会津観光史学 (749レス)
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20(1): 04/14(日)12:04 ID:CfJy7gS00(1) AAS
会津戦争終結後の明治元年、会津世直し一揆が起こる 会津は苛政で有名で、過年の農民の不満が爆発したのである
ウィリアム・ウィリスは、会津を去る松平容保親子に対し、領民が見送りもせず黙殺で応えたと書き残している
この後すぐ廃藩置県で旧藩主たちは東京在住を命じられ、旧領を去る事になった
領民たちが旧主に対し名残を惜しみ土下座で見送り、さらには献金や政府にとどまれるよう訴えた話が幾つも伝わっている
会津とは天地の差だった
それから約60年後 松平容保の孫、節子が秩父宮妃に決定 節子は1928年会津に里帰りするがその時の会津若松市の熱狂は凄まじいものがあった と山川健次郎は書いている
しかし考えてみれば、会津の住民の大半は、松平家を恨み黙殺した農民の子孫のはずである 秩父宮の成婚自体は目立つ事にせよと容保の孫の玉の輿に単純に熱狂できるだろうか
ここで考えられるのは、一つはすでに昭和初期には江戸時代の支配階級と被支配階級が忘却されていたと言う事、もう一つは会津の農民たちの子や孫世代が兵役その他で他地域の人間と接したときに、十把一絡げに賊軍扱いされて一の間にか地域的な一体感ができてしまったのではないかと言う事である
これは官軍側でも見られる事で、薩摩で悪政に呻吟していた農民の子孫が大半の県民がなんとなく島津を誇りみたいに思っていると言う事もある
いずれにせよ、会津観光史学は、かなり古い時代にその土壌が出来つつあったのではないだろうか
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