【日本史】GHQに焚書された書籍 (542レス)
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474: ブログ転載 [sage] 2024/11/16(土) 13:04:53.72 p303 (2)指導要領 この教材などは高等科独自のもので、少し時間を余計にかけても、詳しく取り扱っておきたいものと思う。 各種文化の内容、その発展経路をわからせるばかりでなく、その奥底を流れる思想の体勢を掴ませ、これを善導して、将来の児童を導かなければならないと考える。結局は「世界文化に貢献できる日本独自文化の創造」ということを展望させたいものである。 国防と平和、物質と精神、自然科学と精神科学、現実主義と理想主義、写実主義と観念主義、個人主義と協調主義、洋と和、外来と固有、これら相対する生活を一元に繋ぐ新しい生活を発見させるところに、この教材取り扱いの要点があるように思う。 取り扱いとしてはまず郷土の文化現象に着眼させる。その他の環境の力をも使って現生文化史的考察に遡ればそれでよい。この考えで指導していけば、現在及び将来とかけ離れることはなかろう。労作的に取り扱う部分も甚だ多い。いつも児童自ら何をなすかに注意を払うことが極めて大切である。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/474
475: 日本@名無史さん [sage] 2024/11/16(土) 15:33:54.75 p304 第五十六 明治天皇の崩御 大正天皇の即位 学習目的 明治天皇及び昭憲皇太后の崩御につきわからせ、御霊徳を偲び申し上げ、皇室に対する国民意識を喚起し、大正天皇の践祚と即位を学習して国体観念を強め、国運の無窮と国民の幸福を認識させる。 学習事項 (一)明治天皇崩じなさる 明治の大御代はすでに四十五の歳月を重ね、国運はますます盛んになるちょうどその時、思いがけず天皇は御病におかかりなさる。 天皇は御幼少の頃はあまり御壮健と申す程でもおありにならなかったが、中頃から極めて御壮健におなりなさったもので、御身長五尺八寸、御体重二十八貫もおありになった。 ところが明治三十七年来、糖尿病にかかりなさり、三十九年一月には慢性腎臓炎を御併発、しかも御政務はますます御多端であったために、十分に御休養も遊ばされなかった。その後御病は一進一退の状態でいらっしゃったが、四十五年七月十四日御胃腸病にかかりなさり、十五日から御嗜眠の傾向を拝し、以来最善の御手当てと、国民熱誠の祈祷もその甲斐なく、ついに七月三十日午前零時四十五分崩御におなりになったものである。御実算六十一でいらっしゃった。 明治四十五年七月十四日宮内省の御容体書が一度発表されるや、国民の驚愕は一方ならず、全国津々浦々御平瘉の祈祷が行われ、わけて宮城二重橋前の大広場は盛んであった。六千万臣民が神に仏に祈願した甲斐もなく、ついに遠い天に御登りになったと聞いた国民の悲嘆は言語に絶し、市人は市で哭し、野人は野で泣いた。諸外国もまたみな深厚な哀悼の意を致した。世界の新聞は筆を揃えて「偉大な君主を失った」とか「比類まれである大皇帝」とか「天皇の御名は永遠に人類の記録にとどまるはず」とか述べて弔意を表した。 (二)大正天皇践祚しなさる 天皇が崩御しなさるや、皇室典範第十条の明文に則り、皇太子嘉人親王は直ちに践祚しなさり、明治天皇が定めなさった一世一元の制によって、この日以後を大正元年と改められる。慶応四年の場合は、この年を改めて明治とするというのであるが、この場合は異なっている。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/475
