【日本史】GHQに焚書された書籍 (534レス)
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17: 日本@名無史さん [sage] 2024/09/08(日) 13:59:39.13 この配置は家康の在世中にも、またその後にも、数度の遷代があったけれども、その大綱においては変じることなく、中世以来おいおい発達しきった封建制度は、これによって中央集権的に、秩序組織の完全なものとなった。 ここにおいて内府(内大臣)家康は、慶長八年(二二六三)二月右大臣征夷大将軍に任じられ、淳和奨学両院の別当、源氏の長者となり、幕府を江戸に開き、天下の政治をすべるに至った。 家康は将軍職を子秀忠に譲ったのは慶長十年であるから、将軍職にあることは足かけ三年であったけれども、退職後駿府にあってなお大事を決定し、薨去したのは元和二年(二二七六)であるから、秀忠の在職年限は足かけ十九年中、初めの十二年間は家康によって事件が解決していたものとして見てよい。従って慶長十九年の大阪夏の陣も、皆家康において責任を認めるのである。 また元和元年豊臣氏が滅亡すると共に、江戸幕府の基を固めようとするために、貞永式目などにならって、武家・公家などの諸法度を出したのも家康に功過を帰するのである。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/17
18: 日本@名無史さん [sage] 2024/09/08(日) 15:34:38.55 p32※原文は漢文 武家諸法度 一、文武弓馬の道 ひたすら相たしなむべき事。 一、群飲佚遊(酒に溺れ遊び呆ける)を制すべき事。 一、法度を背く輩は、国々に隠して置いてはならない事。 一、国々の大名、小名ならびに諸給人は、各々相抱える士卒に、反逆や殺人をなすという申し出が有るならば、速やかに追い出さなければならない事。 一、今後以後、国人の外は、他国の者と交わってはならない事。 一、諸国の居城は、修補をするといっても、必ず言上しなければならない。まして新しい装いの家屋を構え事業を営むことを堅く停止させる事。 一、隣国において家屋を構え事業を営むくわだてや徒党を結ぶ者、これらの者がいるならば、早く言上しなければならない事。 一、私事で婚姻を締んではならない事。 一、諸大名参勤作法の事。 一、衣装の品は、混雑させてはならない事。(身分秩序を衣服差で識別) 一、身分の低い者は、ほしいままに輿に乗ってはならない事。 一、諸国の諸侍は、倹約を用いなければならない事。 一、国主は政務において優れた才能のある人を選ばなければならない事。 右、この旨を相守るべき者である。 慶長二十年卯七月 日 この発令は七月七日で十三日に元和と改元されたからこれを元和令という。各条全て註が入っているが今は略した。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/18
19: 日本@名無史さん [sage] 2024/09/08(日) 15:35:22.43 禁中ならびに公家中御法度 一、天子諸芸能の事、第一は学問である。 以下全部で十七条 この旨を相守られなければならない者である。 慶長二十乙卯年七月 日 これは七月十七日に出たが、二十三日になると、五山十刹ならびに大徳・妙心・永平・高野山・浄土宗本寺に法度を出した。 いずれも簡明直戴の実際主義に立脚し、武家法制の特徴をあらわしている。後に福島正則が、言上に及ばずに、広島城を修復したというので、元和五年信州川中島に流されたのも、寛永八年加藤清正の子忠広は、国政が正しくないとして、肥後熊本城主から出羽庄内に流されたのも、皆法度にふれたからである。前者は第六条に、後者は第十三条にふれたらしい。こうして厳しく法度を適用して政権を確立したのである。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/19
