[過去ログ] 南京大虐殺は史実 (1002レス)
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(15): 06/14(金)01:02 ID:G3fjuvxa0(6/6) AAS
バカには「南京事件と軍法会議が開かれなかった事の関係を証明出来なければ何の意味も無い」という事も理解出来ないのだろうなあ。

そして具体的根拠は絶対に出さず、その証明からは徹底的に逃げ回るし。

あった派の目には安全区委員会の記録に20万件位の事件が書かれているように見えるのだろうなあ。

他の誰の目にも見えないけど。
428: 06/14(金)08:20 ID:YFE4lFT+0(1/16) AAS
>>424
1938年2月16日付駐華ドイツ大使館報告第113号
脱ぎ捨てられた多数の軍服は、日本軍に、難民区には多くの中国兵士がいると主張する格好の口実を与えた。
かれらは再三にわたって難民収容所を徹底捜索したが、兵士とおぼしき者を真剣に探す努力はせず、まずすべての若者を無差別に、次に何らかの理由で目についた者を全員連行した。
城内で中国人が日本軍に発砲したことは一度もなかったにもかかわらず、日本軍は少なくとも5,000人を射殺し、その大半は埋葬の手間を省くために川岸で実行された。
429: 06/14(金)08:21 ID:YFE4lFT+0(2/16) AAS
>>424
ドイツ外務省宛 発信者-ローゼン(1938年1月20日)
一般に、兵士の印として、頭にある円形のヘルメットの跡や、銃を肩にかついだり、背嚢を背中に背負ってできる痣などが調べられた。
また、複数の外国人目撃者の証言によれば、日本軍は多くの中国兵に「危害は加えない。仕事を与えよう」と約束してかれらを安全区の外に連れ出し、殺害した。
いかなる軍事裁判も、またこれに類する手続きも一切おこなわれた形跡はなかった。
そもそもこうした手続きは、あらゆる戦時国際法の慣例と人間的な礼節をかくも嘲り笑う日本軍のやり方にふさわしくないものであったろう
(ドイツ外交官の見た南京事件:資料73)
430: 06/14(金)08:22 ID:YFE4lFT+0(3/16) AAS
>>424
「熊本師団戦史」P128~P129
のみならず南京攻略戦では南京城西側・長江河岸間は敵の退路に当たり、敗兵と難民がごっちゃになって第六師団の眼前を壊走した。師団の歩砲兵は任務上当然追撃の銃砲弾を浴びせ、このため一帯の沼沢は死屍で埋められたという。
431: 06/14(金)08:23 ID:YFE4lFT+0(4/16) AAS
>>424
高城守一「揚子江は哭いている」P94~P96
揚子江の流れの中に、川面に、民間人と思われる累々たる死体が浮かび、川の流れとともにゆっくりと流れていたのだ
そればかりか、波打ち際には、打ち寄せる波に、まるで流木のように死体がゆらぎ、河岸には折り重なった死体が見わたす限り、累積していた。それらのほとんどが、南京からの難民のようであり、その数は、何千、何万というおびただしい数に思えた
432: 06/14(金)08:24 ID:YFE4lFT+0(5/16) AAS
>>424
高城守一「揚子江は哭いている」P94~P96
