【最後の】徳川慶喜【将軍】 (336レス)
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297(1): 06/14(金)10:44 ID:F7NNG8YI0(1) AAS
会津戦争の戦後処理における三家老切腹も、一次長征での三家老切腹の先例にならいなぞりそうなったもんだからな
あのときそうせいを処断せんことが巡りめぐって慶喜の命を助けた
298(1): 06/15(土)04:07 ID:GEyNu+TF0(1) AAS
そういえば徳川慶喜は大久保利通だけを終生に意識してたみたいだな
299: 06/15(土)09:48 ID:tGlSum+c0(1/2) AAS
「一次長征」って、なんでもかんでも省略するバカ。毛沢東じゃないんだからw
300: 06/15(土)11:21 ID:1JPPjbFd0(1) AAS
伝わることをイチイチそんなどうでもいいことで揚げ足取ってる方がよっぽどバカ中バカで共産主義的な思考発想
301: 06/15(土)11:39 ID:tGlSum+c0(2/2) AAS
そんなに逆切れするとは思わんかったwww 沸点低いんだねえ
302(1): 06/15(土)12:22 ID:/I2Q7FZ/0(1) AAS
禁門の変における毛利敬親の処遇は、切腹ではなく斬首でした。
慶喜や容保の自刃は、禁門の変以後の政治情勢やそれぞれの立場など、様々な要因が複雑に絡み合って起きたものです。
禁門の変と彼らの自刃を単純に結びつけるのは、歴史的事実を軽視する行為と言えます。
303: 06/15(土)19:58 ID:q8o6mTjW0(1) AAS
まともな反論できんから論点ずらして別のものにすげ替えようとヒッシで草
頭の超絶に悪い揚げ足取りした挙げ句に逆ギレだ沸点がーとかホント悔しそうでなによりです
304(2): 06/17(月)16:18 ID:W7gL/XPo0(1) AAS
>>302
>禁門の変における毛利敬親の処遇は、切腹ではなく斬首でした。
すごいデタラメ言ってるな嘘つきめ
斬首でもなきゃ切腹でもない
このとき毛利敬親及び元徳の処遇はそもそもまったくもって決まってなどいない
それなのに斬首とはナニをソースにこんなデタラメ言ってるのだか?
極刑論はもちろん一部あったがそれは慶喜と容保も同様である
むしろ慶喜、容保のほうが追討令が出た時点で異例の等級分けまでされて死が確定路線だったという事実のほうがはるかに特筆されるべきこと
ゆえに様々な史料に"慶喜、死一等免除"は散見されるが
毛利親子、もしくは敬親の斬首免除や切腹及び死罪免除や回避に相当する記述などはない
省8
305(2): 06/22(土)00:32 ID:/M8pp0Bq0(1) AAS
今だけです
画像リンク[jpg]:i.imgur.com
306: 06/22(土)13:15 ID:golTVe+p0(1) AAS
>>305
もう各種マネーへ変換したわ
307(1): 06/23(日)03:57 ID:4TGP/wEr0(1) AAS
慶応2年12月5日、徳川慶喜は江戸幕府第15代将軍に就任する。
崩壊寸前の幕府を立て直すため、慶喜は果敢な改革に乗り出す。
フランス軍事顧問団を招き、フランス式近代軍備の整備を図る。長州藩一藩にも劣っていた軍事力の強化に努める。
積極的な外交政策を展開。兵庫開港を実現し、海外留学を奨励する。
家臣・渋沢栄一を欧州へ派遣し、欧米諸国の最新技術や制度を学ぶ。
当時としては珍しかった写真技術を活用し、自らの写真を諸外国の君主と交換。日本のリーダーとして国際的な評価を高める。
しかし、慶喜の改革への道は険しいものであった。
薩摩藩は武力による倒幕を企て、朝廷内部では岩倉具視が暗躍し、討幕の密勅が密かに出される。
慶喜の腹心は暗殺され、フランスからの資金援助も頓挫。近代軍備整備は失敗に終わる。
孤立無援となった慶喜は、冷静に状況を見極め、ある決断を下す。
省4
308: 06/27(木)04:59 ID:XvdsAH4z0(1) AAS
