松菊木戸孝允(桂小五郎) (561レス)
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127(1): 2024/06/29(土)21:55 ID:OppbW9VA0(1) AAS
>>124
弟子総出で止めてるよ
松陰に絶交宣言されたけど
128: 2024/06/30(日)16:41 ID:dgESEeIq0(1) AAS
>>127
松陰が耳を傾けて言うことを聞いたのは木戸だけなんだよねえ
129: 2024/07/03(水)10:17 ID:C/AfhxsP0(1) AAS
小五郎が吉田松陰に師事したというソースを要求するようなヤツがいるとは草
130: 2024/07/03(水)19:53 ID:okOxB6Lu0(1) AAS
昨今はWikipediaすら読まないでAIが生成した出鱈目だらけの文章しか読まない奴がいるからな
131: 2024/07/04(木)06:42 ID:9Dvg40xF0(1) AAS
醒めた炎読んだけど、吉田松陰は伊藤と一緒に
亡骸を引き取りに行って弔ったぐらいしかイメージない。
132: 2024/07/04(木)09:32 ID:wJCj627+0(1/7) AAS
醒めた炎には
「小五郎の藩校時代の旧師、吉田大次郎(松陰)も江戸に来て」
とあって、これが松陰について触れた最初の記述だね
133: 2024/07/04(木)09:39 ID:wJCj627+0(2/7) AAS
木戸孝允文書には松陰との手紙もあるし
松陰は木戸を「事をなすの才あり」と評したし
小五郎が村田蔵六と連名で幕府に提出した「竹島開拓建言書草案」(ただし、
この場合の竹島は現在で言う鬱陵島)は、松陰の竹島開拓論が原型だし
外部リンク[html]:www.pref.shimane.lg.jp
134: 2024/07/04(木)09:42 ID:wJCj627+0(3/7) AAS
ソースを要求する前に、wikiに載っていることくらいは勉強してほしいよね
135: 2024/07/04(木)09:53 ID:wJCj627+0(4/7) AAS
松陰との関係に深さは感じられんとか、勉強不足なだけだろ
136: 2024/07/04(木)09:58 ID:wJCj627+0(5/7) AAS
松陰が密航に失敗した後、小五郎が来原良蔵とともに藩に海外留学願いを出しているんだぞww
熱血師弟そのものだww
137: 2024/07/04(木)10:03 ID:wJCj627+0(6/7) AAS
そういう歴史の流れがあるから、長州ファイブの密航が藩に認められたんだよ
138: 2024/07/04(木)10:07 ID:wJCj627+0(7/7) AAS
松陰がやろうとしたことは失敗ばかりだったけど、小五郎や塾生らの長州藩士がちゃんとその遺志を継いだんだよ
深みが感じられないどころか、深すぎて驚くことばかりだよ
139(1): 2024/07/04(木)23:01 ID:3yT4GI1S0(1) AAS
京都ホテルオークラは、江戸時代には長州藩邸が置かれていた場所にあります。ホテルの西側には、桂小五郎像が立っています。
桂は吉田松陰の門下生であり、長州藩における討幕派の中心人物でした。池田屋事件では難を逃れ、禁門の変では危機を乗り越え、芸妓の幾松(のちの妻)の助けも借りて、一流の剣客でありながら人を斬らずに生き抜いたという話は有名です。慶応2年(1866年)には、坂本龍馬の仲介で薩長同盟が締結されましたが、この成功には桂の力が大きく貢献しました。
維新後は木戸孝允と改名し、新政府で参議として版籍奉還や廃藩置県など、数々の重要事業に尽力しました。しかし、大久保利通と対立し、明治10年の西南戦争では「西郷いいかげんにしろ」という有名な最後の言葉を遺し、国を憂えて戦中に京都で病死しました。享年44歳。維新の功労者でありながら、畳の上で亡くなった数少ない人物の一人です。
140(1): 2024/07/05(金)04:04 ID:C9WkNoKi0(1) AAS
>>139
改名は維新前な
AIは駄目だな
141(1): 2024/07/05(金)20:51 ID:dzQ9glFZ0(1) AAS
画像リンク[jpg]:i.imgur.com
すぐ2500P+2500P手に入ります
142(1): 2024/07/05(金)23:49 ID:08hTTtF90(1) AAS
>>140
よくもまあ、そんなウソを堂々と
お前あれだろ? あちこちでAI指摘してる風で、荒らししてるやつだろ?
やめとけよ、ウザいから
143(2): 2024/07/06(土)00:29 ID:bGNS40620(1) AAS
Wikipediaに
「前述の通り国泰寺会談において毛利側の吉川が幕府側の永井に桂小五郎と高杉晋作は死去したと言明したため、公には利用出来なくなる。「木戸」姓は、第2次長州征討前(慶応2年)に藩主・毛利敬親から賜ったものである。 「孝允」名は、桂家当主を引き継いで以来の諱(いみな)だった」
って書いてあるだろ
慶応2年(1866年)に藩主の命で「桂小五郎孝允」から「木戸貫冶孝允」に改名している(その後「木戸準一郎孝允」に)
木戸のWikipediaすら読まない奴が木戸のスレに来んなよ・・・
144(1): 2024/07/06(土)00:37 ID:+05RmFJ50(1) AAS
>>142
お前近代史板のあちこちのスレにAIからコピペしたデタラメな文章を貼り付けてるキチガイだろ
AIで生成した誤謬だらけの文章なんて自分で二重チェックしないと使えたもんじゃないのを「学習」したほうがいいぞ
145: 2024/07/06(土)04:07 ID:P9X4tTzJ0(1) AAS
逃げの小五郎よお!!
146(1): 2024/07/06(土)08:41 ID:aGwqJ45f0(1) AAS
攘夷思想に燃える河上彦斎の情熱は、まさに尋常ではないものだった。しかし、その頑固な姿勢は、明治維新政府樹立後、問題視されることになる。
明治4年(1871)11月、岩倉使節団に加わって海外渡航を控えた木戸孝允(旧名:桂小五郎)は、裁判官の玉乃世履を呼び寄せ、次のように告げたという。「河上彦斎は一代の豪傑ではあるが、依然として攘夷論を頑なに唱え続けている。いずれ国家に害毒をなし、文明の妨げとなることだろう。私が帰国する前に、河上を処断しておいてくれ」と。(河上彦斎言行録より)
新生日本を守るためとはいえ、木戸の決断は非情なものだった。この時、彦斎はすでに参議・広沢真臣暗殺の嫌疑で投獄されていたが、玉乃は彦斎の死刑を忍び難く、最後の説得を試みた。しかし、彦斎はついに翻意することはなかった。そして、翌12月4日、最後まで攘夷志士として生きた彦斎は、小伝馬町の刑場で処刑されたのだった。
たまに騒いでいる>>144のID:+05RmFJ50は、自分が荒らしになってる事に気づいていない、ただの阿呆なんだろうなと思う。
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