松菊木戸孝允(桂小五郎) (532レス)
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159: 2024/08/05(月)16:29 ID:GqGWddIk0(5/8) AAS
明治4年6月27日の木戸孝允の日記に、「わが論のたちまちに彼の心腹に入るを覚ふ。西郷の公心、余の心に徹し覚えず感歎せり」とある。
「醒めた炎」では、この「わが論」を廃藩置県と解釈しているが、少し無理があるように思われる。制度改革全般を指しているのではないだろうか。
参考までに、木戸孝允遺文集(妻木忠太編)によると、「明治4年6月27日西郷が始めて公(木戸)が言う廃藩置県の主意を了解した」とあり、「醒めた炎」の解釈と一致する。
160(1): 2024/08/05(月)16:31 ID:GqGWddIk0(6/8) AAS
どうしても、『冷静』『慎重』ってイメージに引っ張られるけど、丙辰丸の盟約を結んだり、廃藩置県では最も急進派だったり、『まずやってみる』っていう手数の人だったんじゃないかなぁと思ってたら、自分を『狂気軽躁』と分析してたようで、やっぱりと思った。村松剛さんは『その形容は似つかわしくないけれど』と書いてるけども
161: 2024/08/05(月)16:33 ID:GqGWddIk0(7/8) AAS
木戸孝允と山田顕義の関係は、明治維新を担った二人の人物間の信頼関係としてしばしば強調される。山田顕義は、長州藩出身の学識豊かで礼節を重んじる人物であり、木戸孝允もその能力を高く評価していた。
しかし、「木戸孝允が山田顕義を最も信頼していた」と断言するのは、他の同志との関係性を考慮すると、必ずしも正確ではない。木戸孝允は、高杉晋作や伊藤博文など、様々な個性を持つ人物と協力し、維新を成し遂げた。これらの関係性もそれぞれ特徴があり、単純に比較することは困難である。
また、功山寺挙兵後の萩の町に対する扱いをめぐる記述についても、修正が必要だ。高杉晋作や伊藤博文が「放火を得意としていた」という表現は、彼らの行動の一部を切り取って過度に強調しており、彼らの全人格を捉えるには不十分である。彼らは、藩政改革を推進する上で、時には過激な手段も厭わなかったが、同時に新しい国家建設のために多大な貢献をした人物でもある。
山田顕義が萩の町の焼払いに反対したのは事実だが、その理由は、単に「美しい町を保存したい」という感情的なものではなく、藩政改革の長期的な視点から、町を破壊することは生産的ではないと考えたためであると考えられる。木戸孝允が山田の意見に耳を傾けたのは、彼の見識を信頼していたからであり、必ずしも山田の性格的な特徴が決定的な要因であったわけではない。
さらに、萩の町が現在も残っているのは、山田顕義の反対だけが理由ではない。明治政府の政策や、地元住民の努力など、様々な要因が複合的に作用した結果である。
省1
162(1): 2024/08/05(月)16:35 ID:GqGWddIk0(8/8) AAS
慶応元年(1865年)の萩の戦いにおいて、山田顕義は、萩城下を戦火から守るために尽力した人物の一人として知られている。高杉晋作が萩城下への攻撃を主張する中、山田は山県有朋や太田とともに、藩主や町民を巻き込む無用の犠牲を避けようとした。
山田のこの姿勢は、彼自身の経験や価値観に深く根ざしていたと考えられる。京都での戦火を目の当たりにした山田は、無辜の民が戦争によってどれほどの苦しみを味わうかを知っていた。そのため、萩城下を戦場とすることに強い抵抗を感じたのである。
「去年の夏、京都の戦で都は火の海につつまれた。おれたちはその中を逃げてきた。一番難儀をこうむったのは罪もない町民だった。萩の町を焼いちゃぁいけん」
山田の発言は、単なる感情的な訴えではなく、戦争の残酷さに対する深い洞察に基づいたものであった。彼は、武力による解決が必ずしも最善の策ではないことを悟っていたのである。
しかし、高杉晋作をはじめとする急進的な志士たちは、時の政府に対する不満を爆発させ、武力による倒幕を急いでいた。彼らの目には、山田たちの主張は、改革を遅らせる妨げと映ったのかもしれない。
