[過去ログ] 【Y-DNA】新日本古代氏族とハプログループPart31 (1002レス)
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238: 2024/11/23(土)15:50 AAS
済州の君主は高麗まで星主と呼ばれていた
古墳期の日本に星辰信仰をもたらしたのは遼東人だと思われる
饒速日が降り立った山には妙見(星)信仰の跡がある
天皇号は道教由来ともされるが遼東人のもたらした北極星・北斗七星信仰によるものとしたほうが
ずっと日本人と道教自体との距離感には合っている
遼東人とは漢人そのものではないからね
そして記紀では星神は悪神であり大国主らと対峙する前に解決すべき高天原の問題だという捉え方になっている
要は元は身内だったということだ
星神信仰は名古屋が大まかな西限で、甕星の本拠地は常陸であった
239: 2024/11/23(土)16:14 AAS
.
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに木骨泥墻が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では7000年前に高床式住居が登場するが木骨泥墻に吸収されて消滅し、5000年前には再び木骨泥墻に一本化するが
4000年前には早くも戸建てが登場して木骨泥墻は消滅した。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場して早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
省3
240: 2024/11/23(土)16:39 AAS
>>68
よほどのことがない限り、一方通行なんてありえないから当然ですね〜
ところで7世紀頃
渤海国から船でよく来てたけど、1000年に一度の長白山大噴火で渤海国は消滅しちゃった。
241: 2024/11/23(土)17:02 AAS
>>68
対馬海峡が広がってから、対馬海流に乗って魚介類が東シナ海から豊富に流れて来るようになった。
242(1): 2024/11/23(土)17:08 AAS
>>221 鳥居と家形(神殿か?)が鋳造されてる。
家形飾環頭柄頭(奈良県天理市 東大寺山古墳出土4世紀)
外部リンク:bunka.nii.ac.jp
243(1): 2024/11/23(土)17:12 AAS
>>242
鳥居なんかどこにもないけど、それが鳥居だと言ってるアタオカな
考古学専攻学者の文献は?
244: 2024/11/23(土)17:13 AAS
アホか
秦氏の経路のどこにも鳥居も神社もないだろうが
245: 2024/11/23(土)17:22 AAS
>>243
考古学者なんか信じるから真実が見えないんだろ
246: 2024/11/23(土)17:22 AAS
鳥居の文化的概念(神聖なものとそうでないものを分けるモノ)は早くから有るかもな
神話時代に概念の記載がある
後半の文章からは稲作の天文学暦的な利用法も考えられなくもない(日光の入射角度を測った、等)
鳥居の起源にはいくつかの説がありますが、一つは古事記の神話に由来するものです。これは、天照大御神(あまてらすおおみかみ)が天岩屋にお隠れになってしまったとき、他の神々が「常世長鳴鳥(とこよながなきどり)」という鳥を鳴かせたエピソードがあり、この「鳥が居た木」を起源とする説です。
鳥居というと赤い色をイメージする人は多いかもしれませんが、実は赤以外の鳥居も多く存在します。
もともとは、木の素材そのままの鳥居が一般的でしたが、時代が経つにつれて鮮やかな赤色(朱色)で着色されるようになります。赤色の鳥居といえば稲荷神社が有名です。赤色は稲作に必要とされる陽光や温かさを運んでくると稲荷神社では考えられています。また、赤色は魔除けの色と考えられていて、古くから日本では神社仏閣や宮殿などに用いられてきました。そのため、稲荷神社以外でも赤い鳥居を持つ神社はたくさん見られます。特に江戸時代以降、神社建築はだんだんと色彩を帯びてきて、赤色(朱色)の鳥居が見られるようになりました。さらに、赤色の原料となる丹(水銀)は、木材の防腐剤としての役割も担っているのです。
247: 2024/11/23(土)17:26 AAS
経路は兎も角太秦と言う地名もあれば弓月大明神もあり、どうやってこれらが日本にやってきたかだな
あまり秦氏で引っ張ると日ユ同祖論になっちまうが私はこれには否定的だ
248: 2024/11/23(土)17:37 AAS
どうやってって、辰韓に秦人がいるって三国志に書いてあるじゃないか。
249: 2024/11/23(土)17:41 AAS
その秦人は中国大陸人じゃなくて遼東秦人な
半島の土器には鬲鼎一つないからね
250(1): 2024/11/23(土)17:49 AAS
秦人てことは関中(長安周辺、渭水盆地)ってことだな
真っ直ぐ来たのかな
251(1): 2024/11/23(土)17:51 AAS
鼎は漢代には廃れていたから関係ないっしょ
252: 2024/11/23(土)17:52 AAS
>>250
始皇帝の焚書坑儒で儒家は万里の長城の苦役につかされたとある
そこから逃亡した人たちが直接あるいは辰韓経由でやってきたのだろう
253: 2024/11/23(土)17:56 AAS
『晋書』粛慎伝
粛慎氏の西は寇漫汗(こうまんかん)国と接し....
この寇漫汗(こうまんかん)国と
秦氏が由来記などで盛んに「功満王━融通王(弓月王)」と言ってるのは偶然じゃ無いな。
254(1): 2024/11/23(土)17:59 AAS
>>251
ウソコキ南支那ブタニグチンク乙
鬲鼎は漢代までは全然使われていた
廃れたのはその次の時代以降
ちなみに南支那の山間部では今もまだ金属製の鼎が使われている
255: 2024/11/23(土)18:00 AAS
秦人、目氏説も出てきた
そうすると北方から南下してきた一族の可能性も高くなるな
一方、『後漢書』の記録によると、「辰韓、耆老自言秦之亡人、避苦役、適韓國、馬韓割東界地與之。其名國爲邦、弓爲弧、賊爲寇、行酒爲行觴、相呼爲徒、有似秦語、故或名之爲秦韓。」この記録で問題が現れる。 秦の滅亡は紀元前206年であり、半島韓国は紀元前194年から存在するため論理的にあり得ない事件だ。 また、辰韓の一種である新羅の記録から、「其名國爲邦、弓爲弧、賊爲寇、行酒爲行觴、相呼爲徒」と一致する記録は全く見つからない。 また、『後漢書』では、「都目支國、盡王三韓之地」に目支国を都とするという記録があるが、『三國志』「東夷傳」では、「辰王治月支國」辰王は月支国を治めると誤記されている。 『翰苑』に引用された『魏略』や『後漢書』の『東夷列傳』と『通典』には「目支国」と表記されている。 すなわち、「月」は「目」の誤記であり、秦の流亡人捏造のための故意的誤記である可能性が高い。
当初、秦の労役が嫌で逃げたのになぜ秦人と呼ばれるのか理解できず、中国東北の労役になぜ西側の秦人が動員されるのかも理解できない。 先史時代の月支の構成民族の半島東北からの移動を歴史時代の半島西北からの移動に捏造したのだ。
256(1): 2024/11/23(土)18:02 AAS
>>254
ほら漢代までで廃れてるじゃん。
中原ですら次第に権威を失って使われなくなった。
失脚没落して辺境の地で身をやつした人々に鼎なんて必要なくなっていたんだよ。
257(1): 2024/11/23(土)18:09 AAS
>>256
日本語読解力が低い南支那ブタチック半ニグロ乙
漢代までは確実に使われている
実際、2〜3Cの鬲がワンサカ出土してるし
廃れたのは漢代の次の時代以降
ニホンゴ、ワカリマスカー?
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