松菊木戸孝允(桂小五郎) (532レス)
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121
(1): 2024/06/27(木)13:27 ID:aRx3onaX0(1) AAS
aiでしょ?

高杉晋作とは違い吉田松陰と木戸孝允の関係には深さは感じられんがな・・
122
(1): 2024/06/27(木)16:47 ID:ORTEWKLw0(1/3) AAS
木戸は松陰で弟子でもあるけど、友人として暴走しがちな師を諌める立場でもあった
123: 2024/06/27(木)16:47 ID:ORTEWKLw0(2/3) AAS
>>122
訂正

木戸は松陰の弟子でもあるけど、友人として暴走しがちな師を諌める立場でもあった
124
(1): 2024/06/27(木)16:49 ID:ORTEWKLw0(3/3) AAS
高杉らは、友人ではなく完全な弟子なので、松陰に対する発言力はなかった
125: 2024/06/29(土)03:43 ID:EUAhQkl80(1) AAS
桂の師匠は
斎藤弥九郎、江川英達、中島三郎助のイメージ
126: 2024/06/29(土)19:49 ID:YFYDe0KJ0(1) AAS
>>121
まあ、自分の理解を超えたら全てAIと思う老害でしたと。
もっと勉強しようね、知ったかぶり丸出しは恥ずかしいよ。お爺ちゃんw
127
(1): 2024/06/29(土)21:55 ID:OppbW9VA0(1) AAS
>>124
弟子総出で止めてるよ
松陰に絶交宣言されたけど
128: 2024/06/30(日)16:41 ID:dgESEeIq0(1) AAS
>>127
松陰が耳を傾けて言うことを聞いたのは木戸だけなんだよねえ
129: 2024/07/03(水)10:17 ID:C/AfhxsP0(1) AAS
小五郎が吉田松陰に師事したというソースを要求するようなヤツがいるとは草
130: 2024/07/03(水)19:53 ID:okOxB6Lu0(1) AAS
昨今はWikipediaすら読まないでAIが生成した出鱈目だらけの文章しか読まない奴がいるからな
131: 2024/07/04(木)06:42 ID:9Dvg40xF0(1) AAS
醒めた炎読んだけど、吉田松陰は伊藤と一緒に
亡骸を引き取りに行って弔ったぐらいしかイメージない。
132: 2024/07/04(木)09:32 ID:wJCj627+0(1/7) AAS
醒めた炎には
「小五郎の藩校時代の旧師、吉田大次郎(松陰)も江戸に来て」
とあって、これが松陰について触れた最初の記述だね
133: 2024/07/04(木)09:39 ID:wJCj627+0(2/7) AAS
木戸孝允文書には松陰との手紙もあるし

松陰は木戸を「事をなすの才あり」と評したし

小五郎が村田蔵六と連名で幕府に提出した「竹島開拓建言書草案」(ただし、
この場合の竹島は現在で言う鬱陵島)は、松陰の竹島開拓論が原型だし
外部リンク[html]:www.pref.shimane.lg.jp
134: 2024/07/04(木)09:42 ID:wJCj627+0(3/7) AAS
ソースを要求する前に、wikiに載っていることくらいは勉強してほしいよね
135: 2024/07/04(木)09:53 ID:wJCj627+0(4/7) AAS
松陰との関係に深さは感じられんとか、勉強不足なだけだろ
136: 2024/07/04(木)09:58 ID:wJCj627+0(5/7) AAS
松陰が密航に失敗した後、小五郎が来原良蔵とともに藩に海外留学願いを出しているんだぞww

熱血師弟そのものだww
137: 2024/07/04(木)10:03 ID:wJCj627+0(6/7) AAS
そういう歴史の流れがあるから、長州ファイブの密航が藩に認められたんだよ
138: 2024/07/04(木)10:07 ID:wJCj627+0(7/7) AAS
松陰がやろうとしたことは失敗ばかりだったけど、小五郎や塾生らの長州藩士がちゃんとその遺志を継いだんだよ

深みが感じられないどころか、深すぎて驚くことばかりだよ
139
(1): 2024/07/04(木)23:01 ID:3yT4GI1S0(1) AAS
京都ホテルオークラは、江戸時代には長州藩邸が置かれていた場所にあります。ホテルの西側には、桂小五郎像が立っています。

桂は吉田松陰の門下生であり、長州藩における討幕派の中心人物でした。池田屋事件では難を逃れ、禁門の変では危機を乗り越え、芸妓の幾松(のちの妻)の助けも借りて、一流の剣客でありながら人を斬らずに生き抜いたという話は有名です。慶応2年(1866年)には、坂本龍馬の仲介で薩長同盟が締結されましたが、この成功には桂の力が大きく貢献しました。

維新後は木戸孝允と改名し、新政府で参議として版籍奉還や廃藩置県など、数々の重要事業に尽力しました。しかし、大久保利通と対立し、明治10年の西南戦争では「西郷いいかげんにしろ」という有名な最後の言葉を遺し、国を憂えて戦中に京都で病死しました。享年44歳。維新の功労者でありながら、畳の上で亡くなった数少ない人物の一人です。
140
(1): 2024/07/05(金)04:04 ID:C9WkNoKi0(1) AAS
>>139
改名は維新前な
AIは駄目だな
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