476: ブログ転載 [sage] 2024/11/16(土) 16:10:37.90 p305 (三)明治天皇の御大葬 八月二十四日先帝に御追号を奉って明治天皇と申す。ついで九月十三日御大葬の儀を行わせ、午後七時三十分、天皇の御霊柩は宮城をおいでなさり、青山練兵場に設けた葬場殿に安置、列国の元首から遣わされた名代の皇族または特派使節も参列して、ここに荘厳な祭典が行われ、天皇は御霊前に進んで御誄詞を奏上させなさった。その翌十四日午前二時霊柩は列車移御、青山仮停車場を出発し、同日午後五時十分桃山仮停車場に着き御遊ばせ、十五日午前九時十五分悲雨降りしきるうちに、御斂葬のことは完全に終わった。御陵は伏見桃山の陵と申し上げる。 我が国は神武天皇から孝元天皇までは陵制といって定まってはいなかったが、開化天皇から敏達天皇までは前方後円の陵制であった。用明天皇以後はいわゆる円墳であったが、持統天皇より御火葬の儀がはじまり、平安時代に入って盛んとなり、陵制はもとのようではなかった。明治天皇が孝明天皇の陵を営まれるのに当たり、円墳に復古しなさった。後月輪東山陵はこれである。今度の明治天皇御陵は上円三段下方三段であるから、いわば上代の前方後円を上下に、すなわち立体的に組み合わせた意味にもなるから、古制に則って、新味を付せられたように拝される。ちなみに大正天皇多摩陵もこの式である。 伏見桃山陵の上円部表面は全部礫石でふかれ、これは瀬戸内海小豆島海岸より採集した光輝がある黒花崗石で、崇高森厳はいうばかりでもない。 (四)昭憲皇太后崩じなさる 国民は明治天皇崩御後一年間の喪に服した。この期間を諒闇というが、その間左胸に蝶形の黒布の喪章をつけて謹慎した。 そのうち先帝哀慕の涙がいまだ乾かないのに、大正三年四月十一日昭憲皇太后がまた崩御におなりになった。皇太后はかねて慢性気管支カタル及び腎臓炎の御疾患があったが、大正三年三月二十六日午後二時、沼津御用邸において、俄然強度の狭心症を発症され、以来御静養におありになられたが、四月九日再び激烈な狭心症を起こされなさり、十日東京に還啓、十一日午後二時十分心臓麻痺で赤坂御所に崩御におなりになられたのである。御年六十五でいらっしゃった。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/476
477: ブログ転載 [sage] 2024/11/16(土) 17:25:33.56 p305 国民は再び悲嘆の涙に暮れ、喪に服することは前と同じであった。やがて五月二十六日午前五時半、先帝御陵の東に葬り奉る。御陵は明治天皇の三分の二の御構である。伏見桃山東陵と申す。ちなみに陵(ミササギ)とは天皇及び皇后の御冢墓に言うのみである。 (五)国民の追慕 先帝及び皇太后のかぎりない御徳は申しても尽きないけれども、「おおよそ世界の文明史上この帝国の発展進歩ほど驚嘆すべき事実があることはない」とロンドンタイムスが報じ、「木造の帆前船と弓矢とをもって唯一の武器とした日本は明治天皇によって一躍鋼鉄の武装を施すに至る」とモスクワの新聞が言ったように、驚異的な発展を遂げた明治の盛世を創り出しなさったのが明治天皇である。今や明治の歴史を回顧すれば、いよいよ感慨にたえないものがある。特に天皇は日夕大御心を万民の上に寄せなさって、 とこしえに 民やすかれと 祈るなる 我が世を守れ 伊勢の大神(二十四年) 〔※永遠に国民が安寧であれと祈るのである我が世を守りたまえ伊勢神宮の神よ〕 千早ふる 神ぞ知るらむ 民のため 世を安かれと 祈る心は(二十四年) 〔※神はきっと知っているだろう、民のためにこの世を安寧にと祈る心は〕 照るにつけ 曇るにつけて 思うかな わが民草の 上はいかにと(三十七年) 〔※太陽が照っていても曇っていても考えるなあ、我が国の国民の身の上はどうかと〕 とお詠みなさる。 皇太后は左大臣一条忠香の三女でいらっしゃり、明治元年皇后に立ちなさり、終始明治天皇内助の御功を重ねなさり、わけて御仁慈の御心は深くおありになり、慈恵病院・赤十字病院に行啓になることは度々、またかつてワシントンで開かれた万国赤十字大会に十万円御寄付のことがあるなど、慈善の事業を進めなさることが多かった。皇太后はまた特に女学をすすめなさり、学校へ行啓になることは度々、明治九年二月次の詠歌を東京女子高等師範学校に下し賜る。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/477