省1
163(1): 2024/08/06(火)08:22 ID:EFm4WDPv0(1) AAS
長文荒らしウザすぎ
164: 2024/08/06(火)12:54 ID:hejdQjaO0(1/2) AAS
>>163
ゆとり世代の低学歴は100文字以上読めないらしいね
165: 2024/08/06(火)12:55 ID:hejdQjaO0(2/2) AAS
>>162
山田顕義って、すごい人だったんですね。萩の戦いでの彼の行動は、ただ単に平和を願っていただけじゃなくて、京都での経験からくる深い悲しみや、戦争の残酷さに対する深い理解があったからこそなんだと感じました。
高杉晋作さんみたいに、すぐに武力に訴えかける人もいる中で、山田さんはもっと冷静に状況を判断しようとしていた。それは、彼が単に臆病だったからじゃなくて、もっと大きな視点で物事を考えていたからだと思います。
166(1): 2024/08/06(火)13:43 ID:svpUdtuW0(1/2) AAS
とぶが如くで山田は会津嫌いって書いてたけど、
どうせ嘘だと思うw
167: 2024/08/06(火)17:24 ID:7k1X/xzT0(1) AAS
>>160
いちいち俺の思ってることと合うなと思ったら2スレほど前の俺の書き込みじゃんw
なんか分かんないけど採用してくれたんだな
168(1): 2024/08/06(火)17:47 ID:WuiRpPJr0(1) AAS
木戸は嫉妬深く粘着質の鬱病気質とは司馬遼太郎が一番最初に指摘していたぞ。
169: 2024/08/06(火)18:45 ID:svpUdtuW0(2/2) AAS
伊藤と森がアメリカと協定を結ぼうとして最恵国待遇があるのを知って
木戸と岩倉がブチ切れた話だろ。
伊藤と大久保は委任状取りに帰るし。
伊藤と木戸に関しては伊藤が悪い。
170: 2024/08/08(木)06:01 ID:Le585BL50(1) AAS
>>168
大村益次郎の手紙にも書いてあるしな
171(1): 2024/08/10(土)07:10 ID:KMGrQv1/0(1) AAS
大村を発掘した木戸さんこそ救世主
172: 2024/08/10(土)17:59 ID:/juR8BBg0(1) AAS
>>143
前述の書き込みにおいて、国泰寺会談で吉川氏が桂小五郎と高杉晋作の死去を明言したとの記述がありますが、現存する史料に基づけば、この説を裏付ける確固たる証拠は見当たりません。同会談に関する記録は複数存在しますが、いずれも吉川氏のこのような発言を記しているものは確認されていません。
吉川氏がこのような虚偽の情報を伝えたとすれば、その目的は、交渉の有利な展開を図るための策略であった可能性が考えられます。しかし、この点については、さらなる史料に基づいた詳細な分析が必要となります。
木戸姓・孝允名の由来については、書き込みの内容は概ね事実と一致しています。桂小五郎が木戸姓を賜ったのは、藩主・毛利敬親からの信頼の証であり、孝允名は桂家当主を継承した際に名乗った諱です。
173: 2024/08/14(水)06:57 ID:RFfjEs7g0(1) AAS
そうだったか
174(1): !id:ignore 2024/08/17(土)18:32 ID:wSwGUUbv0(1) AAS
近所に斎藤弥九郎先生の墓があるよ
東京都の史跡
もう子孫がいなくて東京都が管理してる
線香を上げてきた
175: 2024/08/26(月)09:49 ID:0m1nW6qs0(1) AAS
大河ドラマスレ消えたのか
176: 2024/08/28(水)19:52 ID:fr+RpXvN0(1) AAS
>>174
子孫が絶えたのか…。
177: 2024/09/07(土)13:04 ID:n0/uiydh0(1) AAS
そうじょあ
178: 2024/09/17(火)06:02 ID:4zqokcii0(1) AAS
松菊
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