20: 日本@名無史さん [sage] 2024/09/09(月) 07:37:54.14 p34 (三)幕府の組織整う 大徳院秀忠は家康第三の子、慶長十年七月二十八日将軍の宣旨を蒙る。以来十九年の在職中、はじめの十二年間は万事父家康意思によって幕制をとる。その後といっても同様で、亡き父の意に違うようなことをする人ではなかった。 秀忠は篤志、謙遜の徳が備わり、孝心に類いなく、万事において、みな大御所のお教えを受け、少しも自分の心にまかすことはなかったと徳川実紀はほめている。 また秀忠は恭倹慈和・天性示孝・寛厚謹厳であったと野史はいっている。これによって大方その人物は察せられるが、この人格をもって彼は遺憾なく守成の功を全うしたから、徳川幕府の基礎はいよいよ固まったと見ることができる。 家光は慶長九年七月十七日、西の丸において、秀忠に子の長子として生まれ、女丈夫の名のある乳母春日局の心をこめた育成によった上で、天性英明の人であった。 かつて天海が「神祖(家康)は万事に通達おありになってよく人情世態におわたりになられたので、何事を申し上げるにも安らかで滞るところがなかった。台徳院(秀忠)殿にも御資質温柔でありましたので、同じようにあったが、当代は極めて聡明英武でおありになったからであろうか、何となく申し上げにくい」と言い、人見友玄宜卿は「いかにもおそろく見上げ奉った」と言っているのを見ても、聡明英武にうたれるような人であったらしい。 彼は元和九年七月二十七日将軍となったが、これを補佐するのに名臣をうち揃え、中でも土井利勝・阿部忠秋・松平信綱の三人が最も名高いものである。 利勝はその政事を議するや、今までは必ず狭い部屋において密議を凝らすのを例としていたが、利勝は大広間の中央に席を設け、四方の襖を明け広げて議したという思慮深い人、忠秋は性鶉を愛していた。 麹町に鶉を飼う者があり、その声は甚だよい。忠秋は欲しいけれども、値が高くて買うことができなかった。ある人は、忠秋の意を推察して、この鶉を買って忠秋に贈った。他日忠秋は「我仮にも重任を帯びる身が、このような玩具をなすべきではない」と言って、家来を使ってことごとく鶉を放たせ、よって賄賂の道を絶ったという廉直の人、信綱は機智に富み、知恵伊豆と言われたひとである。 しかも家光はもっぱら心を政治にとどめたので、家康の事業はここに完成され、幕府の組織も大いに整った。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/20
21: 日本@名無史さん [sage] 2024/09/09(月) 07:38:04.56 幕府の政局を用部屋といい、大老・老中・若年寄がこれに詰めた。大老は大事を総裁する者で、常置の職ではなく、江戸幕府を通じてわずかに十人に過ぎなかった。 老中は一般行政をつかさどり、五人または六人あり、若年寄は勝手方二人、公事方二人であった。 各何人かずついるのは、仕事を分担したのではなく合議制であり、中一人が月番として一月交代で事務を執ったのである。 権威が一人に帰することのない特質をもっている三奉行など幕府のおもだつ吏員が会合して事を議する所を評定所といい、日付所には、大目付として老中の耳目となり、目付といって若年寄の耳目となり、共に所管の非違を監察する者がいた。 地方の職には京都に所司代があった。これは鎌倉の京都守護、北条氏の六波羅探題に当たるもので、代官のようだが実は正員である。 室町時代に代官というが流行した名残があるのであろう。京都・二条・大阪・駿府には城代、京都・大阪・駿府・奈良・伏見などには町奉行、長崎・佐渡・新潟・堺・山田・日光・浦賀のような枢要直轄地にも奉行、その他公領(幕府の直轄地で天領といった)には郡代・代官を置いてそれぞれ事務をとらせた。 これらの制度は徳川氏が三河の一小名であった頃の官制を、次第に大成してきたものであるから、すこぶる実用に適したものであったといえる。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/21
22: 日本@名無史さん [sage] 2024/09/09(月) 14:25:09.02 p36 (四)諸大名に対する政策 大名の統御についてはさきにも述べたが、家康以来特に意をそそいだもので、親藩忠義直が封じられた尾張、?ョ宣の封じられた紀伊、?ョ房が封じられた水戸藩が最も重んじられ、これを御三家といい、将軍の羽翼とさせ、幕府の要職には譜代大名のみを用いて外様大名を用いず、やがて参勤交代の制度を定めて最も有効に統御のことに成功している。 江戸幕府では中央集権政策の一つとして、はじめ諸侯の子を人質とする法をとったが、これは戦国の余弊であるからといってやめ、時々証人としてその妻子を出させたり、または江戸においたりした。 