478: ブログ転載 [sage] 2024/11/16(土) 18:12:36.37 p306 みがかずば 玉も鏡も 何かせむ 学びの道も かくこそありけれ 〔※磨かないならば玉も鏡も何者になるのでしょうか、学びの道もこのようでこそあることよ〕 明治二十年三月には華族女学校(学習院女学部)へは次の御歌を賜った。 金剛石 金剛石もみがかずば 珠の光はそはざらむ 人も学びて後にこそ まことの徳はあらはるれ 時計の針のたえまなく めぐるが如く時のまの 日かげをしみてはげみなば いかなるわざかならざらむ 〔※ダイヤモンドも磨かないならば、珠の光は増さないでしょう。人も学んだ後でこそ、本当の徳は現れる。時計の針が絶え間なく巡るかのように、つかの間の日陰に染まって励むならば、どのような行いが実を結ばないでしょうか。〕 水は器 水は器に従って そのさまざまになりぬなり 人は交わる友により よきにあしきにうつるなり おのれにまさるよき友を えらび求めてもろともに こころの駒にむちうちて まなびの道にすすめかし 〔※水は器に従ってその形は様々になってしまうという。水は交際する友により、良きにつけ悪しきにつけ染まるという。自分に優る良い友を、選び求めて一緒に、心の馬に鞭打って、学びの道に進めよ〕 また皇太后は御心を民草の身の上に注がれて、 花になれ みをも結べと いつくしみ おほしたつらむ やまとなでしこ 〔※花になれ、実をも結んで成功しろと、慈しみ養育する大和撫子〕 と詠みなさる。これは明治三十二年「教師」というお題でお詠みになられたものであるが、これはすなわち皇太后御みずからの御心であったのである。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/478
479: 日本@名無史さん [sage] 2024/11/17(日) 14:33:06.56 >>309 いかばかり 苦しかるらむ 日盛に 水まきぐるま ひきめぐる人(三十三年) 〔※どれほどに苦しいのだろう夏の午後に水まき車を引いて歩き回る人よ〕 にぎはへる 都大路を 盛る人は 心のやすき 時やなからむ(三十三年) 〔※繁栄する都大路を盛り上げている人たちは安心する時はないだろうか〕 戦いの 勝ちの便りを 聞くごとに み軍人の身を思うかな(三十七年) だから国民はおそれ多くも父母と仰ぎ申し上げ、御二方をまつっている明治神宮を参拝して、敬慕の念を集中させる者が日々に絶えない。 明治神宮は代々木にあって官幣大社、大正五年三月から工を起こし、大正九年に至るまで四年半を費やして竣工した。当時この宮の御造営は国民の世論となったもの神苑は実に二十二万坪、木曽檜または台湾阿里山檜を材とし、かねて日本建築を研究した大家伊東忠太博士がこれを設計し、その工をはじめるや全国青年団の努力奉仕がはじまり、国民の赤誠が凝って出来あがったものといってよい。国民の献木は十数万本、今や鬱蒼として神霊と共に荘厳を増している。 (六)大正天皇は即位の大礼を挙げなさる 大正天皇は明治天皇の第三皇子でいらっしゃり、明治十二年八月三十一日の御降誕で、権典侍柳原愛子の所生でいらっしゃる。御名を嘉仁と申し、御七歳までは中山忠能卿の邸にいらっしゃり、明治十八年青山御所に御移転、二十年九月はじめて学習院に御入学、二十二年一月三日、十一歳をもって立太子、明治四十五年七月三十日御践祚、三十一日文武百官を召して朝見の式を挙げ、勅語を下しなさる。時に御実算三十四におありになる。 この時から即位の礼を行わせられるのであるが、明治天皇が御制定になった登極令では、即位及び大嘗祭は秋冬の間において京都で行わせられることになっている。 そこで明治天皇の喪が終わったのは、大正二年七月三十日だから、この八月以後では御準備が出来なかったので、大正三年の秋に御決定になった。着々御準備を整えさせられるうち、大正三年四月十一日、昭憲皇太后がまた御崩御遊ばしたので、先の準備は中止ということになり、大正四年喪があいて、再び大礼の準備を行い、同年十一月十日をもって即位の大礼、十四日大嘗祭を京都の皇宮で挙げなさった。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/479
480: ブログ転載 [sage] 2024/11/17(日) 15:17:03.70 登極令による即位の大礼はこれがはじめてあって、今上天皇が第二回である。登極令によってなされる即位礼であるから、今上天皇の即位大礼と大体において同じことであった。従って未曾有の盛儀であったのである。 学習参考 (1)挿絵解説 「東京帝国大学に行幸しなさる」絵は聖徳記念絵画館書題考証、五姓田芳柳筆の内からとったもので、明治天皇最後の行幸でいらっしゃる。時は明治四十五年七月十日午前十時頃である。そして七月十四日には宮内省から御容体書が発表されているのだから、この頃は御病気を押しての行幸と拝察される。