土佐藩&土佐勤皇党 (453レス)
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286: [sage] 2024/06/27(木) 09:14:29.36 ID:1F+UqTwr0 土佐藩の石高 16世紀末、豊臣秀吉による全国土地調査(太閤検地)において、土佐国の石高は長宗我部氏によって9万8千石と申告されました。 その後、土佐藩主となった山内一豊は入国後、石高を再調査し、慶長10年(1605年)に幕府へ20万2千6百石余りを申告しました。 元和元年(1615年)には、阿波徳島藩が淡路国を加増されて石高が17万石余から25万7千石に達すると、土佐藩もそれに倣い25万7千余石を申告しました。 しかし、本来石高を高く申告すると、幕府の普請などの負担が大きくなるにもかかわらず、山内家臣団は四国一の石高を持つ大名家としての誇りを示したかったためと考えられます。 ところが、幕府はこの申告を認めず、正式な文書(朱印状)では土佐藩の石高は20万2千6百石余りのままとなりました。 その後、新田開発が進み、明治3年(1870年)の廃藩置県前には、本高とほぼ同規模の新田が生まれ、本高と新田の合計は49万4千石余りに達していました。 なお、よく言われる24万2千石という数字は、『武鑑』などに基づく俗説であり、正しい石高ではありません。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history2/1709220223/286
土佐藩の石高 世紀末豊臣秀吉による全国土地調査太閤検地において土佐国の石高は長宗我部氏によって万千石と申告されました その後土佐藩主となった山内一豊は入国後石高を再調査し慶長年年に幕府へ万千百石余りを申告しました 元和元年年には阿波徳島藩が淡路国を加増されて石高が万石余から万千石に達すると土佐藩もそれに倣い万千余石を申告しました しかし本来石高を高く申告すると幕府の普請などの負担が大きくなるにもかかわらず山内家臣団は四国一の石高を持つ大名家としての誇りを示したかったためと考えられます ところが幕府はこの申告を認めず正式な文書朱印状では土佐藩の石高は万千百石余りのままとなりました その後新田開発が進み明治年年の廃藩置県前には本高とほぼ同規模の新田が生まれ本高と新田の合計は万千石余りに達していました なおよく言われる万千石という数字は武鑑などに基づく俗説であり正しい石高ではありません
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