【日本史】GHQに焚書された書籍 (536レス)
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304: 10/13(日)06:34 AAS
私ども大和民族は、それまで千年以上の永きに亘って「神仏習合」というかたちで穏やかな宗教秩序を維持してきた。
平たくいえば、神社には仏様も祀(まつ)って別(わ)け隔てなく敬ってきたのである。
これは、極めて濃厚にアジア的多元主義を具現する習俗であったといえる。
それをいきなり廃止せよと命じ、神社から仏教的要素を徹底的に排斥することを推進し、ご神体に仏像を使用することも禁止したのである。
これが、全国的に大々的な廃仏運動を燃え盛らせたのだ(平成日本人は、「神仏習合」が大和的な、おおらかで自然な姿であったことも分からなくなっている)。
今、近代と呼ばれている私たちの世界は、一元主義によって行き詰まりを迎えているといえるだろう。
かつての東西冷戦も現代の西欧社会とイスラム社会の衝突も、一元主義と一元主義の対立である。
一元主義同士の戦いを一元主義によって収束させることは、残念ながら無理なのだ。
薩長権力が一転して狂ったようにかぶれた西欧文明はまもなく確実に終焉を迎えるであろうが、それは言葉を換えれば一元主義の破綻といっていい。
もともと大和民族は、多元主義的な生態を維持してきた故に、多少の混乱期を経験しながらも長期的には平穏な生存空間を、政治的な版図(はんと)を超越して維持してきたのである。
省4
305: 10/13(日)06:35 AAS
こういう現象は、時代の転換期には間々あることではある。
とはいえ、神聖政治を目指す、神道(しんとう)を国教とする、仏教はそもそも外来のものである、すべてを復古させるべきだというのだから、これはもう気狂い状態に陥ったというべきであろう。
では、一体どこへ復古させるのが正しいのか……当然、五世紀以前ということになってしまうのである。
そもそも薩摩長州は、徳川政権を倒すために天皇を道具として利用したに過ぎない。
そのために「尊皇攘夷」という大義名分が必要となった。
これは、どこまでも大義名分に過ぎない。
薩摩長州のリーダー層が純粋に尊皇精神をもっていたかとなると、幕末動乱期の行動、手法が明白に示す通り、そういう精神は微塵(みじん)ももち合わせていなかったとみるべきであろう。
「尊皇攘夷」を方便として喚き続けているうちに本当に気狂いを起こし、「王政復古」を唱え、何でもかでも「復古」「復古」となり、大和朝廷時代が本来のあるべき姿であるとなってしまったのだ。
その結果、寺を壊せ、仏像を壊せ、経典を焼け、坊主を成敗(せいばい)せよ、となってしまったのである。
この「廃仏毀釈」を単なる民衆の行き過ぎた一時的なムーブメントとし、新政権の方針とは全く無関係であると学者はいい続けてきたが、それは違う。
省4
306: 10/13(日)06:41 AAS
(中略)
「廃仏毀釈」とは、それほど醜い仏教文化の殲滅(せんめつ)運動であったのだ。
「復古」「復古」と喚いて、激しく「尊皇攘夷」を口先だけで主張し、幕府にその実行を迫ってテロを繰り広げた薩摩長州人は、このように古来の仏教文化でさえ「外来」であるとして排斥したのだが、政権を奪うや否や一転して極端な西欧崇拝に走った。
「尊皇攘夷」式にスローガンとしていうならば、今日からは「脱亜入欧(だつあにゅうおう)」だと豹変したのである(後に福澤諭吉が唱えた「脱亜入欧」は、経緯、主旨が異なる)。
これほど激しい豹変を、それも昨日と今日の価値観が逆転するといった具合に短期間に行った民族というものも珍しい。
どちらの態度も、己のアイデンティティを破壊することに益するだけであることに、彼ら自身が気づいていなかったのである。
日本人は、テンション民族だといわれる。
明治維新時に植え付けられたと思われるこの特性は、大東亜戦争敗戦時にも顕著に顕れた。
