松菊木戸孝允(桂小五郎) (292レス)
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155: 08/05(月)12:09 ID:GqGWddIk0(1/8) AAS
sage推奨。荒らし、コピペ、脱糞行為、sage行為は華麗にスルーしましょう。
幕末・明治に関する小説、テレビドラマ、映画の話題も大歓迎です。
木戸孝允周辺の人々に関する話題も積極的に議論しましょう。

木戸孝允に興味を持った方は、以下の文献を参考にしてみてください。

松菊木戸公傳
木戸孝允日記
木戸孝允文書
木戸孝允遺文集
木戸孝允関係文書

これらの文献は、多くの大きな図書館に所蔵されています。
156: 08/05(月)12:10 ID:GqGWddIk0(2/8) AAS
松尾正人『木戸孝允』は読んでいるという前提で話を進めます。

木戸の名前を冠した文献としては、以下のものが挙げられます。

長井純市「木戸孝允覚書─分権論を中心として─」『法政史学』第50号、1998年
森川潤『木戸孝允とドイツ・コネクションの形成』広島修道大学研究叢書第93号、広島修道大学総合研究所、1995年
内山京子「木戸孝允と明治初期の新聞界」『日本歴史』12月号、吉川弘文館、2008年
五十嵐暁郎『明治維新の思想』世織書房、1996年(収録の木戸孝允論はおすすめ。この部分のみネットでも読めるので検索してみてください。)
落合弘樹「国家構想の展開と木戸孝允─往復書翰から見た木戸孝允と井上馨─」『明治大学人文科学研究所紀要』第64号、2009年(これも検索すれば読めます。)

木戸に関する興味深い論文が掲載されていると思われる文献としては、以下のものが挙げられます。

松尾正人『廃藩置県 近代統一国家への苦悶』中公新書、1986年
松尾正人『維新政権』吉川弘文館、1995年
省9
157: 08/05(月)12:12 ID:GqGWddIk0(3/8) AAS
尾本氏の小説と齋藤氏の評論、両方読まれていますか?
それともどちらか一方でしょうか?
両方読んでいるという方もいらっしゃるのでしょうか。

価格や読破時間を考えると、私はほとんど評論の方しか読まないのですが、
晩年の病と死に至る過程の記述については、小説の方にもう少し詳しく書かれていたら…という思いが拭えません。
やはり木戸氏の生涯を考えさせられると、その部分で感傷に浸りたい気持ちになります。

小説はまだ書店で見つけられていないので、一度現物を見てから購入を決めたいと思います。それまでは競馬のPOG本で時間を潰そうと思います。
(都内のある大型書店の検索システムでは「在庫あり」と表示されていたのですが、実際に指定された場所にあったのは齋藤氏の評論だけでした。これは担当者が入力ミスをしたようです。)
158: 08/05(月)12:52 ID:GqGWddIk0(4/8) AAS
斎藤本は、研究者向けに書かれた専門書であるため、一般の読者にはやや難解な部分があります。また、研究者の傾向として、既によく研究されている部分については深く掘り下げず、簡潔にまとめる傾向があるため、伝記として読む場合、物足りなさを感じる箇所も少なくないでしょう。

例えば、最初の章では、吉田松陰との関係や丙辰丸盟約、文久2年の攘夷藩論への転換に至る経緯など、一般読者が特に興味を持つ部分も、比較的あっさりとした記述に留まっています。特に、義弟である来原良蔵の自刃事件については、木戸孝允よりも年上であったという点など、興味深いエピソードがあるにも関わらず、詳細な描写が不足しているのは残念です。

さらに、本文中には「これについてはすでに指摘されている」といった脚注が多く見られ、より深い考察を期待していた読者にとっては、物足りなさを感じてしまうかもしれません。

上記のように、斎藤本は学術的な厳密性を重視しているため、一般読者が求める詳細なエピソードや背景説明が不足している点に注意が必要です。
159: 08/05(月)16:29 ID:GqGWddIk0(5/8) AAS
明治4年6月27日の木戸孝允の日記に、「わが論のたちまちに彼の心腹に入るを覚ふ。西郷の公心、余の心に徹し覚えず感歎せり」とある。

