【日本史】GHQに焚書された書籍 (542レス)
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274(1): 2024/10/09(水)14:50 AAS
p186(三)社会の面目一新す
維新のはじめは東京・大阪間毎月十八回の飛脚が往復したのであったが、明治三年十二月には東海道十二藩六県に郵便箱・切手売捌所を設け、四年になると新式郵便制度を始め出した。六年十一月から郵便はがきを発行し、八年一月から為替を取り扱い、その四月から郵便貯金をはじめ、十年三月には万国郵便同盟に加わったのである。
電信は二年八月横浜灯台寮から横浜裁判所まで七町ほど架けられたのがはじめで、次いで京浜間八里以上、漸次全国に及び、八年には長崎・上海間の海底電線を施設するに至った。
鉄道は五年九月に京浜間約十八里開通以来、七年十一月には大阪・神戸間、九年九月には京都まで延長したが、これらはほとんど外人によって完成されたのであったが、十一年八月起工した京都大津間の工事は、主として日本人によってなされたものである。逢坂山の難工事も成し遂げて開通式を挙げたのは十三年の七月であった。以来各要地に施設の計画をして、東海道全線の工事に着手することに決したのは十九年のことであった。二十二年には開通を見るに至った。
海運の方は明治二年三月東京・大阪に、回漕会社を設け、汽船で運送をはじめ、四年これが逓信局の管轄となったが、この年岩崎弥太郎が三菱会社を起こして競争したので、十五年政府保護の共同運輸会社が起こった。しかし三菱に押されたので、十八年には合同して日本郵船会社となった。
このように世態が変わると共に、御誓文にいわゆる旧来の悪い習慣を破ることは種々の形になってあらわれた。史家は明治のはじめから十年頃までを旧習一洗の時代とも言っている。
明治二年六月には公卿、諸候を華族と改称し、諸候の臣を士族とし、農工商に従事する者を平民といった。これによると、華族と士族と平民ができたわけであるが、もとのような隔たりはなかった。江戸時代には農工商賈を四民といったが、商とは歩いて物を売る方で、賈は家にとどまって物を売る方である。また、士農工商すなわち士庶を四民ということもある。そうしてこれらの階級は完全に固定的に上下はあったが、維新以来この階級制度が次第に崩壊の運を辿った。
282: 2024/10/10(木)15:39 AAS
p192 学習参考
(1)挿絵解説
「岩倉大使ら欧米に派遣される」の絵は聖徳記念絵画館書題考証図五姓田芳卿筆によったもの。明治四年十月十二日岩倉大使一行五十四人が横浜を出る時の光景である。太平洋汽船会社の飛脚船アメリカ丸は国旗を掲げて海中で待っている。一行をのせたランチはアメリカ丸めざしてこいでいる。この日は駐日米公使デロングが同乗帰国するので、出港に際しては岩倉大使に対する十九発、米公使に対する十五発の祝砲を発したのである。
「天皇は京浜鉄道開業式に臨幸しなさる」絵は東京市史稿中にある英人シンドレー筆の絵画の写真によったもの。明治五年九月十二日京浜鉄道開通式を挙げられ、天皇は横浜停車場にて勅語があり、新橋停車場に還幸遊ばされた時の光景である。停車場前には大アーチが建てられ、御車寄の上には、今も鉄道で用いる工の字の旗が立っている。官吏が烏帽子直衣の服装で供奉しているのも、拝観者の中には結髪に大小を帯刀しているのも、よく当時の光景を表している。
蒸気力の応用として機関車の作成に成功したのは、英国人ジョージ・スチーブンソンで、これは西紀一八一四年のこと、汽車が初めて運転したのはリバプールとマンチェスター間で、それは一八三〇年のこと。日本ではじめて鉄道が開通したのはこれに遅れること四十二年、すなわち明治五年である。京浜間約十八哩の全通であったが、明治の末期に至れば全国の延長六千哩に垂れ下がろうとするまで発達した。
この図では当時における上下の努力と歓喜に想到し、学習者に新日本発展の喜びを共にさせなければならない。
※哩=マイル>>274も「京浜間約十八里開通以来」を十八哩(マイル)に訂正
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