慶長十一年一柳直盛は、その子七歳である直家を江戸に住まわせ、藤堂高虎はその前年に妻子を江戸に移してから、諸大名の子弟の人質となって江戸に至り麾下に列する者も多かった。 しかし参勤交代などはいまだ定まらず、二、三年、もしくは五、六年に一度くらい参勤した程であったが、家光が寛永十二年の武家法度でこれを規定してからは、すこぶる厳重なものになってきた。武家法度は最初十三条からできていたものであるが、家光に至って二十一条となっている。その第二条に規定したことは次のようであった。 大名小名の在江戸交替を相定める所である。 毎年四月中に参勤致さなければならない。 従者人数は近年甚だ多い。かつ国郡の費用、かつ人民の労である。 今後はその相応により少なくこれを減らさなければならない。 ただし上洛の際には教令(教え戒め命令する)に任せ、公役者(課税労役)は財力に従わなければならない事。 (寛永十二年六月二十一日) この時は東方大名と西方大名を代わる代わる在府させ、諸大名の在府在国は各一年であるが、寛永十九年には、譜代大名に限り交替の期を六月とし、またその領土が関東にある者に限り、在府在国を半年とし、毎年二月・八月を交替期とした。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/22
23: 日本@名無史さん [sage] 2024/09/09(月) 14:31:08.68 >>22 ※武家法度の原文は漢文 外様大名を財政的に疲弊させるために豪華な参勤交代をしていたと習ったのに金かけるの禁止されとる… http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/23
24: 日本@名無史さん [sage] 2024/09/09(月) 16:52:41.46 p37 ただし要地の大名は、その地の警備のために代わる代わる参勤していた。例えば筑前の黒田氏と肥前の鍋島氏とが、長崎警備のために、そこへ参勤したような類いである。これを居替交代といった。 例えば対馬の宗氏は朝鮮警備の必要上、三年に一回江戸に参勤することとし、在府は僅かに四ヶ月とした。水戸の徳川氏は江戸にのみ在住しこれを定府(じょうふ)といった。 また諸大名が妻子を江戸に置くことは、これまでは一定していなかったのを、寛永十一年八月に譜代大名をして妻子を江戸に置かせることとしたので、外様大名も皆置くようになったのである。 家光以後多少の変化はあったが、しかしその参勤の制度は江戸幕府の終いまで続いた。 幕府はこれによって威権を示し、かねて諸大名に異図を企てる余裕をなくさせ、往復の費用に疲れさせるためでもあったろう。 ただその結果としては全国の交通は開け、文化の伝播を助け、江戸の繁栄を来している。ちなみに参勤というのは江戸に来る方で、交代と言うのは国に帰る方である。 大名は一年置きに角をもぎ ーー木宮泰彦詠史狂歌集ーー 幕府の対諸侯制度の中、参勤交代の制度ほど成功したものはなかろう。こうして中央集権的封建制度による二百六十五年間の太平を建設したのであった。封建制度ということは、諸侯に封土を与え、その子孫によって封土を世襲させ、その封内の政治をおのおの随意に取り扱わせるというやり方で郡県制度に相対するもの、江戸時代の封建は中央集権的封建で、これに対するものは地方分権的封建である。 (五)財政豊になる 江戸幕府が権力を集中することができた一面の理由は、財力が豊富ということにあった。寛永頃において皇室の御料十二万石というのに幕府は八百万石と言われている。しかも家康は理財に長じ、年貢の皆済状や、金銀の請取などは自ら認めているくらいである。努めて倹約を励行した上で、外国貿易において巨利を占めた。 我が国に金銀が産出することは戦国時代からようやく多くなったが、秀吉・家康・秀忠の頃は最も盛んな時となってきた。家康の頃産出が多かったのは佐渡の金銀山、石見及び伊豆の銀山、足尾の銅山で、共に大久保石見守長安がその奉行として開発につとめた。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/24
