松菊木戸孝允(桂小五郎) (299レス)
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57: 05/15(水)22:46 ID:64m8JwKA0(1) AAS
なたことない
58: 05/16(木)19:49 ID:0N8zbgwn0(1) AAS
木戸の顔って脂ぎってて生理的に無理
酒の飲み過ぎと小言好きが顔に出てるし
59: 05/17(金)04:23 ID:4e5bJuxs0(1) AAS
伊藤に対する小言ならほぼ木戸が正しい。
伊藤は最恵国待遇も知らずに米国と協定を結ぼうとした
軽率な人間。
伊藤は自分が内閣になったときに木戸の側近を使って
組閣してるからな。
60: 05/17(金)10:20 ID:edZaQtmO0(1/2) AAS
顔の話からそらした
いかにも小言好きな顔なのは認めた模様
61: ころころ 05/17(金)13:12 ID:xT5wAQsq0(1) AAS
鬱病気味のイケメンか?
確かにそうかもしれんが他の誰よりも九死に一生を潜り抜けてるだけにええやろ。
62: 05/17(金)13:58 ID:edZaQtmO0(2/2) AAS
九死に一生、は井上馨に負ける
あんなたるんだ肌でイケメンはない
63: 05/17(金)22:43 ID:jHsp3StR0(1) AAS
幕末の写真を見ると松前崇広の顔が一番現代的と言うかその辺にいる気のいいにいちゃん顔
秀麗なのは五代友厚
64: 05/18(土)10:26 ID:X13Ei2bU0(1) AAS
松前崇広はブルーカラーの顔をしているよなあ。まあ武士はもともとはブルーカラーなんだけど。
65: 05/18(土)11:56 ID:ftIBJ8Xa0(1) AAS
木戸は普通に美男子だろ
どこを見てんだと
66: 05/18(土)17:21 ID:22juL4wo0(1) AAS
1868年、戊辰戦争終結後、新政府の体制を巡って対立していた勝海舟と木戸孝允。ある会議で意見が対立した際、勝海舟は木戸孝允に対して「木戸は実に小さい」と発言した。この発言は、木戸孝允の政治家としての力量や政策に対する考え方を批判的に捉えたものと推測される。当時、木戸孝允は身長が低く、体格も小柄であったため、勝海舟は外見的な特徴を揶揄する意味で「小さい」と言った可能性もある。しかし、一方では、木戸孝允側からの視点や、当時の第三者の意見なども考慮する必要がある。木戸孝允は勝海舟の発言を単なる誹謗中傷と捉えず、自身の政治的立場をより強固なものにするために利用しようとしたという見方もある。
67: 05/18(土)19:15 ID:6n7O2WJp0(1) AAS
木戸孝允より勝海舟の方がよっぽどチビだろ
どう見ても身長の話じゃない
68: 05/19(日)11:11 ID:ftp0sc+x0(1) AAS
木戸と勝じゃあ近代政治家としての
力量が違いすぎるから。
69: 05/19(日)12:14 ID:s8pB0zW40(1) AAS
大村も木戸は嫉妬深いと認めてるから
そこが木戸が器が小さすぎると評されたのかもしれない
だが藩閥政治を否定して世襲大名も廃止させたのは木戸
70: 05/19(日)14:15 ID:0PnIjnxN0(1/2) AAS
木戸孝允館の管理人さんが書いた『維新の恋と嵐』って、知ってる?めっちゃ面白いよ!
71: 05/19(日)14:16 ID:0PnIjnxN0(2/2) AAS
当時の将軍 徳川慶喜は、処刑されそうだったんだ。でも、木戸孝允の尽力のおかげで、命拾いすることができたんだよ。それだけじゃなく、その後も寛大な処遇を受けることができたんだ。
72: 05/19(日)17:28 ID:sXfLETsK0(1) AAS
木戸は江戸時代/明治初期では大男の部類
そもそも、勝なんて参議としはペーペーで木戸と「新政府の体制を巡って対立」出来る立場ではない
73: 05/20(月)05:46 ID:DMUSd8tB0(1) AAS
木戸が幕臣でも渋沢や福沢や福地みたいな人間を重視したから、
俺みたいな傑物は西郷じゃないとわからないって
言いたかったんだろう。
福沢や渋沢に比べたら勝なんてただの馬鹿だ。
74: 05/20(月)09:43 ID:uCtGZiXS0(1) AAS
自分が西郷と江戸城の関係で仕事をしたから自分を評価してもらうために西郷を持ち上げて木戸を下げてるだけのセコい男だから勝は
75: 05/20(月)18:14 ID:I3MXg4Ux0(1) AAS
>>25
木戸孝允の「対馬藩邸に行った」という発言と、乃美義勝の報告書にある「屋根伝いに逃げた」という記述は、それぞれ矛盾しており、どちらが真実なのか判断が難しいですね。
まず、木戸自身が「その場から逃げた」とは言いづらいという点。当時の政治情勢や自身の立場を考えると、命の危険を感じていた可能性は十分に考えられます。しかし、対馬藩邸へ逃げ込んだという具体的な行動は、裏付けとなる証拠がなく、彼の名誉を傷つける可能性もあるため、発言内容に慎重になる必要があったのかもしれません。
一方、乃美の報告書にある「屋根伝いに逃げた」という記述は、彼の目撃談に基づいている可能性が高いものの、誤報の可能性も否定できません。桂小五郎の暗殺事件直後という混乱した状況下で、正確な情報収集が困難だった可能性や、故意に情報を操作した可能性も考えられます。
結論としては、現時点ではどちらの記述も確証とは言い切れません。歴史的な事件の真相究明には、様々な史料や証言を慎重に分析していくことが重要です。今後は、新たな史料の発掘や研究によって、より真実が明らかにされることを期待しましょう。
76(2): 05/21(火)10:08 ID:GS1XgxGP0(1) AAS
明治維新は暴力革命だよ
実行されて勝負が付いたのは戊辰戦争ではなく第二次長幕戦争
あそこで長州藩が勝って勝敗は決した
薩摩だの土佐だの肥前だのは勝ち馬に乗っただけ
「維新の三傑」なんてものはなく、ただ木戸「一傑」があるのみ
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