と、我が国が韓国の改革善政のために助言助力を与えるつもりのことを承認させようと希望した。それなのにロシア国は我が国の希望を受け容れず、満州及びその沿岸は、すっかり我が国の利権範囲の外であるようにさせようとしただけではなく、韓国における我が国の行動についても、種々の制限を付し、さらに北緯三十九度以北の韓国領域をもって、中立地帯とあるようにさせようと主張した。このように、両国の要求は懸絶して、交渉は歳を重ねて決せず、栗野公使が我が国の意思を伝えること三回、彼らに何らの誠意なく、旅順の備えはますます固められるばかりで、我が国においてはロシア国の暴状に対しては世論囂々の有り様であった。
ついに我が国では妥協の余地がないのを悟り、三十七年二月四日御前会議は開かれて、開戦の議は決し、翌五日各大臣は参内して国交断絶後の処断について各自奏上した。この日外務大臣小村寿太郎は、国交断絶の通牒と、これに付帯する訓令を栗野公使に訓電した。二月六日午前二時、公使はこの内容をロシア国政府に通告して、公使館の旗を下ろした。同じ時刻に東京では、小村外務大臣がローゼン公使を訪い、最後の会見を遂げ、外交断絶の通牒を手交した。日露のことが起こってから両人が会することは十六回、会商は十三回を重ねたがついに妥協を得ることはできなかったわけで、ここに戦は始まったわけである。
このとき佐世保にいて命令を待っていた連合艦隊は、六月威風堂々と出動し、八日夜旅順港外に達し、九日午前零時半には、早くも水雷を発射して三艦を傷つけ、九日未明からはさらに数艦に損害を与えた。この日仁川方面においては敵艦コレーツ・ソリヤークを沈没させた。
こうして二月十日宣戦の詔勅は下され、十二月大本営は置かれた。宣戦の詔勅には戦争のやむなき理由をお述べになっている。
423: ブログ転載 2024/11/06(水)15:35 AAS
p258
すなわち「帝国の重きを韓国の保全に置くのか、いや、一日のためだけではない。これは両国累世の関係に因るだけではなく、韓国の存亡は実に帝国安危の繋がるところであるからだ」とか「ひょっとして満州はロシア国の領有に帰すだろうか、韓国の保全は支持するのに理由がなく、極東の平和はまた始めから望んではならない」とか「時すでにここに至る、帝国が平和の交渉によって求めようとした将来の保障は、今日これを軍旗と太鼓の間に求めるの他はない」とか仰られている。
ロシア国皇帝の宣戦詔勅も同日に発せられた。その詔勅には「日本は朕が我が国の政府が最近回答において行った提議に接するのを待たないで、ロシア都との商議及び外交関係の断絶を通知して来て、この外交関係の断絶はすなわち軍事行動の開始を意味するとの予告を与えることなくして、日本政府はその水雷艇を使って、旅順の砲台の外にあった朕の艦隊を突然襲撃したのである。よってロシア国はやむなく宣戦を布告する」と言って挑戦の責任を我が国に仮そうと努めている。
しかし列国は、むしろロシア国艦隊の怠慢を責め、日本水雷艇の夜襲に備えがなかったのを嗤った。公使館の旗を下ろした時に戦ってもよいのである。これは国際上、十分に認められていることなのである。

(二)我が軍大勝する

(1)陸軍の進撃

二月八日我が国の陸軍はまず第十二師団の一部を動員して仁川に上陸させた。二月二十七日大同江を踏んで平壌に入り、二十八日我が国の将校・斥候は敵兵五騎に追跡され、彼の国我が国の距離二百mに示されようとするや、七星門外にあった吉村中尉の一分隊は撃破してこれを退けた。これが陸軍開戦の始めである。
そのうち近衛・第二・第十二師団をもって第一軍を組織し、司令官黒木為禎(タメモト)大将がこれを率い、三月二十五日鎭南浦に上陸して北進した。
424: 2024/11/06(水)22:01 AAS
p259
次いで第一・第三・第四師団を第二軍として司令官奥保鞏(ヤスカタ)大将がこれを統べて、五月五日大連の東北塩大澳に上陸して北進、陸軍中将川村景明の率いる第十師団は五月十九日、大弧水に上陸して、第一・第二軍の連絡をとって北進し、そのうち第二軍のうちの第一師団と新米の第十一・九師団と合わせて第三軍をつくり司令官乃木希典大将はこれを統べて旅順に向かった。後第二軍には第五・六師団を加えた。六月二十二日には陸軍大将大山巌が満州軍総司令官に任じられ、台湾総督児玉源太郎が総参謀長となった。次いで川村景明の第十師団及び第二軍中の第五師団をもって第四軍を編成して司令官野津道貫大将がこれを率い、析木城を占領して北進した。
こうして全線敵をやぶって、第一・二・四軍が協力して九月四日遼陽を占領し、十月九日激戦して沙河に勝ち、この時から泰天に向けて敵を追った。