その悪しき性癖は、今もそのまま治癒することなく慢性病として日本社会を食いつぶすほど悪化していることに気づく人は少ない。
このことは、ほとんど近代政治家と官軍史観による教育の犯罪といってもいい過ぎではないだろう。
307: 10/13(日)06:43 AAS
奇兵隊を結成した高杉晋作は長崎のフルベッキのところに出入りしていた。
2017.08.29 07:00 SAPIO
明治維新・廃仏毀釈で日本の貴重な文化財が流出、もう戻らない
外部リンク:www.news-postseven.com
「長州では明治維新前夜から廃仏毀釈的な風潮があり、高杉晋作らが結成した奇兵隊の隊士に刀で首を切られた地蔵なども残っています。また『神罰』だといって殺された僧侶もいる。ただ、現代の視点から見れば『ひどい宗教弾圧だ』と感じるかもしれませんが、江戸時代の仏教は幕府権力と結びつきが強すぎたため、『廃仏毀釈は新時代建設のための反体制運動だった』という視点から見る必要もある」
308(1): 10/13(日)06:59 AAS
2022.09.30
大隈重信、岩倉具視ら「幕末の獅子たち」を惹きつけた宣教師「フルベッキ」…その魅力の正体
外部リンク:gendai.media
長州藩士の高杉晋作は一八六二年(文久二年)長崎へやって来た。四月二九日上海へ出発するまでの間に、崇福寺在住のフルベッキを訪ね、アメリカの南北戦争や中国の太平天国の乱などについて質(ただ)した。太平天国の乱が洪秀全(こうしゅうぜん)(宗教家・革命家)らキリスト教系の宗教団体が起こしたものだったこともあり、高杉はキリスト教を敵視していた。
フルベッキと会談した際の様子を『長崎淹留雑録』に残している。
「彼(かの)二人日本語を学ばんと欲する、何とも怪し、耶蘇教を日本へ推し広めんことを欲るならん」(『高杉晋作全集』)
土佐藩士岩崎(いわさき)弥太郎(やたろう)も足繁く通った。岩崎はいわゆる土佐商会の主任として土佐藩の貿易業に従事した。後に三菱財閥の創業者となる岩崎は長崎時代、フルベッキの知己を得て、活動範囲を大いに広めたのである。
一八六八年(慶応四年)五月四日の書簡で、フルベッキは当時を振り返っている。
「一年あまり前に副島と大隈の二人の有望な生徒を教えましたが、これら二人は新約聖書の大部分と米国憲法の全部とをわたしと一緒に勉強しました」(『フルベッキ書簡集』)
明治の元勲大隈重信や「政体書」を起草した副島(そえじま)種臣は、フルベッキから直接、欧米世界の幅広い情報や知識を得ていたのである。
省2
309(1): 10/13(日)07:33 AAS
>>308
これだと高杉晋作とフルベッキが対立したままだった。
高杉晋作Wikipedia
外部リンク:ja.m.wikipedia.org
「文久2年(1862年)には藩命で、長崎から中国(清)の上海へ渡航することになり、同年1月2日(旧暦)に長崎へ出発。到着した長崎では、崇福寺に滞在していた米国人宣教師のチャニング・ウィリアムズ(立教大学創設者)や、グイド・フルベッキから欧米の南北戦争や清国の内乱に関する世界情勢の最新情報を得るなど上海行きの準備を進めた。晋作の手記『遊清五録』の中の「長崎淹流雑録」に、ウィリアムズから大統領制などの政治制度についても学んだことが記されている。このことが、奇兵隊を創設する着想となったと言われる」
高杉晋作ミュージアムだと、伊藤博文と高杉晋作はグラバーとラウダーに渡英の世話になっている。
外部リンク:shinsaku-m.com
310: 10/13(日)07:34 AAS
高杉晋作Wikipediaスクショ
画像リンク[jpeg]:i.imgur.com
311: 10/13(日)07:36 AAS
>>148
アメリカ宣教師チャニング・ウィリアムズは来日当初、長崎の寺でフルベッキと一緒に住んでいた時期がある。
312: 10/13(日)12:11 AAS
だから反日NHKが徳川が嫌いなのはアメリカの意向かなと思っている。
やっぱり蔦屋では田沼すごい!幕府アホという構図になるのか?