25: 日本@名無史さん [sage] 2024/09/09(月) 16:53:24.08 p37 ただし要地の大名は、その地の警備のために代わる代わる参勤していた。例えば筑前の黒田氏と肥前の鍋島氏とが、長崎警備のために、そこへ参勤したような類いである。これを居替交代といった。 例えば対馬の宗氏は朝鮮警備の必要上、三年に一回江戸に参勤することとし、在府は僅かに四ヶ月とした。水戸の徳川氏は江戸にのみ在住しこれを定府(じょうふ)といった。 また諸大名が妻子を江戸に置くことは、これまでは一定していなかったのを、寛永十一年八月に譜代大名をして妻子を江戸に置かせることとしたので、外様大名も皆置くようになったのである。 家光以後多少の変化はあったが、しかしその参勤の制度は江戸幕府の終いまで続いた。 幕府はこれによって威権を示し、かねて諸大名に異図を企てる余裕をなくさせ、往復の費用に疲れさせるためでもあったろう。 ただその結果としては全国の交通は開け、文化の伝播を助け、江戸の繁栄を来している。ちなみに参勤というのは江戸に来る方で、交代と言うのは国に帰る方である。 大名は一年置きに角をもぎ ーー木宮泰彦詠史狂歌集ーー 幕府の対諸侯制度の中、参勤交代の制度ほど成功したものはなかろう。こうして中央集権的封建制度による二百六十五年間の太平を建設したのであった。封建制度ということは、諸侯に封土を与え、その子孫によって封土を世襲させ、その封内の政治をおのおの随意に取り扱わせるというやり方で郡県制度に相対するもの、江戸時代の封建は中央集権的封建で、これに対するものは地方分権的封建である。 (五)財政豊になる 江戸幕府が権力を集中することができた一面の理由は、財力が豊富ということにあった。寛永頃において皇室の御料十二万石というのに幕府は八百万石と言われている。しかも家康は理財に長じ、年貢の皆済状や、金銀の請取などは自ら認めているくらいである。努めて倹約を励行した上で、外国貿易において巨利を占めた。 我が国に金銀が産出することは戦国時代からようやく多くなったが、秀吉・家康・秀忠の頃は最も盛んな時となってきた。家康の頃産出が多かったのは佐渡の金銀山、石見及び伊豆の銀山、足尾の銅山で、共に大久保石見守長安がその奉行として開発につとめた。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/25
26: 日本@名無史さん [sage] 2024/09/09(月) 16:55:40.65 こうして慶長六年には、弊制を定めて金は大判・小判・一分判の三種、銀は丁銀(ちょうぎん)・豆板銀(まめいたぎん)の二種として鋳造した。 この時の金貨は名目貨幣で、大判は十両、小判は一両、一分判は四文の一両であり、銀は量目貨幣であるから、目方を量って通用させた。従って金と銀との関係は時によって違うが、明治初年の頃は銀六十匁ないし百匁をもって金一両に当てていた。 家光は従来の銭が不統一であったので、寛永十三年以来、江戸はじめ諸方で、銅銭寛永通貨を鋳してその統一をみた。 なんでも家康が慶長十一年駿府に移った時、秀忠に与えた金は、黄金三万枚、銀一万三千貫という。これを金一枚十両、銀五十匁を一両とすれば五十六万両となる。その内家康が駿府で薨去する時に遺した金いわゆる駿府の遺金と称するものは、おおよそ二百万両とみることができる。 そして秀忠は守成の人であるから、この財力を減じてはいない。 家光に至って寛永二年、僧天海に命じて寛永寺を造営させ、寛永十一年には同天海によって日光廟を造らせた。この日光の建築については従来寛永元年起工、十三年上棟式をあげたものと言われていたが、工学博士大熊喜邦氏は寛永十一年の暮れか秋の末頃起工して十三年四月完成、その間十五ヶ月で仕上がった。従って一夜一千人も夜業をしたと言われる。(昭和三年八月八日 大阪毎日新聞) 平泉澄博士が寛永十一年冬に始まり、同十三年春に落成し、その間一年半、費用総計五十六万八千両、銀百貫目、米千石と言われたのと合致する。 ともかくこの時は諸侯の寄付は少しも受けていないという。それで当代美術の代表的建築(これは挿絵解説にゆずる)ができている。 一代十一度の日光社参や寛永二度の上洛、その他家光の闊達な気象によって、大名・旗本に与えた金も莫大なものである。 家康薨去と共に、江戸幕府も多少財政不如意の気味が現れたとはいえ、これ位のことができたのは、いかに財力が豊富であったかを物語るもの、家光の歴史は財力が致せる歴史だとみるのは、一面において真理かもしれない。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/26
