[過去ログ] 大室寅之祐明治天皇が御所不法占拠したと言える13 (468レス)
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2: 大室寅之スレ 2006/06/18(日)15:34 AAS
◆山口県田布施町麻郷の大室さん
橋本龍太郎氏の祖母大室ヨネ(米)の父大室庄吉の兄大室寅之祐(東京明治天皇)
についてお話します。
そもそも、田布施町のタブーについて(この事)(大室寅之祐について)は、
田布施町麻郷の古い人間なら500%知っている事実で、佐藤栄作、岸信介すらわ
かっていたが、うちの爺さんが「大室家が南朝光良親王の末裔で500年以上続いて、
しかも寅之祐が大室家24代目なんて嘘だ!」と言ってた。始め意味が分から
なかったが本質は、

A寅之祐の大室家が本当に南朝後醍醐天皇の玄孫光良親王が1400年に吉野から
麻郷に亡命して大室姓をなのってから24代も続いているのか? 
省12
3: 大室寅之スレ 2006/06/18(日)15:35 AAS
Bに関してはこれを踏まえ、本当の所は、苗字も無い海賊某の息子作蔵が地家吉佐衛門(1840年3月12日没)の養子となり「地家」姓を賜る。
地家作蔵となのり田布施町麻郷地家に住み着いた。1843年頃、興正寺昭(ショウコウ)坊(照景?)と娘スヘが田布施町麻郷地家の西円寺に
京都浄土真宗興正派、興正寺からやってきた。(興正寺昭坊は興正派門主一族)やがて地家作蔵(生年月日は不明〜1887年4月24日)
と興正寺基子(SUEKO)=スヘ(1831年5月1日〜1855年11月20日)が1844年頃結婚する。スヘが満13歳頃の時である。作蔵(1824年生まれか?)
と結婚した1年後、スヘ満14歳の頃、第一子(男児?)をもうけるが1845年12月15日に1歳弱で病死した。その後スヘは
長女ターケ(1847年4月14日生まれ)を出産。1850年1月10日(戸籍では庄吉の誕生日になっている)に
戸籍名寅吉(普段使う通名は虎吉。後の大室寅之祐の明治天皇)をスヘの実家の西円寺にて出産。
この頃(1849年頃)作蔵が西円寺の東隣の麻郷「地家」に家を建てる。だから戸籍を作る時、「地家」の地名を苗字にした。
(「地家」とはそもそも村の中心地と言う意味)
1852年12月8日(戸籍では寅助の誕生日になっている)戸籍名庄吉(通名は省吉)出産。
省1
4: 大室寅之スレ 2006/06/18(日)15:37 AAS
>>その後、1854年の春頃(4月頃?)に作蔵とスヘが離婚。
長男寅吉、次男庄吉をスヘが引き取り、多分西円寺の実家?へ戻る。
大谷(興正寺)昭坊(照景?)の家か?? (京都には帰ってないであろう)
長女ターケと3男朝平は作蔵が引き取る。その後、作蔵は某女性と再婚する。
(作蔵の後妻某は明治4年9月1日死去)1855年1月?頃
(祖父の記憶では寅吉がかぞえ6歳の時)大室弥兵衛とスヘ再婚。
スヘは大室弥兵衛の2号となる。(弥兵衛の本妻は前に書いたとおり大室文右衛門の娘ハナ)
地家寅吉は大室寅吉(後の大室寅之祐明治天皇)に。地家庄吉は大室庄吉となる。
1855年11月頃、大室弥兵衛とスへとの間に大室寅助が生まれたが直後、
スヘが産後のひだち悪く肺結核で死亡。(1855年11月20日没)
省8
5: 大室寅之スレ 2006/06/18(日)15:37 AAS
1865年1月寅吉かぞえ16歳の時、錦の旗と南朝の首飾りをつけマンジュウを作りに
行くと言って萩へ行き高杉晋作による功山寺挙兵に参戦。見事に勝利する。
弟の庄吉のほうはそのため別府村の高城家にあずけられて別居する事になった。
この庄吉が実家の大室家に帰ったのは 1866年10月末頃、俊輔が寅吉(玉)を
