[過去ログ] 南京大虐殺は史実 (1002レス)
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437: 2024/06/14(金)08:30 ID:YFE4lFT+0(10/16) AAS
>>424
ヴォートリン日記
1938年4月15日
城外ではこの時期に39,589体の男性、女性、子どもの死体を埋葬した。そのうち約25%は民間人であった。これらの死体埋葬数には私たちがきわめてむごい殺害があったことを知っている下関、三叉河の地域は含まれていない
438: 2024/06/14(金)08:31 ID:YFE4lFT+0(11/16) AAS
>>424
石射猪太郎 宣誓供述書
12月13日頃、我が軍が南京に入城する、其の後を逐って、我南京総領事代理(福井淳氏)も上海から南京に帰復した。同総領事代理から本省への最初の現地報告は我軍のアトロシテ-ズに関するものであった。此の電信報告は遅滞なく東亜局から陸軍省軍務局長宛に送付された。当時、外務大臣は此の報告に驚き且心配して、私に対し早く何とかせねばならぬと御話があったので、私は電信写は既に陸軍省に送付されて居る事、陸海外三省事務当局連絡会議の席上、私から軍当局に警告すべき事を大臣に御答へした。其の直後、連絡会議が私の事務所で行われ(カッコ内省略)其の席上、私は陸軍省軍務局第一課長に対し右アトロシテ-ズ問題を提起し、苟も聖戦と称し皇軍と称する戦争に於てこれは余りヒドイ、早速厳重措置する事を切実に申入れた。同課長も全く同感で、右申入れを受け入れた。
439: 2024/06/14(金)08:32 ID:YFE4lFT+0(12/16) AAS
>>424
ラーべ報告書
さらに私がとくに指摘しておきたいのは、どうみても日本人は私に感謝するほかはないことです。なぜなら、私が南京難民区の国際委員会委員長として活動を開始して以来、われわれが日本大使館に提出せねばならなかった数多くの苦情と抗議の矛先を和らげるベく努めてきたからです。それは、私はドイツ人でしたし、ドイツ人として、われわれと同盟している日本の大使館との友好的関係を堅持したいと望みましたし、またそうせねばならなかったからでした。委員会で私が仲良くしていたアメリカのメンバーの間で、〔日本大使館に〕手紙を発送する前に、「手紙に蜜を加えて感触を柔らかくさせたほうがいいよ」と警告されることにもなりました。それでも日本大使館宛のいくつかの手紙が相当に厳しいものになったのは、日本兵によって日毎に繰り返される殺人、略奪、暴行、放火を目にして、われわれには他になす術がなかったからでした。
440: 2024/06/14(金)08:32 ID:YFE4lFT+0(13/16) AAS
>>424
石射猪太郎『外交官の一生』
南京は暮れの一三日に陥落した。わが軍のあとを追って南京に帰復した福井領事からの電信報告、続いて上海総領事からの書面報告がわれわれを慨嘆させた。南京入城の日本軍の中国人に対する掠奪、強姦、放火、虐殺の情報である。憲兵はいても少数で、取締りの用をなさない。制止を試みたがために、福井領事の身辺が危いとさえ報ぜられた。
441: 2024/06/14(金)08:33 ID:YFE4lFT+0(14/16) AAS
>>424
ラーべの報告書
中国の発表によれば総計一〇万人の中国の【民間人】が殺害されたそうです。これは少し過大な数字でしょう。われわれヨーロッパ人はその数は約五万ないし六万人と推定しています。
442: 2024/06/14(金)08:37 ID:YFE4lFT+0(15/16) AAS
>>424
夏淑琴『南京大虐殺と原爆』
南京市内に当時、外国人が避難できるように作られた「安全区」という地域がありました。南京市内の状勢がずい分安定してからですけれども、私の母方の伯父が、その安全区から私たち二人を迎えに来ました。 そして、孤児院から私たちを引きとってくれました。
あとになって知ったことですが、私たちの家族だけではなく、私が住んでいたのはほんの小さい地域ですが、その地域だけで一日のうちに二百人前後もの人がいっペんに殺されたのです。赤ん坊から老人まで無差別に。
443(1): 紀州人 [D1a2-D4] 2024/06/14(金)08:59 ID:aCKL6jla0(2/6) AAS
>>427
自慰史観ね。
それもアホらしい。
歴史はプロパガンダではない。
過去から学んで、未来に活かすものとちゃうか?