27: 日本@名無史さん [sage] 2024/09/09(月) 21:40:51.00 p40 学習参考 (1)挿絵解説 「江戸城」の絵は秋元子爵家の東海道絵巻によったもので、大名が大手門から登城するところをかいてある。五層の天守閣は秀忠の十一年にできたが、明暦の大火で焼けた。図は秀忠修築頃の江戸城をあらわしたものである。 「大名の行列」は東海道五十三次の内、広重の筆によったもの、川向かいは岡崎城で、川は矢矧橋、大名が参勤して江戸へいくところである。 大鳥毛を被せた長柄槍が見えるのは先頭である。 「大判小判」は写真によったものであるが、実物の二分の一となっている。十両の字の下に「後藤」と書き、その下に花押(かきはん)がかかれ、小判の方では一両の字の下に「光次」とかき、花押がある。 これは慶応六年に鋳造されたが、その頃の金座の監理が後藤庄三郎光次であったから、こうした文字が残っているのである。 ここにあるのは慶長金であるから質のよいものであるが、元禄七年に至って財政窮乏のちょうどその時、これが通用禁止となり、八年から質の悪い元字金が出てくる。 「徳川家康と天海」は、東京上野の寛永寺の塔頭青龍院蔵の狩野探幽筆の書像によったもので、原図は紙本に彩色が施してある。 天海は家康・秀忠・家光の三代に尊信を得、寛永寺や東照宮の創立に功があり、後に慈眼大師の謚を賜った人である。原書にはこの上に天海僧正の賛があるが、これには省いてある。 「日光東照宮陽明門」は写真によっている。陽明門は一名を日暮門と言い、後水尾天皇の勅額「東照大権現」は今は宝物殿に入れてある。家康が元和二年駿府で薨去した時、一旦久能山に葬り、廟を建てて東照大権現の神号を賜ったが、遺命によって、翌三年これを下野二荒山に改装し、正保二年朝廷から宮号を下賜され、東照宮と号した。 この東照宮は権現造と仏寺と墳墓との混合である。桃山時代において神社建築として権現造を大成したが、当代に至ってはこれに仏寺と墳墓とを混合して、廟建築が大成したのである。 つまり東照宮において、本殿と拝殿とを石の間で連結したのは権現造で、神庫・神輿舎・神楽殿・透塀などは、その神社建築の付属であり、五重の塔・経蔵・鐘樓・鼓樓・本地堂・護摩堂は仏寺と見なければならない、奥院竇塔は墳墓である。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/27
28: 日本@名無史さん [sage] 2024/09/10(火) 09:58:23.24 p42 そうしてこれら二十以上の建物は一区域にまとまり、下から漸次上へ曲折して配置され、背景との調和を考えて巧みに絵画的構図をとり、しかも最もおもなところは左右均整を守り良くできている。 東照宮の建築は、江戸時代のものとしては最も優れているとはいえ、しかし別に取り立てて言うほどでもないが、その装飾に至っては、木工・漆工・金工・彩工あらゆるものが用いられている。 装飾の最も有名なものが陽明門で、色彩よりもむしろ彫刻をもってうめられている。 装飾過多のそしりは免れないが、しかし当代装飾の宝庫とみれば価値がある。当代の装飾は桃山風を学んでいまだ堕落してはいない。文久に修繕したところなどは甚だ劣ったものである。 日光東照宮及び陽明門は、一つは家康を記念し、一つは家光を記念し、一つは江戸幕府の力を表現し、一つは当代美術の概念を与えてくれる。 (2)指導要領 ここでは家康とか秀忠とか家光とか、事件中の人物を生かしてくることが一つの注意点である。 しかし単なる人物論を目的とするのではなく、主題になる江戸幕府が、どうして創立されねばならなかったのか、どうして創立されたか、江戸幕府の特徴はどこにあるか、などの事件を大観させることが必要である。 その間に政治の組織に触れる。これは高小独自の材料でもあるから、よく批判的に学習させる。 経済のことが出てくる。経済のことを取り扱うと事実性を豊富にする長所を持っている。 日本精神によって経済を処理すべきものであることを知らせるのがよい。これは今までに、あまり顧みられなかった新しい材料である。 美術のことがある。これは模型とか写真のよいものが欲しい。十分に観察させて批評眼を養いたいものである。 それにしても教科書の挿絵は貧弱である。中等学校の教科書にはなかなか立派なのがある。何とかせねばなるまい。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/28
