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邪馬台国畿内説 Part1070 (1002レス)
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1 ◆ondZSOlfxeS6 警備員[Lv.16]
11/13(水)23:00
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85: 1 ◆ondZSOlfxeS6 警備員[Lv.16] [sage] 2024/11/13(水) 23:00:39.99 ID:l+mQ5anS0 ◆FAQ 99 Q:ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ! 4世紀後半だ! A:後代の混入物として除外する通説が正しい。 墓室内に落下していた丸底坩と加飾壺は、他古墳での類例を鑑み、墳頂に囲繞配列されていた祭祀用土器と見るのが妥当と思われる。明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう。 ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある。3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察される。また4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇があり、これが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している。 Intcal20から見た炭素14濃度は西暦270年頃をボトムとして大きく上昇しており、布留1古相のyBP値が新相のそれより高く出る実態と合致している。また、同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半、他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも、気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる。逆に270年頃のピークは両資料とも適切に合致しており、より信頼度が高い。ここから、天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する。 周濠底のS字甕Aの年代(庄内3)に属する多数の測定例と整合している。 https://i.imgur.com/nHtnTXO.png ◆FAQ 100 Q:会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや淮河より北だ! A:卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の浙江省および福建省、単独で「会稽」と言えば常に現・紹興市越城区にあった会稽郡治「会稽山陰」を指す。 「越王句踐、其先禹之苗裔而夏后帝少康之庶子也。 封於會稽、以奉守禹之祀」(史記越王句踐世家) 「禹周行天下、還歸大越、登茅山以朝四方羣臣、封有功爵有?コ。崩而葬焉。 至少康、恐禹迹宗廟祭祀之絶、乃封其庶子於越、號曰無餘。」(吳越春秋) 「會稽郡山陰、會稽山在南,上有禹冢」(後漢志郡国四) ✳︎茅山:会稽山の別称 秦の王翦が楚を滅した時、楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした。 会稽郡治が現・蘇州市にった時期、当地は呉本国、呉県と呼ばれ、会稽は依然会稽山麓に所在す。 以降変転を経て順帝永建四年(199A.D.)に呉郡を分割し、以降の会稽郡治は会稽山陰である。 「会稽東治」が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである。 「東冶」は『捜神記』や『太平広記』並びに書陵部蔵三国志 南宋刊「紹熙」本に登場し、すべて越が楚に滅された後の越族の都となった閩越(卑弥呼朝貢当時の「東侯官治」)を指している。 (参考:FAQ40) http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1731503006/85
ホケノ山古墳の年代は古木効果の影響を受けない小枝資料の炭素年代によるべきだ! 4世紀後半だ! 後代の混入物として除外する通説が正しい 墓室内に落下していた丸底と加飾は他古墳での類例を鑑み墳頂に囲配列されていた祭用土器と見るのが妥当と思われる明らかに混入物である小枝資料は天井崩落時のコンタミであろう ラジオカーボンによる暦年代の較正に当たっては古墳寒冷期に対応する炭素14濃度の乱高下を考慮する必要がある3世紀末にかけて大幅な炭素14濃度の上昇が観察されるまた4世紀後半にはラジオカーボンの崩壊速度に見合う濃度上昇がありこれが撹乱要因となって較正曲線によって絞り込める暦年代が拡散している から見た炭素14濃度は西暦年頃をボトムとして大きく上昇しており布留1古相の値が新相のそれより高く出る実態と合致しているまた同時代資料と見られる小枝の確率密度分布ピークが一方は4世紀中葉後半他方が4世紀末から5世紀初頭の値を示すことも気候変動による撹乱要因が深刻であることを読み取れる逆に年頃のピークは両資料とも適切に合致しておりより信頼度が高いここから天井崩落の時期を布留0末から布留1初頭と推察する 周濠底の字の年代庄内3に属する多数の測定例と整合している 会稽東治は蘇州だ! いや上海だ! 長江河口近辺だ いや河より北だ! 卑弥呼が通交した時代の会稽郡は現在の江省および福建省単独で会稽と言えば常に現紹興市越城区にあった会稽郡治会稽山陰を指す 越王句其先之苗而夏后帝少康之庶子也 封於稽以奉守之史記越王句世家 周行天下還大越登茅山以朝四方臣封有功爵有崩而葬 至少康恐宗廟祭之絶乃封其庶子於越無越春秋 稽郡山陰稽山在南上有後漢志郡国四 茅山会稽山の別称 秦の王が楚を滅した時楚に併合されていた呉越を分離して会稽郡とした 会稽郡治が現蘇州市にった時期当地は呉本国呉県と呼ばれ会稽は依然会稽山麓に所在す 以降変転を経て順帝永建四年に呉郡を分割し以降の会稽郡治は会稽山陰である 会稽東治が呉郡や徐州に存在しないことは明らかである 東冶は捜神記や太平広記並びに書陵部蔵三国志 南宋刊紹本に登場しすべて越が楚に滅された後の越族の都となった越卑弥呼朝貢当時の東侯官治を指している 参考
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