南京から逃げ出した民間人、男、女、子供に対し、機関銃、小銃によって無差別な掃射、銃撃がなされ、大殺戮がくり拡げられたことを、死骸の状況が生々しく物語っていた。道筋に延々と連なる死体は、銃撃の後、折り重なるようにして倒れている死骸に対して、重油をまき散らし、火をつけたのであろうか。焼死体となって、民間人か中国軍兵士か、男性か女性かの区別さえもつかないような状態であった。 焼死体の中には、子供に間違いないと思われる死体も、おびただしくあり、ほとんどが民間人に間違いないと思われた。
私は、これほど悲惨な状況を見たことがない。大量に殺された跡をまにあたりにして、日本軍は大変なことをしたなと思った。
433: 06/14(金)08:26 ID:YFE4lFT+0(6/16) AAS
>>424
ロバート・O・ウィルソン医師(1937年12月28日)
「日本兵が彼らを登録するとき、まず結構な演説をして、兵士を探しているだけだと述べた。もし兵士だったと進み出て認めれば、命は助けて、軍の使役隊に編入されると日本兵は言った。ソーン、ベイツ、リッグズ氏らを含むみんなの前で、このことは繰り返し述べられた。二〇〇人が前に進み出て、兵士だったことを認めた。
 この患者の話によると、この数百人の男性は町の西にある丘に連行され、銃剣の練習台にさせられたそうだ。彼には何人が生き残ったか見当がつかないという。」
434: 06/14(金)08:26 ID:YFE4lFT+0(7/16) AAS
>>424
エスピー報告
「十二月十三日、日本軍が城内に入ってきた。安全区の境界でアメリカ人役員が日本部隊に会い、彼らが所持する地図に安全区の印があるのを確かめた。その役員らが背をむける間もなく、この部隊による安全区への一斉射撃が行われ、二〇名の民間人が死亡した。しかしながら、総体的にみて、入城一日目と二日目は安全区は攻撃の対象からはずされていた。
 しかし、市の南東部では安全区に避難しなかった多数の民間人が虐殺された。」
435: 06/14(金)08:27 ID:YFE4lFT+0(8/16) AAS
>>424
徳川義親「最後の殿様」P170~P173
『日本軍に包囲された南京城の一方から、揚子江沿いに女、子どもをまじえた市民の大群が怒涛のように逃げていく。そのなかに多数の中国兵がまぎれこんでいる。中国兵をそのまま逃がしたのでは、あとで戦力に影響する。そこで、前線で機関銃をすえている兵士に長中佐は、あれを撃て、と命令した。
中国兵がまぎれこんでいるとはいえ、逃げているのは市民であるから、さすがに兵士はちゅうちょして撃たなかった。それで長中佐は激怒して、
「人を殺すのはこうするんじゃ」
と、軍刀でその兵士を袈裟がけに切り殺した。おどろいたほかの兵隊が、いっせいに機関銃を発射し、大殺戮となったという。
長中佐が自慢気にこの話を藤田くんにしたので、藤田くんは驚いて、
「長、その話だけはだれにもするなよ」
と厳重に口どめしたという。』
436: 06/14(金)08:29 ID:YFE4lFT+0(9/16) AAS
>>424
ラーべ報告書
『日本軍の総司令部と連絡をつけ、同時に砲撃が市にどれほどの損害を与えたか、あらまし確かめるために、私は数人のアメリカ人と市の南部に行きました。われわれは総司令部は見つけられませんでした。自転車に乗った日本軍の歩哨が、指揮をとる将軍は三日たたないと着かない、と告げたのでした。われわれは、たくさんの中国の民問人の屍体を見ました。いくつかの遺体を調べた結果、私は彼らが至近距離、おそらく逃走中に背後から射殺されたことが確認されました。』