(2)海軍の活動

海軍はその主力を三艦隊に分かち、第一艦隊は海軍中将東郷平八郎、第二艦隊は同中将上村彦之亟、第三艦隊は同中将片岡七郎、第四艦隊は海軍少将瓜生外吉、それぞれ司令長官となり、次いで第一・二艦隊をもって連合艦隊を組織し、後には第三艦隊も加わり、東郷平八郎は総司令長官となった。
我が国の艦隊は国交断絶と共に二月六日佐世保を出発し、七日早暁朝鮮沖の南西で商船ロシア号を捕らえ、この時から瓜生第四艦隊を仁川へ向かわせ、東郷第一艦隊は旅順を去る六十海里において、九日午後敵艦三隻を損傷させ、二十日午後敵の戦闘艦四隻、巡洋艦三隻の戦闘力を奪った。この日仁川では敵艦二隻を撃沈した。この時から東郷司令官は旅順に閉塞を企て二月二十四日第一回敢行、三月七日第二回閉塞において広瀬中佐がたおれ、五月三日には第三回閉塞と相まって、旅順背面の陸軍の攻撃は猛烈を極め、八月十日敵艦が大挙してウラジオストックヘ逃れようとしたので、我が国の艦隊は追跡して、旅順港沖約三十海里の地点で午後一時五十分から二時間の激戦を行い、敵の提督ウィットゲットを倒し、敵艦は算を乱して逃走、膠州湾・上海・柴棍に逃げ走って武装を解いた者各一、樺太へ逃れて沈没した者一、桑港へ逃げた者一、残艦は旅順に逃れ帰ろうとしたが、これらも我が国の攻囲軍の間接射撃によって撃沈された。これを黄海の戦いと言う。
425: ブログ転載 2024/11/07(木)12:07 AAS
p261
黄海の戦いに遅れること四日、ウラジオストクにあった大暴行艦隊は蔚山〔※ウルサン韓国南東部〕沖に現れた。これは巡洋艦四隻、仮装巡洋艦一隻、水雷艇十隻以上あり、旅順艦隊と声息相通じ、ひそかに我が国の近海に現れて金州丸や常陸丸を撃沈するとか、国民は大いに激昂し、上村艦隊を批難する者さえいたので、上村艦隊は切歯扼腕、苦心惨憺(さんたん)時を待っていたのであるが、八月十四日その艦隊を発見したのであるから、勇躍してこれを打ち、五時間くらいでリューリックを撃沈し、ロシア・グロモボイの二艦に多大な損害を与えたので、敵はウラジオに逃げ帰った。この時敵が溺死するだろうとする者は、将卒六百人以上、これを救助して我が国の艦隊に収容したことは、世界に我が国の博愛の行為に感じさせたものである。これを蔚山沖の海戦というが、こうして東洋の海洋権は我が国の軍の手に掌握することができた。

※切歯扼腕=はなはだしく怒り、非常にくやしく思うことの形容。「切歯」は歯ぎしり、歯をくいしばること。「扼腕」は自分の腕を握りしめること。
426: 2024/11/07(木)12:10 AAS
太平洋戦争の宣戦布告は、アメリカにいた日本の領事館の職員が送別会だかで開戦の電報に気づかず、真珠湾攻撃後の50分後に宣戦布告をしたそうだけれど、その失態がテヘペロで済まされたならアメリカの工作員を疑う。
427: 2024/11/07(木)14:52 AAS
p261
(3)旅順の開城