「醒めた炎」では、この「わが論」を廃藩置県と解釈しているが、少し無理があるように思われる。制度改革全般を指しているのではないだろうか。

参考までに、木戸孝允遺文集(妻木忠太編)によると、「明治4年6月27日西郷が始めて公(木戸)が言う廃藩置県の主意を了解した」とあり、「醒めた炎」の解釈と一致する。
160
(1): 08/05(月)16:31 ID:GqGWddIk0(6/8) AAS
どうしても、『冷静』『慎重』ってイメージに引っ張られるけど、丙辰丸の盟約を結んだり、廃藩置県では最も急進派だったり、『まずやってみる』っていう手数の人だったんじゃないかなぁと思ってたら、自分を『狂気軽躁』と分析してたようで、やっぱりと思った。村松剛さんは『その形容は似つかわしくないけれど』と書いてるけども
161: 08/05(月)16:33 ID:GqGWddIk0(7/8) AAS
木戸孝允と山田顕義の関係は、明治維新を担った二人の人物間の信頼関係としてしばしば強調される。山田顕義は、長州藩出身の学識豊かで礼節を重んじる人物であり、木戸孝允もその能力を高く評価していた。

しかし、「木戸孝允が山田顕義を最も信頼していた」と断言するのは、他の同志との関係性を考慮すると、必ずしも正確ではない。木戸孝允は、高杉晋作や伊藤博文など、様々な個性を持つ人物と協力し、維新を成し遂げた。これらの関係性もそれぞれ特徴があり、単純に比較することは困難である。

また、功山寺挙兵後の萩の町に対する扱いをめぐる記述についても、修正が必要だ。高杉晋作や伊藤博文が「放火を得意としていた」という表現は、彼らの行動の一部を切り取って過度に強調しており、彼らの全人格を捉えるには不十分である。彼らは、藩政改革を推進する上で、時には過激な手段も厭わなかったが、同時に新しい国家建設のために多大な貢献をした人物でもある。

山田顕義が萩の町の焼払いに反対したのは事実だが、その理由は、単に「美しい町を保存したい」という感情的なものではなく、藩政改革の長期的な視点から、町を破壊することは生産的ではないと考えたためであると考えられる。木戸孝允が山田の意見に耳を傾けたのは、彼の見識を信頼していたからであり、必ずしも山田の性格的な特徴が決定的な要因であったわけではない。

さらに、萩の町が現在も残っているのは、山田顕義の反対だけが理由ではない。明治政府の政策や、地元住民の努力など、様々な要因が複合的に作用した結果である。
省1
162
(1): 08/05(月)16:35 ID:GqGWddIk0(8/8) AAS
慶応元年(1865年)の萩の戦いにおいて、山田顕義は、萩城下を戦火から守るために尽力した人物の一人として知られている。高杉晋作が萩城下への攻撃を主張する中、山田は山県有朋や太田とともに、藩主や町民を巻き込む無用の犠牲を避けようとした。

山田のこの姿勢は、彼自身の経験や価値観に深く根ざしていたと考えられる。京都での戦火を目の当たりにした山田は、無辜の民が戦争によってどれほどの苦しみを味わうかを知っていた。そのため、萩城下を戦場とすることに強い抵抗を感じたのである。

「去年の夏、京都の戦で都は火の海につつまれた。おれたちはその中を逃げてきた。一番難儀をこうむったのは罪もない町民だった。萩の町を焼いちゃぁいけん」

山田の発言は、単なる感情的な訴えではなく、戦争の残酷さに対する深い洞察に基づいたものであった。彼は、武力による解決が必ずしも最善の策ではないことを悟っていたのである。

しかし、高杉晋作をはじめとする急進的な志士たちは、時の政府に対する不満を爆発させ、武力による倒幕を急いでいた。彼らの目には、山田たちの主張は、改革を遅らせる妨げと映ったのかもしれない。
省1
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