313: 10/13(日)15:36 AAS
p212(三)教育の発達
明治五年八月には学制が定まった。中央集権的なところは仏国式、小・中・大学の階級的連絡は米国式によったもの、学風は一般に米国風であった。
明治十二年九月には、教育令が発揮され、大・中・小学区を廃し、町村に命じて小学校を設立させ、町村自治により、六歳から十四歳までが学齢で、就学義務期限は十六ヶ月ということになった。
十三年二月の改正教育令において、三ヶ年間毎年十六週以上の義務教育とし、十四年五月には小学校を初等三年、中等三年、高等二年とし、十八年に教育令改正があったが、これは実施しないで次の改正となったもので、このへんまでは学制の反省時代ともいうべく、学風はペスタロッチーやスペンサーが流行した。
十八年、官制に大改革があって、文部大臣森有礼は翌十九年学校令を発布した。小学校令は尋常と高等とに別け、小学簡易科をもって尋常に代用する。二十三年また改正小学校令が出て、尋常は三年または四年とし、高等は二年・三年または四年とした。
中学校は学制の中に上等・下等の二中学と、変則中学というものがあったが、十四年には初等・高等の二種とし、十九年には高等・尋常の二種とし、大学予備門を第一高等中学校とした。
こうして普通教育が行き渡ると共に、帝国大学及び各種の専門学校も設けられて、高等の教育もおいおいに進み、今まで世に顧みられなかった女子教育及び実業教育などもだんだん興って来た。
明治新政に入ってから後も、教育の制度は、なお江戸時代のものを、そのまま引き継いだもので、江戸幕府の開成所(蕃書調所とか洋書訓所とかいった)をもって学校となし、ここでもっぱら洋学を修めさせた。二年六月には昌平校を大学校と称して、開成校・医学校などを管理させた。次いで大学校を大学と改称し、開成校を大学南校と称し、医学校を東校と称し、四年には大学を改めて
文部省とした。
314: 10/13(日)16:42 AAS
ペスタロッチはイルミナティの支部の共同設立者
その後興味を失ったというけれど…
「1783年、啓蒙主義の先駆者たるペスタロッチはイルミナティ教団チューリッヒ支部の共同創設者となり(彼の教団名はアルフレッド)、1784年にはフロント組織であるチューリッヒの「善良なる人々の協会」(Gesellschaft zur Aufnahme des Guten)の共同創設者となった。しかし、彼は比較的短期間でこの関係に興味を失った。」
外部リンク:ja.m.wikipedia.org
スクショ
画像リンク[jpeg]:i.imgur.com
315(1): 10/13(日)16:50 AAS
日本最初のフリーメーソンの一人西周は慶喜の側近か
やっぱりフリーメーソンが江戸幕府を倒したんだ
そしてまた消されるかもしれないのでスクショ
しかしimgerは公開期間が決まっているとか
画像リンク[png]:i.imgur.com
外部リンク:ja.m.wikipedia.org
文久2年(1862年)には幕命で津田真道・榎本武揚らとともにオランダに留学し、ライデン大学でシモン・フィッセリング(ドイツ語版)に法学を、またカント哲学・経済学・国際法などを学ぶ。なお、1864年にライデンでフリーメイソンリーの「ラ・ベルトゥ・ロッジ・ナンバー7」に入会したとの史料も発見されている[3]。
慶応元年12月28日(1865年2月13日)の帰国後、目付に就任[4]、徳川慶喜の側近として活動する。王政復古を経た慶応4年(1868年)、徳川家によって開設された沼津兵学校初代校長に就任。同年、『万国公法』を訳刊。
明治3年9月28日(1870年10月22日)、明治新政府に乞われ兵部省(のち陸軍省)に出仕、軍人勅諭・軍人訓戒の起草に関係するなど、軍政の整備とその精神の確立に努め、文部省・宮内省・元老院などの公務も兼任した(学制取調御用掛・宮内省侍讀・宮内省御用掛・文部省御用掛・東京師範学校校務嘱託・元老院議官)。