この日は東京帝国大学の卒業式に行幸になったので、図に見える門は、もとの加賀候御門で赤門である。これが帝大の門になっているから、赤門といえば東京帝大の表徴となっている。天皇の御馬車は今、赤門の前を御通過になって、帝大の正門に向かわれるところである。正門はこの時に新設されたものである。 「国民は天皇の御平癒を祈り申し上げる」絵は当時の写真によったもの。向こうには宮城〔※皇居〕御土居の石垣が見えている。そのこちらは御濠、そのこちらは鉄柵、女学生一団の御平癒祈願のところは広場である。明治四十五年七月十四日から三十日までは、宮城〔※皇居〕前は引きもきらず、こうした状態が続いたのである。国民精神の発露を味あわねばならない。 (2)指導要領 国体ということは主権がどこにあるか、主権と人民との関係はどうであるか。この二つの問題に答えればよいのである。 我が国の主権は万世一系の天皇にある。そして天皇と人民との関係は、義則君臣、情則父子ということになっている。これが我が国の国体である。 この教材などは明らかにこの国体観念の例証をあげているものと見たほうがよい。 すなわち明治天皇から大正天皇へ連繋する間隙のない皇位の厳存がこの教材にあらわれているし、また皇室が垂れなさった御恵みと、人民が捧げ申し上げる赤誠とが、ぴったり一致して日本が発展したこともあらわれている。 この理由で国体観念の養成をまともに追求してこの教材を取り扱えばそれでよい。 体験的な思い出話とか、当時の新聞雑誌その他当時の実感的伝承が環境となれば成功する。 ここで明治史をひとまとめにして、大正時代以後を展望させることもよいことである。 ※登極令=天皇の代替わりに関する旧皇室令 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/480
481: ブログ転載 [sage] 2024/11/17(日) 16:46:37.69 p313 第五十七 欧州の大戦とわが帝国の地位 学習目的 欧州大戦に加わった我が国の正義と活動について、皇太子が欧洲を巡遊しなさることがある。ワシントン会議に参加することがあって、我が国がいよいよ世界的に重きをなすに至り、戦後は外交の中心が東洋に移って来た中にあって隣邦と好を修め、極東平和の責任を果たしつつある点につきわからせ、我が国の国際的発展について認知感得させる。 学習事項 (一)欧州の大戦が起こる 明治の盛世を受けて大正の御世に入るや、たまたま欧州において、未曾有の大戦が勃発した。 この大戦は、いわば十九世紀文明の総勘定としてこれを葬り、国際関係を根本的に解体し、あらゆる生活に大変革を与えた有史以来の出来事であった。これはそもそもどのようにして起こったものであろうか。大戦の重大原因といわれるものは、 (1)英独の経済的・政治的世界政策の衝突 (2)ロシア・ドイツの経済的・政治的世界政策の衝突 (3)フランス・ドイツの旧怨及び殖民的利害の衝突 (4)各国における異分子の民族的統一の運動 この四つである。由来するところは遠くて複雑であるが、事の近因は、欧洲の伏魔殿といわれたバルカン半島において、大正三年六月二十八日、ボスニアの首府サラエヴォにオーストリア=ハンガリー国の世継ぎフランツ・フェルディナンド大公及びその妃が、セルビアの一青年ウリロ・プリンツなる者に暗殺させられたことにある。 この報が一度伝わるや、欧洲の人心は動揺し、七月二十三日オーストリア=ハンガリー国とセルビア、次いでロシア・オーストリア、ロシア・ドイツ、イギリス・ドイツ、日独の開戦となり、トルコが同盟軍に加わり、イタリアが連合軍に参加し、結局は次のように戦ったことになる。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/481
482: 日本@名無史さん [sage] 2024/11/17(日) 16:58:04.26 >>479 明治天皇は和歌集もあるくらいたくさん歌を詠んでいるそうだが、昭憲皇太后の方が難しい和歌で明治天皇はけっこう簡単な和歌。 明治天皇と昭和天皇が同じくらいで、大正天皇は飛び抜けてお手本みたいにきれいな和歌を詠む。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/482