陸軍大将乃木希典の率いる第三軍は六月剣山を抜いて、我が国の大連湾の根拠を固め、七月旅順要塞の前進陣地を攻略して敵を掃討し、八月ついに本防御線を包囲した。そこで八月十一日、明治天皇は要塞内にいる非戦闘員に命じて銃火の惨害を免れさせなさるつもりの旨を伝えなさる。我が国の軍はこの聖旨を彼の国に伝えると共に、勧降状をも交付したが、敵将ステッセルはこれを拒絶したので、この時から数回の総攻撃を行うことになった。
第一回の総攻撃は八月十九日から開始され、二十四日に至り盤龍山・高崎山その他を占領したにすぎなかった。
第二回は九月十九日から始め、クロバトキン砲台及び水師営砲台を占領した。
第三回は十月二十六日から始め、一戸砲台を抜いて肉薄した。
第四回は十一月二十六日から始め、十一月三十日二〇三高地を占領し、十二月九日東鶏山北砲台、二十八日二龍山砲台、三十一日には松樹山砲台をいずれも奪取し、この時から要塞内に突撃しようとする準備は成った。
ここにおいて守将ステッセルはどうにもすることができず、三十八年一月一日親書を乃木大将に致して降伏するに至った。二日開城規約に調印、明治天皇はステッセルがよく国のために尽くした忠節を嘉して、武士の面目を保たせることが相応しい御旨を伝え、城中の将校には特に帯剣を許しなさり、ステッセルは捕虜となって我が国に来た。有名な水師営の会見はこの五日に行われた。
こうして我が軍は十日、要塞の全部の受領を終えて、入城の式を挙げた。この戦において敵の捕虜は約二万四千、我が国の死者一万五千人、多くの犠牲を払って、彼の国が難攻不落といった旅順の要塞を陥落してしまった。
428: ブログ転載 2024/11/07(木)18:35 AAS
(4)泰天の大戦

沙河会戦の後は満州の極寒のために、我が国彼の国は渾河を隔てて対陣するだけであったが、彼の国は第三軍の北上に先だって南下するという策に出て、一月二十八日大挙して逆襲してきたので、我が軍は苦戦の後、これを撃退したのが黒溝台の戦いである。すでに旅順を陥落した第三軍は第十一師団を旅順にとどめて北上して最左翼となり、奥軍は左翼、野津軍は中央、黒木軍は右翼、鴨?麹]軍川村大将は最右翼となって泰天包囲の形成が完全に成ったのは二月八日以後であった。この時我が軍はおおよそ四十万、砲一千門、ロシア軍の数約六十万、砲一千三百門、戦線四十里、有史以来の大戦が行われた。三月十日敵将クロバトキンは北方に逃れて、捕虜四万人以上、敵の遺棄死体二万六千、傷者九万人、我が国の死傷は四万人であった。ここにおいて南満の全野は我が国の所有に帰したのである。陸軍記念日はすなわちこの日を記念するのである。
429: ブログ転載 2024/11/08(金)07:21 AAS
(5)日本海の海戦

ロシア国はついに空前の難事業と目されたバルチック艦隊の東航をくわだてた。
三十八隻からなる大艦隊、大小合わせて七十隻以上、明治三十七年十月十六日、ロジェストウェンスキーを提督として、本国リバウの港を出発し、東上して、三十八年五月二十七日対馬海峡に向かって進んだ。ウラジオへ入ろうとするのであった。我が国は午前五時これを発見し、午後一時五分東郷司令長官は戦闘開始を命じて有名な信号を掲げて士卒を励まし、二時二十五分旗艦三笠はまず火蓋を切って、この日のうちに勝敗の数がすでに定まり、翌二十八日戦いを継続し、ウラジオストクへ逃げた敵艦はアルマズと称する小艦他二隻であった。しかも我が国が失ったところは水雷艇三隻だけ。敵の捕虜ロジェストウェンスキー・ネボカトフ以下六千人以上、戦死四千三百人、我が国の死傷六百五十人であった。東郷長官は神霊の加護によるもの、天祐を保持したものと感慨無量言うところをしらなかった。こうしてこの戦いは世界海戦史上不朽の名誉を残して終った。
別に我が国は陸海軍協同のもとに七月七日樺太に上陸し、八月四日全島を平定した。
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