444: 紀州人 [D1a2-D4] 2024/06/14(金)09:01 ID:aCKL6jla0(3/6) AAS
これは流石に頭がおかしい。
h t t p s 動画リンク[YouTube]
445(1): 2024/06/14(金)09:51 ID:GClfSwLw0(1) AAS
>>443
そうだよ
マッカーサーが自衛戦争と言ったとか
真珠湾はルーズベルトの陰謀だとか
日本の植民地は欧米とは違うとか
無知による自慰はみっともないものだ
446: 浮月斎 2024/06/14(金)10:55 ID:pgm+etAK0(1/5) AAS
(12月15日)、私は、車で城内をまわった。住民居住区は「避難民区」とされ、その周辺には警備隊が配置されていた。私たちは、旧支局が区内にあるとの理由で中に入った。まだ店は閉じたままだが、多くの住民が行き交い、娘たちの笑い合う姿があり、子供たちが戯れていた。生活が生き残り、平和が息を吹き返していたのだ。私は戦争で荒れた心が和むのを覚えた。
(前野雄二「戦争の流れの中に」pp.115-116)
447: 浮月斎 2024/06/14(金)10:57 ID:pgm+etAK0(2/5) AAS
また占領後、難民区内で大規模の掠奪、暴行、放火があったという外電が流れた。これを知って、私たちはキツネにつままれたような思いをした。というのは、難民区は入城早々指定され、将兵の立ち入りが禁止された。そして入城式のころから難民区内でも商店が開けはじめ、同盟班も十八日には難民区内にあった旧支局に移動していた。これは区内の治安が回復したからのことである。
支局には、戦前働いていた料理人や下働きが戻ってきた。これと入れ違いに、これまで忠実に仕えてきた李杏泉が多額の軍票と身分証明書を与えられて住民の中に去った。
難民区内での日本兵の“乱暴狼藉”説が上海から伝えられたのは、その直後のことだったのだ。すなわち、私たちが以前の活気を取り戻した難民区内の支局で、平和な日常活動をはじめた矢先のことである。私たちは顔を見合わせた。新井も堀川も中村農夫も、市内をマメにまわっている写真や映画の誰一人、治安回復後の暴虐については知らなかった。残敵掃討や区内に逃げ込んで潜伏した中国兵の摘発も、十四日には終わっていたのだ。もしこうした無法行為があったとすれば、ひとり同盟だけではない、各社百名の報道陣の耳目に入らぬはずはなかった。
警備司令部の記者会見でも、「例の白髪三千丈」だろうと、まともに取りあげる空気にはなかった。もしそれが事実だったとすれば、私たち新聞記者はあきめくらだったということになる。
(前野雄二「戦争の流れの中に」p.125)
448: 浮月斎 2024/06/14(金)11:01 ID:pgm+etAK0(3/5) AAS
翌日(十九日)は難民区をまわる。政府上層部や金持ち階級はほとんど逃亡してしまって、空家になったそれらの家々は荒らされている。しかし、庶民階級は居住地域にそのまま残り、店は開き、行き交う人が多い。物売りが町を歩き、大道芸人が皿まわしをやって人を集める。私はカメラの稲津と二人で支那風呂に入ってみる。若い湯女が全身を洗い、マッサージをする。軍票で支払うと、店の主人がはじめて見る紙幣を物珍しげに吟味する。新しい 支配者のもとでの生活がはじまったことを実感として受け取ったのだろう。
(前野雄二「戦争の流れの中に」p.126)
449: 浮月斎 2024/06/14(金)11:20 ID:pgm+etAK0(4/5) AAS
「南京入城後、日本兵による不法事件があり取り調べたことを記憶している。而して、入城式(注;12月17日)に当たり松井司令官は各部将校を集めて不法事件の発生を語り、軍紀風紀の維持を厳守するよう申し渡したことを記憶している。
私の処断した事件の中には将校は四、五人いたと思うが、その他は兵卒による散発的な事件が大部分であった。罪種は主として掠奪、強姦であり、障害、窃盗は少なく、それに起因する致死は極めて少なかったと記憶している。殺人も二、三件あったと思うが放火犯を処断した記憶はなく、また集団的虐殺犯は取り扱ったこともない。」
(出典:『南京大虐殺はこうして作られた‐東京裁判の欺瞞』(冨士信夫著 展転社)p.148)
ワシはこの塚本浩次法務官の立場を取っている。偶発的事故としての殺人は二、三件はあったのであり、組織的・計画的な「集団的虐殺」はなかった。事故はありうるし、どのような集団にも不心得者は居るからだ。米軍が日本を占領したときも、強姦・殺人・掠奪事件は起きている。ちなみに、横浜に上陸した米第八軍は24万人だ。敗戦した国土に、勝利に酔う24万人の男ばかりの集団が占領したら、強姦・殺人・掠奪が起きない方がおかしい。個人で行った不法行為までは否定しない。しかし、それは日本軍という組織の意思に反するものであった。
450(1): 紀州人 [D1a2-D4] 2024/06/14(金)12:21 ID:aCKL6jla0(4/6) AAS
>>445
それが自慰史観?www
で、日本人が支配欲と残虐性の塊になって突き進んだのが正しい史観だとか?