29: 警備員[Lv.2][新芽] [sage] 2024/09/10(火) 12:10:02.12 この著者の大松庄太郎氏は薩長政府史観の人間というか江戸幕府が嫌いなんだろうなと思う… http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/29
30: 日本@名無史さん [sage] 2024/09/10(火) 16:04:37.94 p43 第三十六 外国との交通 学習目的 江戸時代のはじめ、外国との交流が盛んであった状態を学習させ、対外関係について見解を養うのである。 学習事項 (一)朝鮮との国交 家康は前述のように意を内政に用い、二百六十五年間の太平の基を定めたが、また外交にも注意し、キリスト教に対しては秀吉を継承してこれを好まなかったが、海外貿易の味は十分に知っていたから、河豚は食いたし命は惜ししといったような態度で、力を海外貿易に注いだのものである。 従って外国との交通は多いに進歩を見、林羅山に「まさに今我が商客外国に通う者はほとんど二十国、我が国があってから以来今だ今日のように多く、かつ盛んなことはなかった」と言わせたが、この時から三十年を出ないで鎖国することがやむを得ない時に立ち至っているのである。 朝鮮は秀吉の外征を怨み、容易に和を好まなかったが、家康の命令を受けた対馬の宗義智(トシ)は、極力修好に努めたので、慶長九年秋かの地から孫文或と僧松雲が来て、修好のことを相談しようとするに至ったので、十年十二月義智はこれを伴って伏見に赴くと、家康はこれを引見して修好のことを議し、文禄役の捕虜一千三百名以上を帰らせることとした。 その後慶長十二年正月、正使呂祐吉以下二百七十人以上を遣わし、江戸に至って秀忠に謁見し、王李昭の書を奉り、多くの土産を献じ、駿府に至って家康にも謁見した。次いで十四年には朝鮮と宗氏との間に通商条約を結び、この時から朝鮮貿易は長く宗氏の手に帰した。 元和二年家康が薨去するや、宗氏はこれを朝鮮に告げたところ、翌三年に至って朝鮮使の来聘(外国から使節が来朝して礼物 を献じること)があり、この時から将軍が代わる毎に、必ず使いを遣わせて、国書・土産を献上するのを例とした。 ただこの場合、慶長十二年の国書などは、無礼の言もあったが、幕府はこれを黙過し、かつ朝鮮使節の優遇が度に過ぎたのは惜しむべきことであった。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/30
31: 日本@名無史さん [sage] 2024/09/10(火) 19:24:23.72 (二)家康との貿易 家康はまた明との貿易を修めようとして、慶長十五年、本田正純を使って書を福建総督に贈らせたが、答えを得ず要領を得なかった。 この時から、まず家康は琉球王を使って、我が国と明との貿易を周旋させようともした。琉球王はこれに応じなかっただけではなく、入朝を促したがこれにも従わなかった。 琉球は室町時代から薩摩の島津氏に属し、また一方明に入貢して封冊を受けていたのであるが、ここに至って慶長十四年、島津家久を使って琉球を征させた。島津氏はなお寧王以下百官を人質として連れ帰った。 二年ぶりでこれらを帰したが、この間に薩摩では、十分に琉球経営の方針を確定した。つまり琉球に薩摩のことを「お国元」と言わせながら、琉球王国を立て相変わらず支那の封冊を受けさせ、薩摩は貿易によって利を占められるということであった。この頃琉球へは支那からサツマイモの移植が行われたので、ようやく糊をしのぐことができたという程薩摩方面へ搾取されたわけである。 琉球はこの頃からの両属政策が、民族性にも影響したということである。しかしこの両属政策によって極度に貧困の苦痛をなめながら、海南の小天地に三百年の太平を保つことができたのである。 こうして明との修好はついに成功することはなかったが、しかしかの商人は毎年長崎に来て貿易を営み、のち、我が後西天皇の御代寛文元年(二三二一)明は二十世二百九十四年をもって亡び、清が興るに及び、清もまたもとのように通商をしていた。 明が滅ぶやその遺臣に鄭芝龍がいる。もっぱら明の回復を図り、助けを我が国に求めたが、幕府がこれを助けるということとはならず、その後、鄭芝龍の子、鄭成功、母は平戸の人で明主唐王から国性朱氏を賜って、朱成功といったので国姓爺(コクセンヤ)とも言ったが、彼は最初福建省廈門(アモイ)に拠り、次いで明の王族魯王を奉じて台湾に赴き、オランダ人を追い払ってこれを占領し、助けを幕府に願ったが幕府は応じない、彼はついに志を得ずに死んだ。彼の孫に至って清に降った。台南の開山神社は国姓爺を祀り、県社である。もってその忠魂を慰めている。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/31