明治6年(1873年)には森有礼・福澤諭吉・加藤弘之・中村正直・西村茂樹・津田真道らと共に明六社を結成し、翌年から機関紙『明六雑誌』を発行。
316: 10/13(日)16:51 AAS
>>315
フリーメーソン西周のソース
\u003C研究ノート>オランダにある幕末維新史料 : とくに日本海軍留学生の記事
宮永, 孝
外部リンク:hosei.ecats-library.jp
317: 10/13(日)17:58 AAS
西周と一緒にオランダ留学した幕臣津田真道
//ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E7%94%B0%E7%9C%9F%E9%81%93
「藩籍を脱して苦学したが、安政4年(1857年)蕃書調所に雇用されて、文久2年(1862年)には西周とオランダに留学しライデン大学のシモン・フィッセリング(ドイツ語版)に学ぶ。オランダ留学中の1864年(元治元年)にライデンのフリーメイソンリーの「ラ・ベルトゥ・ロッジ・ナンバー7」に入会している[1]。4年後に帰国する。その講義録を慶応2年(1866年)に『泰西国法論』と題して訳出する。これは日本初の西洋法学の紹介となる。その後、幕府陸軍の騎兵差図役頭取を経て、目付に就任。大政奉還に際しては徳川家中心の憲法案を構想した(『日本国総制度』[2])」
318: 10/13(日)17:58 AAS
ソース:外部リンク[php]:nipponlodge9.com
西周と津田真道この二人が日本人のフリーメーソン第一号というのは上のサイトに載っている。
日本のフリーメーソンリーWikipedia
外部リンク:ja.m.wikipedia.org
319: 10/13(日)19:58 AAS
p214
明治五年全国を八大学区としたことは前に述べたが、明治十年大学東南両校を合併して東京大学と称し、法・理・文・医の四学部を置いて、学術の蘊奥を究めるところとした。明治十九年の学制大改革の際、工部大学校をこれに併せて帝国大学と改めた。二十三年は農科大学もできて六分科となった。京都大学が置かれたのは三十年である。
学校にも官・公立の他に私立の学舎が設けられるものも少なくなかった。福沢諭吉は天保五年十二月生まれ、豊前の人、緒方洪庵について蘭学を修め、安政五年江戸に出て英語を研究し、翌年幕府の使節に随行してアメリカへ行き、後また欧米に漫遊し、さらに慶応三年アメリカに行ったことがあった。慶應義塾をたてたのは安政五年で、これは明治四年に三田に移った。
福沢は一方では旧思想破壊をふるい、一方では新思想・新文化の建設に努力した。主としてアメリカの思想を重んじ、天賦の人権を尊び、自由平等の理を説き、実用主義を可とし、独立自尊を宣伝した。「学問のすゝめ」「西洋事情」などの著書を見ると福沢が偲ばれる。福沢に対して中村敬守のイギリス思想を吹聴する者もあり、加藤弘之のドイツ思想があり、明治の文化も繚乱の様を呈した。
この福沢が戊辰の騒乱中にも、なお自若としてウェーラントの経済学を講じていたというが、それは慶應義塾が一橋辺りにあった頃である。
また大隈重信は天保九年の生まれ、新思想には割合に早く触れることの出来た人。それは佐賀藩が福岡藩と隔年交代で長崎警固の任務を司っていたからである。関直彦が大隈重信の偉勳を三つ数えたことがある。その一は維新の功勳である。その二は憲政に対する偉勳である。その三は教育上の功勳である。
彼は明治十五年に私財を投じて早稲田専門学校を創立した。明治十七、八年頃より早稲田出身の人々は政治に実業に、文学技芸にいずれも国家社会のため有用な活動をしている。
