[過去ログ] 南京大虐殺は史実 (1002レス)
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446: 浮月斎 2024/06/14(金)10:55 ID:pgm+etAK0(1/5) AAS
(12月15日)、私は、車で城内をまわった。住民居住区は「避難民区」とされ、その周辺には警備隊が配置されていた。私たちは、旧支局が区内にあるとの理由で中に入った。まだ店は閉じたままだが、多くの住民が行き交い、娘たちの笑い合う姿があり、子供たちが戯れていた。生活が生き残り、平和が息を吹き返していたのだ。私は戦争で荒れた心が和むのを覚えた。
(前野雄二「戦争の流れの中に」pp.115-116)
447: 浮月斎 2024/06/14(金)10:57 ID:pgm+etAK0(2/5) AAS
また占領後、難民区内で大規模の掠奪、暴行、放火があったという外電が流れた。これを知って、私たちはキツネにつままれたような思いをした。というのは、難民区は入城早々指定され、将兵の立ち入りが禁止された。そして入城式のころから難民区内でも商店が開けはじめ、同盟班も十八日には難民区内にあった旧支局に移動していた。これは区内の治安が回復したからのことである。
支局には、戦前働いていた料理人や下働きが戻ってきた。これと入れ違いに、これまで忠実に仕えてきた李杏泉が多額の軍票と身分証明書を与えられて住民の中に去った。
難民区内での日本兵の“乱暴狼藉”説が上海から伝えられたのは、その直後のことだったのだ。すなわち、私たちが以前の活気を取り戻した難民区内の支局で、平和な日常活動をはじめた矢先のことである。私たちは顔を見合わせた。新井も堀川も中村農夫も、市内をマメにまわっている写真や映画の誰一人、治安回復後の暴虐については知らなかった。残敵掃討や区内に逃げ込んで潜伏した中国兵の摘発も、十四日には終わっていたのだ。もしこうした無法行為があったとすれば、ひとり同盟だけではない、各社百名の報道陣の耳目に入らぬはずはなかった。
警備司令部の記者会見でも、「例の白髪三千丈」だろうと、まともに取りあげる空気にはなかった。もしそれが事実だったとすれば、私たち新聞記者はあきめくらだったということになる。
(前野雄二「戦争の流れの中に」p.125)
448: 浮月斎 2024/06/14(金)11:01 ID:pgm+etAK0(3/5) AAS
翌日(十九日)は難民区をまわる。政府上層部や金持ち階級はほとんど逃亡してしまって、空家になったそれらの家々は荒らされている。しかし、庶民階級は居住地域にそのまま残り、店は開き、行き交う人が多い。物売りが町を歩き、大道芸人が皿まわしをやって人を集める。私はカメラの稲津と二人で支那風呂に入ってみる。若い湯女が全身を洗い、マッサージをする。軍票で支払うと、店の主人がはじめて見る紙幣を物珍しげに吟味する。新しい 支配者のもとでの生活がはじまったことを実感として受け取ったのだろう。
(前野雄二「戦争の流れの中に」p.126)
449: 浮月斎 2024/06/14(金)11:20 ID:pgm+etAK0(4/5) AAS
「南京入城後、日本兵による不法事件があり取り調べたことを記憶している。而して、入城式(注;12月17日)に当たり松井司令官は各部将校を集めて不法事件の発生を語り、軍紀風紀の維持を厳守するよう申し渡したことを記憶している。
私の処断した事件の中には将校は四、五人いたと思うが、その他は兵卒による散発的な事件が大部分であった。罪種は主として掠奪、強姦であり、障害、窃盗は少なく、それに起因する致死は極めて少なかったと記憶している。殺人も二、三件あったと思うが放火犯を処断した記憶はなく、また集団的虐殺犯は取り扱ったこともない。」
(出典:『南京大虐殺はこうして作られた‐東京裁判の欺瞞』(冨士信夫著 展転社)p.148)
ワシはこの塚本浩次法務官の立場を取っている。偶発的事故としての殺人は二、三件はあったのであり、組織的・計画的な「集団的虐殺」はなかった。事故はありうるし、どのような集団にも不心得者は居るからだ。米軍が日本を占領したときも、強姦・殺人・掠奪事件は起きている。ちなみに、横浜に上陸した米第八軍は24万人だ。敗戦した国土に、勝利に酔う24万人の男ばかりの集団が占領したら、強姦・殺人・掠奪が起きない方がおかしい。個人で行った不法行為までは否定しない。しかし、それは日本軍という組織の意思に反するものであった。
462(3): 浮月斎 2024/06/14(金)23:04 ID:pgm+etAK0(5/5) AAS
>455
>「三光作戦」
「皆焼け、皆奪え、皆殺せ」の三つの遂行を「三光作戦」という、と高校生のときに習いましたな。おかしな作戦名だな、とは思いつつも歴史の教科書に書いてあるから覚え、大学生から社会人としての日常の繁忙にまぎれて、老齢に至るまで長く忘却していました。
この疑問が解けたのは約40年後の2012年の冬、尖閣国有化に端を発して、中国で反日暴動の嵐が吹き荒れたときです。自分の中国理解に根本的な誤りがあると感じた私は、その頃に出版されていた中国関係の本を片っ端から読み漁った。
その本のなかに、「光」について石平氏と黄文雄氏の対談があった。石平氏は四川省出身、黄文雄氏は台湾出身だから、北京普通語について間違えるはずがない。
二人の会話によれば、日本語の「光」には明かりの意味しかないが、中国語の「光」には空っぽにするという意味があるという。
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