483: ブログ転載 [sage] 2024/11/17(日) 19:33:44.77 p314 連合側 セルビア ロシア フランス ベルギー イギリス モンテネグロ 日本 ポルトガル イタリア ルーマニア ギリシャ アメリカ キューバ パナマ シャム リベリア 支那 ブラジル グアテマラ ホンジュラス 同盟側 オーストリア=ハンガリー ドイツ トルコ ブルガリア こうして連合軍の動員兵数四千四百万人、同盟軍二千五百万人、戦線百三十里、連合軍戦死者七百万人、同盟軍の戦死三百万人、連合側戦費二千七百億円、同盟側一千億円ということになった。 この戦争で英国が参加することになると、次に起こって来る問題は日英同盟(明治四十四年修正の日英攻守同盟で期間十年)に繋がる日本の態度であった。外務大臣加藤高明は、日英同盟が自動的に参戦を要求するものと信じ、局外中立の声明もしないで余儀ない場合の準備をしていた。果たして八月七日英国から助力を求めてきたので、十五日次の通告をドイツに手交した。 帝国政府は現下の状勢において、極東の平和を乱すに違いない原泉を除去し、日英同盟協約の予期した全般の利益を防護するという措置を講じるのは、該協約の目的とする東亜の平和を永遠に確保するために極めて枢要の事であるのを思い、ここに誠意をもってドイツ帝国政府に勧告するのに、同政府において左記二項を実行するだろうことをもってする。 第一 日本及び支那海方面から、ドイツ国艦艇が即時に退去すること。退去することができない者は直ちにその武装を解除すること。 第二 ドイツ帝国政府は膠州湾租借地全部を支那に還付する目的をもって一千九百十四年九月十五日を限り無償無条件で日本帝国官憲に交付すること。 日本帝国政府において、上述の勧告に対し、一千九百十四年八月二十三日正午までに無条件に応諾の旨、ドイツ帝国政府から回答を受領しない時においては、その必要と認める行動を取るべき事を声明する。 これに対してドイツの無回答拒絶の意志が明白となったので、同日たちまち宣戦の大詔は煥発され、我が国はますます交戦国の列に入ったのである。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/483
484: ブログ転載 [] 2024/11/17(日) 22:26:47.30 p316 (二)わが軍の活動 我が国が交戦国の列に入ると共に起こった日本に対する一つの提案は、日本軍の欧洲出兵である。数回の懇請をうけたが、我が国は拒絶した。その理由とする所は次のようである。 (1)帝国軍隊の唯一の目的は国防にある。 (2)十個軍団も送れば帝国は無防備の状態となる。 陸軍の派兵懇請と共に海軍に対しても遣艦の申し込みがあったが、これも同じ理由で拒絶した。ただ次のようなことだけは、連合軍と連絡して行動をとった。 (1)青島攻落 まず我が国は膠洲湾に迫った。第二艦隊司令長官加藤中将は、八月二十七日、膠洲湾租借地全部の封鎖を宣言し、陸軍中将神尾光臣は、九月二日第十八師団の兵を率いて龍口湾に上陸し、海陸呼応して進み、十月十二日には非戦闘員救助の聖旨を伝えて、非戦闘員を我が軍に受領して済南に送り、十月三十一日の天長節を占って総攻撃を開始し、十一月七日イルチス、ビスマーク、モルトゲ諸砲台を占領した。同日午前ワルデック大佐はついに投降し、総攻撃七日で青島は完全に我が国に属した。 (2)南洋諸島占領 青島にいたドイツ艦隊は、はるかに南洋に逃れ、時々現れて連合国の商船に害を加えることが少なくなかったので、我が国は第一艦隊を組織し、海軍中将加藤友三郎はこれを率いて出動し、英国の濠州艦隊と協同して十月三日から十九日までにマーシャル・マリアナ・カロリンの三群島を占領し、もって敵の太平洋における根拠地を覆した。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/484