早稲田の他イギリス法律学校(中央大学)明治法律学校(明治大学)専修学校(専修大学)和仏法律学校(法政大学)あって、いずれも政治・経済の学を授け、東京の五大法律学校といった。
320: 10/13(日)19:59 AAS
p215
また明治六年に創立して、十八年に廃校となった中村正直の同人社、明治八年創立以来いよいよ盛んとなった新島襄の同志社など教育の設備はいよいよ備わった。
しかしややもすれば、西洋の文明に酔って、我が国古来の道徳を軽んじる傾向があって、教育の主義も動揺していたようである。ここにおいて明治二十三年十月三十日、天皇、教育に関する勅語を下して、国民道徳の大本を示しなさる。史家は明治二十年頃から二十七、八年頃までを、国粋保存の期だともいうが、我が国の教育勅語はこの時期に煥発されたものであるだけに、まことに全国史の結晶がここに表現された観があり、国民の向かうところは示された。明治天皇が「みなその徳を一つにするだろうことを請い願う」と結ばれた、いわゆる「一徳」の教えをもって、力強くその向かう所を示されたものである。これによって教育の方針が確定し、文化発展の理想が明瞭になった。
321(1): 10/14(月)11:17 AAS
p216(四)新しい文学・芸術起こる
明治初年の文学はただ江戸時代の余勢を保っただけで、いまだ新興文学を見ることは出来なかった。仮名垣魯文の「西洋膝栗毛」はやや有名ではあるが、これは構想を東海道中膝栗毛にとって、弥次郎兵衛・喜多八の両人が、横浜の豪商大腹屋に伴われてロンドンで遊ぶ途中、様々な滑稽を演じるという筋で、その文の手法は三馬や一九を模したくらいで、文学としての価値はほとんどいうに足りない。戯文狂詩の成鳥柳北にしても漢文学を引いたら後に残るものはなかろう。ただ一人脚本界に河竹黙阿弥がいて、ひとり黙って、芸術的独創の一路を拓いていたようだが、これとても案外思想的背景は乏しく、勧善懲悪にとらわれがちなのはやはり江戸時代の継承と見られるようである。
西洋文学の翻訳は、明治初年から相当に出たが論じるほどのものでもない。福沢諭吉が平明な独特の文章で、チェンバーの修身書を訳して童蒙牧草を出すなど、洋書の翻訳が盛んであったが、文学として論じることはできない。やはり新趣の見るべきものは明治十年代を待たねばならなかった。
十年代においてもっとも著しい事実は、翻訳文学と政治小説である。前者は欧化思想、後者は自由民権、共に時代を背景として出て来たもの。前者には数十種もあるがいちいち挙げない。後者においては十九年公にされた末広鉄腸の「雪中梅」、二十年に出た柴四郎(東海散士)の「佳人の奇遇」須藤南翠の「新装の佳人」などあらわれ、当時青年の心をとらえたものであるが、文学価値としては問題にならない。この時に当たって特に大書すべきものは、十八年に著された坪内逍遙の「小説神髄」である。これによって今までの小説を支配した勧善懲悪主義・誇大虚妄主義を排して写実主義を唱え、小説作者に指針を示している。次いで逍遙は「小説神髄」の思想を実現するために、自ら「当世書生気質」を書いた。これは逍遙の理想は完全に体現しているとはいえないが、この二書はたしかに暗黒の中に新曙光を点したものといえる。
322(1): 10/14(月)11:54 AAS
坪内逍遙は江戸時代の代表的作家の曲亭馬琴を潰した西洋の手先という印象。
だからたいした作品も残せてないのに教科書にまで名前が載っている。
欲のない八犬士が人間じゃないなら、欲のない悟空も操り人形だろと言いたい。でも操り人形ではない。
ユダヤ人は作家を使って社会的思想をコントロールするのが得意技という話題に関連して。
2chスレ:history2
坪内逍遙『小説真髄』訳
小説の主眼