麻郷から連れ出した後のことであった。萩の杉家(松蔭の実家)へ玉を移し
松蔭の母・杉瀧子によるしつけ教育をうながすことにした。(護衛は力士隊)
この時期に麻郷では寅吉が行方不明になったというので大騒ぎになった。
麻郷村の人間が手分けして探した。
(庄吉はこのとき上関宰判所へ呼び出され大庄屋時政藤五郎の取調べを
受けて小役人たちに拷問されたが歯を食いしばってがんばりとおし、
省1
6: 日本@名無史さん 2006/06/18(日)15:41 AAS
珍説電波乙
7: 日本@名無史さん 2006/06/18(日)15:43 AAS
そして、1866年10月末頃まで戸籍名大室寅吉(通名(普段つかう名前は)大室虎吉)は
このころ大室寅助と改名し一時、松蔭の母・杉瀧子によるしつけ教育をうながすため
俊輔が麻郷から玉を連れ出し萩の杉家(松蔭の実家)へ移し1867年3月下旬「玉」は
田中光顕や力士隊に守られて萩から周防高森に移る。手紙がきて寅助(寅之祐)が
上洛するから大室弥兵衛が高森までおみまいにいったが寅助(寅之祐)にあえず、
麻郷へ帰ったという。それから「玉」は一時期通化寺の遊撃隊屯所に滞在していたが
岩国新湊から英国船で品川弥二郎や中岡慎太郎とともに上京して1867年4月13日、
二本松の島津屋敷に入った。
しかし新撰組に捕まりそうになったので1867年10月17日に寅助を寅之祐と改名し
亡命するため女装した「玉」が芸者風に変装した女官たちを連れて京都を脱出。
省11
8: 日本@名無史さん 2006/06/18(日)15:44 AAS
先の島津忠義軍と西宮で合流し大洲藩は勤皇藩として西宮の藩邸に長州薩摩軍を無血上陸させるなど貢献した。そして一同は鳥羽伏見の戦いのため準備をした。
大室寅吉が大室寅助、、、寅之祐と名前を巧みに変えたのは伊藤博文が林宇一や林利助や俊輔の様に名前を変えて変名を用いたのと同じ事。このような倒幕軍の
進発予定が麻郷に届いて「玉」および奇兵隊一条勝子以下三条ら五卿、島津久光、薩長同盟幹部一同は打ちそろって1867年12月9日、田布施町麻郷井神の高松八幡宮にて
「王政復古の大号令」を発し新調の錦旗を掲げる官軍(薩長諸隊)の出陣式を行った。(だから通史にある王政復古の大号令(1867年12月9日)とはもちろん京都での話ではない。)
(今でも麻郷には三条実美らが滞在したと言われる石碑がひっそりと残っている。) 午後の小御所会議もそうで、通史にある京都御所での話ではない。
このあと12月下旬彼らは室津(上関町)から英国船など2隻に乗船し薩摩の軍船2隻と合流し、おくれて京都をめざした。鳥羽伏見の戦いの時明治天皇自ら閲兵したという
のはウソで戦い中大室寅之祐は大阪湾に浮かぶ軍艦の上に立ってた。(護衛は第二奇兵隊)鳥羽伏見の戦い中(1月3日)、慶喜軍が砲撃してくるから大阪に上陸できなかったという。
その後、鳥羽・伏見の戦いで薩長軍勝利。このとき寅之祐が大阪に初上陸。(大阪に明治天皇上陸の記念碑あり。)一同は京都御所をめざす。
1月8日慶喜は松平容保、松平定敬ら重役連と軍艦開陽丸にのり江戸に逃げ帰った。
1月10日のあけがた京都御所にいた睦仁(京都明治天皇)は御所を脱出。鹿島昇が
省6
9: 日本@名無史さん 2006/06/18(日)15:52 AAS
捏造がんがれ
10: 日本@名無史さん 2006/06/18(日)16:19 AAS
大室寅之祐明治天皇が御所不法占拠したと言える12
2chスレ:history
外部リンク[html]:makimo.to
11: 桜井よしこ 2006/06/18(日)21:35 AAS
大室寅之祐明治天皇が御所不法占拠したと言える13
2chスレ:history