485: ブログ転載 [sage] 2024/11/18(月) 10:06:45.79 p317 (3)インド洋・地中海に出動する 我が国はさらにカナダ方面にも軍艦を遣わせて警戒し、またインド洋方面にも出動し、英国駆逐艦隊と協力して警戒掃敵の任に当たり、インド兵や濠洲〔※中国〕兵が欧州に出兵するのを送って紅海の入り口まで行くとか、ロシア国に軍需品を提供するとか、大正六年二月ドイツが無制限潜水艦隊を宣言して、連合国の戦艦はしきりに被害を被るや、わが艦隊は地中海に出動して、ドイツの潜水艇と戦い、運送船の護送は二百回にも達した。一方においては我が国の赤十字社が医員などを英・仏・ロシアの諸国に送って、戦傷病者を救護して博愛の精神をあらわしたので、世界賞賛の中心になった。 (4)シベリア出兵 欧洲においては、チェコ=スロバキアが、オーストリア=ハンガリー国で戦っていた勇敢な民族であるが、彼らはロシアと民族を一つにするところから、戦争中ロシアに投入してオーストリア=ハンガリー国にそむき、戦後は独立国をつくりたいと考えた。こうしてチェコがロシア国に入って共同戦線を張るうち、大正六年三月ロシア国に革命が起こって、十一月過激派の天下となり、ついにロシア国は単独講話をしてしまった。ここにおいてチェコはどうすることもできない。そこでシベリアから米国へ出て、さらに欧洲連合国の戦線に達しようとくわだてた。これは容易なことではなかったので、米国は我が国に出兵の援助を提議してきた。ここにおいて大正七年八月二日、寺内内閣は対ロシア出兵宣言を公表した。これはチェコ=スロバキア軍の東進に便宜を与えようとするためであったが、次第に最初の目的を越えて過激派討伐など複雑なことになって進退時を失ったものである。はじめは七千くらいの兵を出したが、後には七万三千人も出すに至り、十億の国財を費やし、三千五百の死傷を犠牲として手に入れるところはなかったようである。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/485
486: ブログ転載 [sage] 2024/11/18(月) 12:57:28.49 p318 (5)戦時の外交 戦争中大正六年九月四日、英・仏・露三国は、ロンドン宣言の名によって同盟条約を帰結した。 第一項 フランス国・ロシア国及びイギリス国政府は、現戦争中は単独で講和してはならないことを相互に約束する。 第二項 右三国政府は講和条件を議する場合において、いずれの同盟国もあらかじめ他の同盟国の同意を経ないで講和条件を要求してはならないことを約束する。 こういう意味の条約であった。当時駐仏大使石井菊次郎は是非この条約宣言に加わっておかなければならないと、我が国の政府に申し越した。時の外相加藤高明は、日英同盟があるから、それは二重の手間ではないかと同意しなかったが、そのうちに石井子爵が外務大臣となってかえるようになった。石井子爵は時の総理大隈重信の了解を得て、フランス国を立つときに英仏当局と面議して、ロンドン宣言に加入の内意を伝えてかえり、後についにこれに加入したので四国同盟が成立し、これにイタリアが加入して五国同盟となった。やがてロシア国が革命のために、これを抜けて、米国が加入し、「主要連合国」の名で平和会議に華々しい活動をするに至った。 (三)平和条約を結ぶ 戦時中ロシアが単独講和をしたので連合側もやや不利であったが、大正七年にはブルガリアが倒れ、十月トルコ・オーストリア=ハンガリーが相次いで屈服し、そのうち十一月に至ってドイツに革命が起こり、十一月十一日ついにドイツは無条件をもって休戦条約に調印した。 ここにおいて連合国の講和委員は、フランス国パリの西方のベルサイユに集った。この会議に集った連合国は二十七ヶ国、代表六十七名に及んだ。大正八年二月以来、米国大統領ウィルソンが提唱した十四ヶ条を基準として会議を進め、国際連盟規約をも立案し、案が成立するに及び、五月七日から正式に会議を開き同月二十八日講和条約に調印された。 この会議の中心をなすものは、前述の五大国であった。我が国は西園寺公望・牧野伸顕・珍田捨大己・松井慶四郎・伊集院彦吉、英国は首相ロイドジョージ・バルフォーア・ミナルナー、米国は大統領ウィルソン・国務卿ランシング、フランス国は首相クレマンソー・ビション、イタリア国は首相オルランド・ソンニノなどを遣わせて委員とした。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/486
