【日本史】GHQに焚書された書籍 (542レス)
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137: [sage] 2024/09/24(火) 07:12:27.44 p112 (五)数多の尊皇家あらわる 古史古文の研究は国体の尊厳を明らかにし、大義名分をおろそかにするべきではないことを世人にさとらせ、尊皇家が相次いで出るに至った。寛政三奇士のようなそれである。寛政の三奇士とは高山彦九郎・蒲生君平・林小平である。 高山彦九郎は名は正之、延享四年上野に生まれ、寛政五年四十七で没した人。学者に任じないけれど気節あって尊皇の心深く、京都をはじめ諸国を周遊して有志と交わり、ついに久留米で自殺した。その原因は明らかでないけれど、田沼の弊政によって民心が次第に幕府を離れるのを見て、 密かに快であるとし、すぐに事を起こそうと企てたところ、松平定信が幕閣に入って、再び幕政を引き締めて盛んにしたので、志が成るはずがないのを嘆いたという説があるいは事実に近いのであろう。彦九郎の京日記には次のような一節がある。 皇統綿々天子の位は長久のしるしと嬉しくて手が舞い足が踏む事がわからない(勝手に動くくらい嬉しい) 蒲生君平は名は秀実、明和四年下野に生まれ、文化十年四十六で江戸に没した人。皇室再興の志厚く、朝廷の制度を明らかにしようとするため、九志の著述に志したが、職官志と山陵志だけ世に伝わっている。君平はまた露艦の北辺入寇を憂いては、不恤緯(海防策)を著した。 幕府は不恤緯にしても山陵志二巻(山陵八四)にしても浪人処士が言ってよい範囲ではないとし、重刑に処そうとしたが、君平は抗弁して屈しなかった。この時林大学頭は「草野に危言の士がいるのは国家の福である」と言ったので事なくすんだ事もある。 頼山陽は名は襄、安永元年大阪に生まれ、天保三年五十三没し、京都東山長楽寺に葬った人。二十年以上の苦心を積んで日本外史を著し、源氏・平氏・北条・新田・楠・足利・武田・上杉・毛利・織田・徳川の武家荒廃の歴史を説いて、政権が武門に移った由来を論じ、また晩年病をおして日本政記を作り、神武天皇から後陽成天皇までの編年史によって、順逆の区別を明らかにし尊皇の意をよせた。外史は脱稿の上松平定信に献上し、定信から題言を賜っているが、政記は未稿のまま筆を握って没したと言われる。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/137
五数多の尊皇家あらわる 古史古文の研究は国体の尊厳を明らかにし大義名分をおろそかにするべきではないことを世人にさとらせ尊皇家が相次いで出るに至った寛政三奇士のようなそれである寛政の三奇士とは高山彦九郎蒲生君平林小平である 高山彦九郎は名は正之延享四年上野に生まれ寛政五年四十七で没した人学者に任じないけれど気節あって尊皇の心深く京都をはじめ諸国を周遊して有志と交わりついに久留米で自殺したその原因は明らかでないけれど田沼の弊政によって民心が次第に幕府を離れるのを見て 密かに快であるとしすぐに事を起こそうと企てたところ松平定信が幕閣に入って再び幕政を引き締めて盛んにしたので志が成るはずがないのを嘆いたという説があるいは事実に近いのであろう彦九郎の京日記には次のような一節がある 皇統綿天子の位は長久のしるしと嬉しくて手が舞い足が踏む事がわからない勝手に動くくらい嬉しい 蒲生君平は名は秀実明和四年下野に生まれ文化十年四十六で江戸に没した人皇室再興の志厚く朝廷の制度を明らかにしようとするため九志の著述に志したが職官志と山陵志だけ世に伝わっている君平はまた露艦の北辺入を憂いては不緯海防策を著した 幕府は不緯にしても山陵志二巻山陵八四にしても浪人処士が言ってよい範囲ではないとし重刑に処そうとしたが君平は抗弁して屈しなかったこの時林大学頭は草野に危言の士がいるのは国家の福であると言ったので事なくすんだ事もある 頼山陽は名は安永元年大阪に生まれ天保三年五十三没し京都東山長楽寺に葬った人二十年以上の苦心を積んで日本外史を著し源氏平氏北条新田楠足利武田上杉毛利織田徳川の武家荒廃の歴史を説いて政権が武門に移った由来を論じまた晩年病をおして日本政記を作り神武天皇から後陽成天皇までの編年史によって順逆の区別を明らかにし尊皇の意をよせた外史は脱稿の上松平定信に献上し定信から題言を賜っているが政記は未稿のまま筆を握って没したと言われる
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