『略奪行為をする三ないし一〇人のグループが、市街と安全区をのし歩き始め、手に入るものは何でも略奪し、婦人と少女を暴行し、なんらかの低抗をする者、逃げ出す者、あるいは彼らを不快にする者すべてを殺しました。その際、大人であるか子供であるかの見境はありませんでした。』

『私は婦人の屍体がビールびんや竹棒に突き刺されているのを見ました。私は犠牲者たちを自分の目で見ました。私はまだ生きている犠牲者と、死の寸前に話し合いましたし、鼓楼病院の遺体置場で、すでに亡くなった人の衣服を脱がせ、私に告げられた報告が真実に則していることを自分で確かめたのです。』
437: 06/14(金)08:30 ID:YFE4lFT+0(10/16) AAS
>>424
ヴォートリン日記
1938年4月15日
城外ではこの時期に39,589体の男性、女性、子どもの死体を埋葬した。そのうち約25%は民間人であった。これらの死体埋葬数には私たちがきわめてむごい殺害があったことを知っている下関、三叉河の地域は含まれていない
438: 06/14(金)08:31 ID:YFE4lFT+0(11/16) AAS
>>424
石射猪太郎 宣誓供述書
12月13日頃、我が軍が南京に入城する、其の後を逐って、我南京総領事代理(福井淳氏)も上海から南京に帰復した。同総領事代理から本省への最初の現地報告は我軍のアトロシテ-ズに関するものであった。此の電信報告は遅滞なく東亜局から陸軍省軍務局長宛に送付された。当時、外務大臣は此の報告に驚き且心配して、私に対し早く何とかせねばならぬと御話があったので、私は電信写は既に陸軍省に送付されて居る事、陸海外三省事務当局連絡会議の席上、私から軍当局に警告すべき事を大臣に御答へした。其の直後、連絡会議が私の事務所で行われ(カッコ内省略)其の席上、私は陸軍省軍務局第一課長に対し右アトロシテ-ズ問題を提起し、苟も聖戦と称し皇軍と称する戦争に於てこれは余りヒドイ、早速厳重措置する事を切実に申入れた。同課長も全く同感で、右申入れを受け入れた。
439: 06/14(金)08:32 ID:YFE4lFT+0(12/16) AAS
>>424
ラーべ報告書
さらに私がとくに指摘しておきたいのは、どうみても日本人は私に感謝するほかはないことです。なぜなら、私が南京難民区の国際委員会委員長として活動を開始して以来、われわれが日本大使館に提出せねばならなかった数多くの苦情と抗議の矛先を和らげるベく努めてきたからです。それは、私はドイツ人でしたし、ドイツ人として、われわれと同盟している日本の大使館との友好的関係を堅持したいと望みましたし、またそうせねばならなかったからでした。委員会で私が仲良くしていたアメリカのメンバーの間で、〔日本大使館に〕手紙を発送する前に、「手紙に蜜を加えて感触を柔らかくさせたほうがいいよ」と警告されることにもなりました。それでも日本大使館宛のいくつかの手紙が相当に厳しいものになったのは、日本兵によって日毎に繰り返される殺人、略奪、暴行、放火を目にして、われわれには他になす術がなかったからでした。
440: 06/14(金)08:32 ID:YFE4lFT+0(13/16) AAS
>>424
石射猪太郎『外交官の一生』
南京は暮れの一三日に陥落した。わが軍のあとを追って南京に帰復した福井領事からの電信報告、続いて上海総領事からの書面報告がわれわれを慨嘆させた。南京入城の日本軍の中国人に対する掠奪、強姦、放火、虐殺の情報である。憲兵はいても少数で、取締りの用をなさない。制止を試みたがために、福井領事の身辺が危いとさえ報ぜられた。
441: 06/14(金)08:33 ID:YFE4lFT+0(14/16) AAS
>>424
ラーべの報告書
中国の発表によれば総計一〇万人の中国の【民間人】が殺害されたそうです。これは少し過大な数字でしょう。われわれヨーロッパ人はその数は約五万ないし六万人と推定しています。
442: 06/14(金)08:37 ID:YFE4lFT+0(15/16) AAS
>>424
夏淑琴『南京大虐殺と原爆』
南京市内に当時、外国人が避難できるように作られた「安全区」という地域がありました。南京市内の状勢がずい分安定してからですけれども、私の母方の伯父が、その安全区から私たち二人を迎えに来ました。 そして、孤児院から私たちを引きとってくれました。
あとになって知ったことですが、私たちの家族だけではなく、私が住んでいたのはほんの小さい地域ですが、その地域だけで一日のうちに二百人前後もの人がいっペんに殺されたのです。赤ん坊から老人まで無差別に。
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