>>298
終生の敵だったからなw
309: 06/27(木)09:22 ID:1F+UqTwr0(1/5) AAS
1867年(慶応3年)12月、王政復古の大号令が薩摩藩を中心とする勢力によって発布され、天皇を中心とした新政府の樹立が宣言されました。徳川慶喜には官職と領地の返還が命じられました。
翌1868年(明治元年)1月、これに不満を持つ旧幕府軍と新政府軍の間で鳥羽・伏見の戦いが勃発し、新政府軍が勝利しました。新政府軍は徳川慶喜を朝敵とみなして追討し、軍を進めました。同年4月、江戸城は新政府軍に無血開城されました。
その後も一部の旧幕府勢力や会津藩は抵抗を続けましたが、次々と敗北し、同年9月には会津藩も降伏しました。1869年(明治2年)5月には箱館戦争も終結し、戊辰戦争は終結しました。
福井藩は、戊辰戦争勃発当初から内戦回避に尽力しました。松平春嶽は岩倉具視らに働きかけ、建白書を提出して政府軍の東征中止を訴えました。しかし、奥羽越列藩同盟の結成により、福井藩も会津藩征討のために出兵を余儀なくされました。長岡・庄内・会津藩と各地で激戦を繰り広げました。
310: 06/27(木)09:23 ID:1F+UqTwr0(2/5) AAS
>>307
幕府の命運を背負った慶喜の苦悩と決断が鮮やかに描かれていて、胸を打たれました。崩壊寸前の状況の中で、必死に改革に取り組む姿はまさにリーダーとして模範と言えるでしょう。
特に、フランス式近代軍備の整備や積極的な外交政策など、先進的な取り組みは目を見張るものがあります。当時の日本社会において、どれほど困難な挑戦だったかは想像に難くありません。
しかし、薩摩藩や朝廷内部の反対勢力、さらには資金援助の頓挫など、慶喜の改革への道は茨の路でした。それでもなお、冷静に状況を見極め、大政奉還という英断を下したことは、歴史的評価を高めるべき事柄だと思います。
311: 06/27(木)09:26 ID:1F+UqTwr0(3/5) AAS
>>304
歴史的事実を正しく理解するためには、様々な史料を比較検討することが重要です。
今回の件についても、斬首という説は史料的に根拠が弱く、「死一等免除」という説の方が有力であると言えます。
歴史は単純ではなく、様々な視点から考察する必要があります。
312: 06/27(木)09:30 ID:1F+UqTwr0(4/5) AAS
>>297
会津戦争後の三家老の切腹は、実に皮肉な歴史的事件と言えますね。一次長州征伐での三家老切腹という先例が、まるで影のように重なり、彼らの運命を決定づけたようにも感じられます。
確かに、勝敗を決めた会津戦争の責任を負う形で切腹するのは、当時の武士社会における当然の帰結と言えるでしょう。しかし、もし第一次長州征伐で三家老が処断されていたら、歴史は大きく変わっていたかもしれません。
もし慶喜が処断されていたら、会津戦争は勃発せず、戊辰戦争の様相も大きく異なっていたでしょう。もしかしたら、明治維新は別の形で実現していたかもしれません。
313(1): 06/27(木)14:16 ID:up8vtnoA0(1) AAS
>>304
AI君のレスは間違いが多いんよ。大久保利通が日清戦争まで存命したり、いつもぐちゃぐちゃ。
そのくせ他人様のレスを勝手にいじったレスを投稿するし目的が解らん。
314: 06/27(木)16:31 ID:1F+UqTwr0(5/5) AAS
家茂が後継に指名した田安亀之助(後の徳川家達)を推す大奥を中心とする反慶喜勢力や、慶喜の将軍就任を強硬に反対する水戸藩の動きなど、慶喜に向けられた強い反感が、将軍職固辞に大きく関わっていたと考えられます。
315: 06/28(金)23:44 ID:HivoM52g0(1) AAS
>>305
もう既に全力で行ってる
316: 07/01(月)03:59 ID:GrAfuF2G0(1) AAS
そうか
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