自慰史観と自虐史観のどちらかじゃないと、歴史学は成立しないの?
451: 2024/06/14(金)12:38 ID:7Oi2gdvm0(2/2) AAS
多分、成り行き任せでやったら統制取れなくなったと信じたいが、信じたいは学問的態度じゃないなあ。
452(1): 2024/06/14(金)13:14 ID:QJHTZjWP0(1/2) AAS
>>450
いくつか例を挙げたようにデマに基づいた主張は自慰以外の何物でもないでしょう
>支配欲と残虐性
そんな事を言ってる人、このスレにはいないんじゃない?
私は自虐史観だと指弾する人が反証例として持ち出す事例の多くが
基礎的知識の欠落や、とうの昔に否定された説なのを指して自慰史観だというワードを使っている
453: 2024/06/14(金)13:25 ID:QJHTZjWP0(2/2) AAS
それが不名誉なものでも事実なら自虐でも何でも無いと思うがね
もちろんデマがダメなのは言うまでもない
454(1): 紀州人 [D1a2-D4] 2024/06/14(金)18:51 ID:aCKL6jla0(5/6) AAS
>>452
俺はこういうスレを立てる人物の深層心理を暴きたい。
学問的史実を追求する感じが、このスレタイからはしない。
寧ろ、ハン板によくある、
「日本人は自分の正体を直視して、深く恥じて総自決しろ!」
「自らの意思で革命を起こし、天皇一族を打ち首にして、倭国を大中華様に献上しろ!」
ってレスと同類に感じてしまう。
455(1): 紀州人 [D1a2-D4] 2024/06/14(金)18:59 ID:aCKL6jla0(6/6) AAS
旧日本軍が南京攻略戦の時に、砲撃の誤爆で民間人に被害は出たやろうし、占領後の残敵掃討で便衣兵に間違われて殺害された民間人も居たと思う。
だけど、民間人そのものを標的に虐殺した話に疑問を持っている。
シナ戦線では「三光作戦」なるものが行われたと昔聞いた事があるけど、「光」の漢字の意味が日本語で使われるポジティブな意味じゃない。
寧ろ、物騒な意味を持つ。
だから、どこまでが史実で、どこからが捏造なのかを見極める必要が生じると考えている。
456(2): 2024/06/14(金)19:00 ID:4ft8SIF10(1/3) AAS
ローゼンは日本軍が南京に入城する前に上海へ逃れ、南京に帰還して大使館業務を再開するのは翌一九三八年一月九日からです。
つまり、ローゼンは日本軍の行為を直接目にしていません。
危険になりそうになったら逃げだして、危険が去ったとみれば舞い戻って伝聞を好き勝手に並べ立てる。
信頼性の欠片もありませんね。
ちなみにローゼンとはこういう人物だったそうです。
ローゼンの反日エピソード
書簡
ラウテンシュラーガー(駐華ドイツ大使館参事官、漢ロ)宛、発信者-シャルフェンベルク (南京)
一九三八年二月一日付
親愛なるラウテンシュラーガ一様
省27
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