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邪馬台国畿内説 Part1071 (1002レス)
邪馬台国畿内説 Part1071 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1732004140/
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19: 1 ◆ondZSOlfxeS6 ハンター[Lv.47][苗] [sage] 2024/11/19(火) 17:27:02.49 ID:2GxKPloM0 ◆FAQ 13 Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている! 古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない! A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なる概念である。よって否定材料にならない。 呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。 石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら) 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて韓地経由の楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響ではあるものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状である。 就中、ホケノ山は床板が無く、石室構築のための仮設の板壁を石室完成後に撤去した木蓋石室墓とする復元案(真鍋2018)も有之、古代中国人が認識する木槨とは程遠い。 これを槨と称するならば、北部九州に多い箱式石棺も歴然と槨である。 畿内で一般的な墓は木棺直葬の方形周溝墓で「有棺無槨」に適合している。 ◆FAQ 14 Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか? A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能である。 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。 このような状況下で、畿出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1732004140/19
20: 1 ◆ondZSOlfxeS6 ハンター[Lv.47][苗] [sage] 2024/11/19(火) 17:27:36.03 ID:2GxKPloM0 ◆FAQ 15 Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ! A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと推定できる。 他に、使用痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧とがある。 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、 南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。 纒向での鉄利用状況については、遺跡建設当初の庄内0期遺物から鉄器による加工痕が認められる。 大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析では、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から 「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011) と結論されている。 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。事実、鉄製品の腐食に最も影響力の強い硫化物が海成粘土層が畿内中枢部の深層に分布している。 また併せて、纒向遺跡で脱炭鋼を製造していた布留0期の鍛冶遺構に於て鉃滓は共伴するが成品が発見されない状況は、官製工房的な管理の強化・貫徹を想定するに足る。 古墳時代に入ると「鉄器が普及したと同時に、首長層へ鉄器が集中した」(橋口2002) という視点に立てば、首長級墳墓への集中と生活遺構での不在という鉄器の偏在は理解しやすい。 ひとたび古墳への副葬が開始すると、畿内大和の鉄剣・鉄刀出土量は隔絶的である。 https://i.imgur.com/S93qy2b.png 首長権力の有りようが窺われる。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1732004140/20
21: 1 ◆ondZSOlfxeS6 ハンター[Lv.47][苗] [sage] 2024/11/19(火) 17:28:13.56 ID:2GxKPloM0 ◆FAQ 15−2 纒向大溝建築材実測図 https://i.imgur.com/EPtpzEw.png 矢板列支柱(左)に角の明瞭な貫穴、矢板(右)に鱗状手斧痕。倶に鉄器による加工の特徴を示す。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1732004140/21
22: 1 ◆ondZSOlfxeS6 ハンター[Lv.47][苗] [sage] 2024/11/19(火) 17:28:44.58 ID:2GxKPloM0 ◆FAQ 15−3 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半〜中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1732004140/22
23: 1 ◆ondZSOlfxeS6 ハンター[Lv.47][苗] [sage] 2024/11/19(火) 17:29:09.86 ID:2GxKPloM0 ◆FAQ 15−3 纒向遺跡メクリ地区に「大型の鉄製品を砥ぐという行為が行われていたのは間違いがな」いとされている大量の砥石があり、廃棄時期は3世紀前半〜中頃、最も古いものは「庄内2式期の可能性」(『纒向遺跡発掘調査報告書2』桜井市教委2009)とされる。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1732004140/23
24: 1 ◆ondZSOlfxeS6 ハンター[Lv.47][苗] [sage] 2024/11/19(火) 17:29:48.35 ID:2GxKPloM0 ◆FAQ 16 Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない! 九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう! A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。 ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17 Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ! A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。 ◆FAQ 18 Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ! A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。 したがって測定は存在しない。 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。 西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。 西漢末成立と考えられる周髀算經においても 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正 則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」 とあり、1里=1800尺が維持されている。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1732004140/24
25: 1 ◆ondZSOlfxeS6 ハンター[Lv.47][苗] [sage] 2024/11/19(火) 17:30:56.70 ID:2GxKPloM0 ◆FAQ 19 Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか! これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる! A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。 魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。 ◆FAQ 20 Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6 これで説明が付く! A:そのような整合性は認められない。 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む) 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1732004140/25
26: 1 ◆ondZSOlfxeS6 ハンター[Lv.47][苗] [sage] 2024/11/19(火) 17:31:19.57 ID:2GxKPloM0 ◆FAQ 19 Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか! これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる! A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。 魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。 ◆FAQ 20 Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6 これで説明が付く! A:そのような整合性は認められない。 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む) 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1732004140/26
27: 1 ◆ondZSOlfxeS6 ハンター[Lv.47][苗] [sage] 2024/11/19(火) 17:32:10.08 ID:2GxKPloM0 ◆FAQ 21 Q:箸墓の周濠から馬具が出土している! 箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ! A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。 郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であったが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が続き、南京市幕府山呉丁奉家族墓の鼓吹俑で271年まで遡った。中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。 現物は西晋末〜東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降るが、咸陽成任村東漢墓の金属器物は現状最古鐙現物である可能性が高い。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1732004140/27
28: 1 ◆ondZSOlfxeS6 ハンター[Lv.47][苗] [sage] 2024/11/19(火) 17:32:42.48 ID:2GxKPloM0 湖南省西晋墓陶俑図 https://i.imgur.com/oM4NXR6.png 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1732004140/28