小説の主眼は人情である、世態風俗はこれに次ぐ。人情とはどんなものをいうのか。曰く、人情とは人間の、情慾で所謂百八煩悩(ぼんのう)これである。そもそも人間は情慾の動物であるから、どんな賢人、善者であるといって、いまだ情慾を有(も)たないものは稀である。賢不祥の弁別なく、必ず情慾を抱いたので、賢人が小人物と異なる所以、善人が悪人と異なる所以は、一に道理の力をもって、もしくは良心の力によって、情慾を抑え制(とど)め、煩悩(ぼんのう)の犬を攘(はら)うことにとりわけ起因する。
しかし智力が大いに進んで、気格(きぐらい)が高尚な人に在っては、常に劣情を包み、隠してその人の外面に顕(あらわ)さないので、さながらその人は煩悩を完全に脱したかのようであるけれども、彼も同様に有情の人とあるからには、どうして情慾がないことがないだろう。たとえ哀れんでも乱れることがなく、楽しんでも荒(すさ)むことなく、上手にひたすらその節(ぐあい)を守っているのか。忿(いか)らなければならない者をも敢(あ)えて忿(いか)らない、怨まなければならない者をも怨まないのは、もともと情慾が薄いのではなくて、その人の道理力が強いがゆえである。こういうことだから外面(おもて)に現れて、行う所はあくまで純正純良であるといっても、その行いを実行するに先だちどれほど多く劣情が心の中に勃発することはなくはないのでは。
323: 10/14(月)11:56 AAS
その劣情と道理の力とが心の中で互いに闘い、道理が劣情が勝つに及んで、はじめて善行を実行することができるのである。彼が神聖ではない以上は、水が低い方に就くように善を修める者はいるだろうか。いくらか迷う心があるのを、上手に道理をもって抑(おさ)えるからこそ賢人とも君子とも言われるのである。初めから迷いがないならば、善を実行するとしても珍しくはない。君子、賢人などというような者は、かえっておろかであるに違いない。
だから人間という動物には、外に現れる外部の行為(おこない)と、内に蔵(かく)れている思想と、二件の現象があるに違いない筈である。それから内外双(ふた)つながらその現象は駁雑(さまざま)で、顔のように異なるものの、この世に歴史があって伝記があって、たとえば外に見えている行為などは概(おおむ)ね是(これ)を書き写すといっても、たとえば内部に包んだ思想などはくどく及ぶのをもって、書き写すことができている物はいまだかつて稀である。この人情の奥を穿(うが)って、賢人、君子はいうまでもなく、老若男女、善悪正邪の心の中の内幕を、洩らす所なく描き出して、周密精倒、人情を際立って明らかとして見させることを我が小説の務めとするのである。
たとえ人情を書き写すならといって、その皮相だけを写しているものは、まだ之を真の小説といってはならない。その骨髄を穿(うが)つに及んで、はじめて小説が小説とあるのを見るのである。和漢に名がある稗官者流(はいかんしゃりゅう)は、ひたすら脚色(しくみ)が皮相にとどまるのを拙(つたな)いとして、深くその骨髄に入るようなことを力めていたけれども、主脳としなければならない人情を皮相を書き写して十分であるとした。なんと残念に思わなければならないことではないか。稗官者流は心理学者のようだ。心理学の道理に基づき、その人物を仮作(つく)ることがよい。苟(かり)にも自分の意匠を似って、強いて人情に悖戻(はいれい)する、いいえ、心理学に戻(そむ)いた人物などを仮作(つく)り出すなら、その人物は已に既に人間世界の者ではなくて、作者の想像の人物であるからその脚色は巧みであっても、その譚(ものがたり)は奇であるというとしても、これを小説といってはならない。
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