あらまあ。
12: 日本@名無史さん 2006/06/20(火)02:02 AAS
2chスレ:history
13: 日本@名無史さん 2006/06/20(火)21:57 AAS
だれもいなくなりましたねw
14: 日本@名無史さん 2006/06/21(水)01:34 AAS
このすれ始まって5年たつが完全に過疎スレになりましたねw
15: 日本@名無史さん 2006/06/22(木)08:30 AAS
 新 info@infact-j.com
16: 日本@名無史さん 2006/06/22(木)08:34 AAS
竹下義朗
yoshiro@js3.so-net.ne.jp
17: 日本@名無史さん 2006/06/29(木)21:49 AAS
これから盛り上がるよ
18
(1): 日本@名無史さん 2006/06/30(金)23:39 AAS
橋龍危篤おめ! >>1ともども地獄の業火で焼かれますようww
19: 日本@名無史さん 2006/07/01(土)00:17 AAS
>>18
18さんマジ?
20: 日本@名無史さん 2006/07/01(土)00:20 AAS
橋本龍太郎元首相が先日腹痛のため都内の病院に緊急入院、大腸の大半と小腸の一部を摘出する手術を受けた。病名は「腸管虚血」とのことだが、一体どんな病気なのか。腹痛は日常よく経験する症状だけに気になる。東京都済生会中央病院・塚田信廣内科部長に聞いた。

●腸管虚血とは?
 腹部大動脈から枝分かれしている上腸間膜動脈は、小腸や大腸に血液を供給している最も重要な血管です。この血管が閉塞して、そこから先に血液が行かなくなるのが腸管虚血です。

●どんな症状が出る?
 突然の腹痛です。へその周囲からおなか全体にかけて激しく痛みます。病院で鎮痛剤を注射しても効かないような激痛です。嘔吐も起こります。

●一刻を争う病気か?
 腸管虚血が始まって10時間放置すると、腸管が壊死(えし)に陥って死につながるケースが多いのです。患者さんの訴えを聞いて腸管虚血だろうとの診断をつけ、できるだけ早く開腹して手術をしないと助からないケースが往々にしてあります。
21: 日本@名無史さん 2006/07/01(土)00:22 AAS
●死亡リスクは?
 死亡率が6〜8割と、きわめて予後の悪い病気です。診断が難しいために、腸管壊死から敗血症、多臓器不全に陥って手術もできなくなり、死に至るケースが多いのです。

●見逃しやすい?
 超音波検査やCTをやっても特異的な所見に乏しいので、医者も見逃してしまうことが多いのです。急性腹症の中でも最も診断の難しい病気です。大きな病院でやっている腹部血管造影検査をやって、初めて診断がつきます。

●発症原因は? 
 多いのは上腸間膜動脈の血栓症と塞栓症です。血栓症は動脈硬化による病変から上腸間膜動脈の起始部に血栓ができて、それが血管を詰まらせます。塞栓症は心臓にできた血栓が飛んで血管を詰まらせます。

●どんな人がなりやすい?
 血栓症は、ヘビースモーク、糖尿病、高血圧、高脂血症、高齢など、動脈硬化の危険因子を多く持つ人に起こりやすい。塞栓症は心房細動などの不整脈や心臓弁膜症があって、心臓の中に血栓ができやすい人に起こりやすい。

●手術以外の治療法は?
 きわめて初期に診断がつけば、薬で血栓を溶かしたり、バルーンやステントで血行を再建したりして治療することは可能です。
省1
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