32: 日本@名無史さん [sage] 2024/09/10(火) 19:32:37.34 家綱の時には、明の遺民、僧隠元が我が国に帰化した。禅宗の一派である黄檗宗を伝え、家康の尊信を得て、山城宇治郡宇治村五ヶ庄に万福寺を開く。代々支那僧が多かったので、山内は全く支那居留地という有り様であった。有名な鉄眼禅師は隠元と同時の人で、万福寺の塔頭宝蔵院の開祖である。 儒士朱舜水(名は之瑜)も明の遺民で、義として清の粟を食べず、明の回復を図ろうとして志を得ず、家綱の時万治二年、四年我が国に来て、帰化してついに帰らず。水戸の藩主徳川光圀に用いられて、天和二年八十三で卒した。 いずれも我が国土化上に貢献したところは少なくなかった。 ※伯夷・叔斉 「殷が滅亡し武王が新王朝の周を立てた後、主君である殷に忠誠心を持つ兄弟は、周の粟(穀物)を食む事を恥として周の国から離れ、首陽山に隠棲してワラビやゼンマイを食べていたが、最後には餓死した聖人。」 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/32
33: 日本@名無史さん [sage] 2024/09/10(火) 23:12:10.76 p47 (三)オランダ・イギリスとの通商 ヨーロッパでは我が天正九年に、オランダ共和国がスペインから離れて独立の宣言をした。オランダはこの新興勢力をもって、東洋貿易に従事し、スペイン・ポルトガルと競争していたが、たまたまオランダの商船リーフデ号が、慶長五年わが豊後の海岸に漂着し、次いで堺に至った。船中に航海士のウィリアムアダムスという英人、船員ヤン・ヨーステンというオランダ人がいた。 家康は海外貿易に着眼していた時であったから、二人を江戸に召して海外の事情を問い、外交の顧問として、長く我が国に留まらせた。 ウィリアムアダムスは家康から江戸に邸宅を賜った。今の日本橋の安針(アンジン)町はその屋敷があったところである。 また三浦半島の横須賀付近に地を賜り、二百五十石を頂き、三浦安針という日本名をつけ、旗本の女を娶り、ジョセフという子をもうけた。最後には彼は元和六年我が国で没している。 ヤン・ヨーステンの遺蹟としては、八代州河岸(ヤヨスカシ・耶揚子河岸)などの地名が残っているから、彼の邸宅がここに残っていたのであろう。 慶長十四年にはオランダの船二隻が平戸に来て、三浦安針の紹介により、家康に謁見して国書を呈し、家康から国王への答書と貿易許可の朱印状を得て、平戸に商館を開き、江戸と京都・大阪に出張所を設けて、日蘭三百年親交の端緒を開いた。 安針はイギリスも東インド貿易会社を設けて東洋貿易にかかったと聞き、書を送って日本貿易をすすめたので、慶長十八年ジョンセーリスは、国王ジェームス1世の国書をもって、駿府にいた家康に謁見し、貿易の許可を得て、後に英人が平戸に来て商館を開いたが、オランダとの戦争に敗れ、元和八年ついに商館を閉じて我が国を去った。ここにおいてオランダが支那と共に、我が国の貿易の利益を占有するようになった。 当時我が国ではオランダ人・イギリス人のこと紅毛人といった。今日でもサンフラン・オルガン・ストーブ・メス・ブリキ・マンテル・ドンタク・サーベルなどはオランダ語の残ったものであり、ケット・ネル・シャツなど英語が残ったものも少なくない。こうして我が国の文化の上に影響するところはまた大であった。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/33