29: 1 ◆ondZSOlfxeS6 ハンター[Lv.47][苗] [sage] 2024/11/19(火) 17:33:21.34 ID:2GxKPloM0 ◆FAQ 22 Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない! 同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る! A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。 http://i.imgur.com/rYVZcSP.png これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。 大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)この桃核12測定例の平均値をIntcal20で歴年代較正して次に掲げる。 https://i.imgur.com/VKIld2Q.png 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、 そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1732004140/29
30: 1 ◆ondZSOlfxeS6 ハンター[Lv.47][苗] [sage] 2024/11/19(火) 17:34:03.56 ID:2GxKPloM0 ◆FAQ 23−1 Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない! A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。 (河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。 箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。 1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築 2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。 ※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。 4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。 5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成 以上の段階1〜4で方丘が存在していない。 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。 ※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。 前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。 (本項 続く) http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1732004140/30
31: 1 ◆ondZSOlfxeS6 ハンター[Lv.47][苗] [sage] 2024/11/19(火) 17:34:51.65 ID:2GxKPloM0 (承前) ◆FAQ 23−2 ◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと ◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと ※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。 ◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと ◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること ◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること ・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86) ・ 前橋王山古墳 :上毛 ・ 持塚二号墳 :上総 ・ 高千穂七号墳 :上総 ・ 山伏作一号墳 :上総 ・ 長沖八号墳 :武蔵 ・ 温井一五号墳 :能登 ・ 見手山一号墳 :但馬 ・ 西穂波16号墳 :東伯 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式 ・ 高鼻二号墳 :伯耆 ・ 日拝塚古墳 :筑前 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984) ・ 朝日谷2号墳 :伊予ー布留0古(梅木1998) ◯朝日谷2号で後円部上に棺設置後、覆土と同時に前方部の盛土開始が判明していること ◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること ◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等 ◆FAQ 24 Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう! A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1732004140/31
32: 1 ◆ondZSOlfxeS6 ハンター[Lv.47][苗] [sage] 2024/11/19(火) 17:35:33.55 ID:2GxKPloM0 ◆FAQ 25 Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか! A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。 ・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実 ・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能 ・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。 ◆FAQ 25-2 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。 なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1732004140/32
33: 1 ◆ondZSOlfxeS6 ハンター[Lv.47][苗] [sage] 2024/11/19(火) 17:36:15.68 ID:2GxKPloM0 ◆FAQ 26 Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない! ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか! A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。 ◆FAQ 27 Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい! A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。 ◆FAQ 28 Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い! 卑弥呼の墓があるのは九州だ! A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1732004140/33
34: 1 ◆ondZSOlfxeS6 ハンター[Lv.47][苗] [sage] 2024/11/19(火) 17:36:57.39 ID:2GxKPloM0 ◆FAQ 29 Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ! A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。 「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報) 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。 茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。 その他、ホケノ山(纒向3類中葉)出土の刀装具に伴う繊維片も精錬絹糸の可能性がある。 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があった。 九州説にとって不利な条件と言える。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1732004140/34
35: 1 ◆ondZSOlfxeS6 ハンター[Lv.47][苗] [sage] 2024/11/19(火) 17:37:38.96 ID:2GxKPloM0 ◆FAQ 30 Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ! 箸墓の築造と時間差があるだろう! A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。 「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。 「田豐以諫見誅」(魏志荀?ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1732004140/35
36: 1 ◆ondZSOlfxeS6 ハンター[Lv.47][苗] [sage] 2024/11/19(火) 17:38:08.92 ID:2GxKPloM0 ◆FAQ 30 Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ! 箸墓の築造と時間差があるだろう! A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。 「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。 「田豐以諫見誅」(魏志荀?ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1732004140/36
37: 1 ◆ondZSOlfxeS6 ハンター[Lv.47][苗] [sage] 2024/11/19(火) 17:39:02.87 ID:2GxKPloM0 ◆FAQ 31 Q:投馬国はどこに比定するのか? A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、 これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。 https://i.imgur.com/TFlMqXz.png また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。 伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核には、この地域を想定するのが妥当である。 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1732004140/37
38: 1 ◆ondZSOlfxeS6 ハンター[Lv.47][苗] [sage] 2024/11/19(火) 17:39:44.01 ID:2GxKPloM0 ◆FAQ 32 Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか? A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。 これが部分的利用に留まる所以である。 ◆FAQ 33 Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」 と倭人伝にある! 海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない! A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1732004140/38
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