487: ブログ転載 [sage] 2024/11/18(月) 14:44:03.32 p320 この会議において、猛烈な支那の妨害を排除して、我が国は膠洲湾及びドイツが山東省において有した、一切の権利を得た。 またウィルソン並びに英国のスマッツ将軍によって提唱された国際連盟案は最も論議の中心となり、紆余曲折を経て、全規約二十六条が可決された。我が国の主席全権西園寺公望もこの人支持者であったが、我が国はこの時、人種差別撤廃すなわち人種平等主義を連盟規約中に明記しようと提唱し、過半数の賛成を得たが、全会一致の同意を得ることができなかったので、ついに否決となったから、我が国の全権はこれを後日に保留して終わった。 我が国が占領した旧ドイツ領の南洋諸島は、この時国際連盟から我が国に統治の委任をした。 委任統治というのは、その主権がどこにあるのか明らかでない。これはスマッツ将軍の独創に出たもので、各国が義務として旧ドイツ領を引き受けることにすれば、賠償金を成功させることができるというので、欧米の政治家は一も二もなく賛成したものである。 (四)皇太子欧洲を巡遊しなさる 大正十年三月三日皇太子裕仁親王は、閑院宮載仁親王・伯爵珍田捨己他十六名をお伴いになられて、欧洲巡遊のため万里の御旅程におのぼりなさった。これは御父君の厚い思し召しによったもので、各国の元首を訪問して親交を重ね、諸国の学芸、産業の実際から、大戦後の社会の状態を親しく視察しなさり、あっぱれ未来の帝王としての御修養のためであったろう。実に皇太子の世界御巡遊は、かつてない盛事で、国を挙げて慶福の至誠をあらわし、半年の長旅、御つつがなかれと神祈りに祈るところがあった。御召艦香取・供奉艦鹿島は、堂々横浜を出発して、艦列が次第に視界を没し去ったとき、御見送り終えた逓相野田卯太郎は、汽艇で岩壁に引き返し、御召艦を港外に遠く見送りつつ、「乃公が子供時代は、世界といえば唐・天竺としか知らない者が多く、たまに黒船が来たと言って大騒ぎをしたものだが、わずか五六十年の間に、東宮御渡欧という御盛事を拝し、国威の発場を今さら痛切に感じた。特に殿下が甲板上に立たれた御英姿は、将来日東海国の元首として、我が国の誇りでなければならない」と言って次のように詠んだ。 空晴れて 東風に御艦の 錦旗かな もしかするとこれは野田逓相一人の感じではなかったろう。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/487
488: ブログ転載 [sage] 2024/11/18(月) 14:53:33.48 p321 この時から殿下は多年友好のよしみが厚い英国をはじめ、フランス・ベルギー・イタリアの連盟各国を御巡幸、一路平安九月三日横浜におかえりなさる。この間殿下の御交際は堂々たるものがある。諸国の新聞は「驚異すべき殿下」とか「最も平民的でいらっしゃる殿下」とか「偉大なる未来の帝王」とか「明治天皇の御再現」とか言って賞賛おかないものがあった。こうして我が国はいよいよ世界的に重きをなすに至っている。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/488
489: 日本@名無史さん [sage] 2024/11/18(月) 15:18:26.59 明治天皇大正天皇昭和天皇までは、英国からガーター勲章をもらっていて、上皇も今の天皇もイギリスへ行った。今年か去年? 大正天皇が会議の席で書類を丸めて望遠鏡みたいにしていたから少し頭がアレな天皇という噂は以前はあった。摂政の正当化? この君主交代はイギリスへ行ってすぐに摂政になったのですごく怪しい感じがする。 しかも明治帝以来の名君とかなんとか海外の新聞に褒められていて、そういうときは外国の言うことをよく聞く現地人くらいに思われてる場合が多いのでよけいに怪しい。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/489
490: 日本@名無史さん [sage] 2024/11/18(月) 15:50:58.91 大正天皇が知的障がい者みたいに言われたのは、反ワクが低学歴低賃金みたいに言われてる理由と同じと思う。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/490