34: 警備員[Lv.4][新芽] [sage] 2024/09/11(水) 12:34:40.92 >>31 朝鮮通信使は日本では国書や土産物をもってくる来聘という言葉が使われていて朝貢みたいなものと幕府は認識していたが、そういう記憶は抹殺されてユネスコの「世界の記憶」になってるんだな 江戸の韓流 朝鮮通信使<1>鎖国下の日本が熱狂 2016/8/2 18:05 //www.nishinippon.co.jp/sp/item/n/263318/ 「一行は約500人の大行列。当時の朝鮮の首都漢城(ハンソン)(現ソウル)から江戸まで、海路と陸路で往来しました。朝鮮にとって自国文化をデモンストレーションする好機です。原色の衣装を着て、竜を描いた大きな旗を掲げ、楽隊の派手な演奏に合わせて各地を練り歩きました。 海外の風物を目にすることがなかった江戸時代の庶民にとって、それがどれほどの「衝撃」だったか。大坂(現在の大阪)で見物した様子を記した「宝暦物語」(著者不明)によると、通信使の船が通る川岸には「近郷在住の老若男女その数幾千万」。ぎっしり埋まった見物客は「千体仏のごとく」とあります。 中国の先進文化をいち早く吸収していた朝鮮は、漢詩や絵画、武士も重んじた朱子学や医学などの分野で日本に先行していました。庶民の見物とは別に、文化人や裕福な商人たちも通信使に殺到し、書をほしがったり、教えを求めたりしたそうです。」 でも琉球が明からもらえたサツマイモはもらえなかった朝鮮通信使。 来日したときにサツマイモが美味しくて対馬で種芋を分けてもらってる。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/34
35: 警備員[Lv.4][新芽] [sage] 2024/09/11(水) 12:40:41.12 遠路はるばる日本くんだりまで来て芸を見せたり文化を伝えてた朝鮮通信使は人が良いというか暇人というか。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/35
36: 警備員[Lv.6][新芽] [sage] 2024/09/11(水) 14:59:40.54 p48 (四)メキシコと交通を開こうとする 家康はまた、当時イスパニア(スペイン)の領地であったメキシコと交通を開こうとした。メキシコはこの頃新(ニュウ)イスパニヤといい、我が国ではノビスパンとかノビスパンャといい、野史は新伊斯把爾亜と書いている。 たまたま慶長十四年六月ルソンを出発したイスパニア船が、途中離船して上総国に乗組員の一部がいた。その中に前ルソン総督ロドリゴという者もいた。彼は家康・秀忠に謁見したのを機に、家康は日本船によって彼らを帰国させ、これによってメキシコとの貿易を開こうとし、安針の造った百二十トンの帆船に、京都の商人田中勝助を乗り組ませ、商品を積み、ロドリゴ一行を乗せて、慶長十五年六月浦賀を出航し、九月メキシコのアカプルコについた。これが日本船の太平洋横断の初めである。 メキシコ総督は、日本との通商には容易に応じなかったが、しかし本国から日本近海の金銀島の探検を命じられていたメキシコは、答礼使としてピスカイノを遣わすことになった。 勝助などはこれと共に十六年四月に浦賀に入港し、葡萄酒・色羅紗・鳥毛の天鵞絨(ビロード)・桑板などをもたらして帰った。 ピスカイノは家康に謁見して時計などを贈ったが、のち彼が近海を測量し、金銀島を探検したので幕府の好意を失い、十八年伊達政宗のローマ遺使の船に便乗して帰国した。 伊達政宗は家康からメキシコとの条約締結促進の内命を受けたので、宣教師ソテロと支倉六右衛門常長を使者とし、百八十人の乗り組みで、慶長十八年九月十五日仙台領牡鹿郡月の浦を出発し、二十一日ルソンに至り、十二月十六日アカプルコについた。 一行はそれよりメキシコ府に至り、さらに翌年五月出発して大西洋を渡り、六月十四日スペインのサン・ルカル港に入り、十月三十日国都マドリードに着し、国王に謁見して通商の交渉をなし、元和元年八月マドリード港を出て、イタリアのゼノアに至り、九月七日ローマに入城、十二日法王に謁見して助力を願ったが、目的を達せずに、元和六年八月二十六日に無事奥州月の浦に帰還した。 七年を要したこの使節もついにメキシコ貿易の成功をみなかったというのは、ルソンの役人自ら日本貿易の利を失うのを恐れて、妨害したからだという。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1725662547/36
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