491: ブログ転載 [sage] 2024/11/18(月) 16:45:08.07 p322 (五)皇太子摂政の任に就きなさる 時におそれ多くも、天皇の御病は長い期間におわたりになったので、大政を御みずからしなさることができなかったため皇太子を摂政に任じなさった。これは皇室典範第五章第十九条第二項に、「天皇が長い期間にわたる故障により、大政をみずからすることができない時は、皇族会議及び枢密顧問の議を経て摂政を置く」とあり、第二十条に「摂政は成年に達した皇太子または皇太孫、これに任じる」とあり、第十三条に「天皇及び皇太子は満十八歳をもって成年とする」とある。裕仁親王は大正八年五月七日御成年式を御挙行になっているから、大正十年十一月二十五日午後二時次のように大詔が出た。 朕は長い期間にわたる疾患により、大政をみずからすることができないことをもって、皇族会議及び枢密顧問の議を経て、皇太子裕仁親王を摂政に任じる。ここにこれを宣布する。 こうして皇太子摂政のことが定まったのであるが、摂政については、憲法第十七条第二項に「摂政は天皇の名において大権を行う」とあり、皇室典範第十六条に「摂政在任の時は前条のことを摂行する」とあって、前条には「皇族は天皇これを監督する」とある。だから裕仁親王はこの二大権を摂行されることとなったのである。 皇太子摂政のことは推古天皇の御代に聖徳太子がいて、斎明天皇の御代に中大兄皇子がいる。今や裕仁親王は聖徳太子の尊と徳、中大兄皇子の智と勇を兼ねなさり、日夜御寸暇なく御多忙にお送りなさることになった。 天皇の長い期間にわたる御病気については、国民は等しく憂いに満ちたものであり、皇太子の御励精に対してはおそれ畏まることを感じたが、しかし一面においては少しも迷うところなく皇太子摂政のことあって、皇位は磐石のように強固な基礎に立っていることや、皇太子が御英明にお送りなさることを、目の当たりに認識せずにはいられなかった。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/491
492: ブログ転載 [sage] 2024/11/18(月) 16:48:02.28 >>491 皇太子が御英明でいらっしゃるに変更 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/492
493: ブログ転載 [sage] 2024/11/18(月) 18:38:02.71 p323 (六)ワシントン会議開かれる 世界大戦後、国際関係に大変調をきたし、国際間における在来の均整は完全に一掃されて、新たなる秩序や編成を立てることが必要になってきた。 国際連盟は大いなる画案には相違なかったが、いまだ十分な試練と修養を積んでいない。 したがって国際間の安定と平和とを与えるものは、依然として列国間の実力均衡の他にはなかった。 この均勢を考えるものには二つある。一つは欧洲の新均勢、一つは太平洋方面の新均勢である。 太平洋方面では米国が英国をしのいで第一の主力艦を持とうとし、新興日本はまた第三位に躍進しようとするに至った。ここにおいて軍備はますます拡張の競争が行われ、第二の世界大戦を見るやも測りしれない情勢となってきた。 米国大統領ハーディングはここに着眼し、海軍の軍備を制限して世界平和を確保し、かたわら支那に関する問題を議し、太平洋方面の暗雲を一掃しようと提議し、日・英・米に加えてフランス・イタリア並びに支那・オランダ・ベルギーなどの特別関係がある代表者を招いたので、我が国からは貴族院議長徳川家達・海軍大臣加藤友三郎・駐米大使幣原貴重郎、後に外務次官埴原正直を全権として出席させ、会議は大正十年十一月一日の欧洲大戦記念日をもって開会し、翌年二月六日に至る約三ヶ月であった。この時決定した事項は次のようである。 一、各締約国の主力艦の合計t数は基準排水量において、英米は五十二万五千t、日本は三十一万五十t、フランスイタリアは十七万五千t限、排水量は三万五千t限、口径十六インチ砲限。 一、航空母艦において、英米は十三万五千t、日本は八万一千t、フランスイタリアは各六万t限、排水量二万七千t限、口径八インチ砲限。 一、補助艦は排水量一万t限、口径八インチ砲限。 いわゆる英・米・日主力艦、五・五・三比率を決定したもので、これによって我が国が存置することができるはずの戦艦は陸奥・長門・日向・伊勢・山城・扶桑・霧島・榛名・比叡・金剛ということになったのである。これは昭和十一年までの有効期間である。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/493
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