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813: ブログ転載 02/09(日)14:44 ID:CoG7g2Cx0(1/3) AAS
p458 各地での状況

大革命以前のフランスのユダヤ人は、市民的諸権利を持たなかった。しかし彼らはいくつかの豊かな共同体を発展させ、何人かの力ある指導者を産み出した。それらの指導者の中の一人は、アミヤン市を含む領地を購入した。彼は大聖堂の法規を定めるため、彼の封建的権利を行使した。司教たちは抗議した。1787年、パリ高等法院はユダヤ人領主を指示した。フランス政府はスペインとポルトガルの王位継承戦争の時ユダヤ人の金融資本家から受けた支援に感謝し、それに答えたのだった。
1720年にジョン・ローの投機事業が失敗した後、インド会社の再建に当たってユダヤ人は重要な役割を演じた。ボルドーのユダヤ人は特に富裕だった。それらの商人や銀行家は、誠実さと寛大さで有名だった。しかし彼らはセファード系のユダヤ人(訳註・スペイン、ポルトガル系ユダヤ人)であることに誇りを持ち、アシュケナージ系ユダヤ(訳註・ドイツ、ポーランド、ロシア系ユダヤ人)を全てボルドーから駆逐してしまった。
十八世紀のスペインでは、ユダヤ人を公然と名乗る者はいなかった。スペイン・ブルボン王家支配の初期に、いくつかの小集団はフェリペ五世の一見啓蒙的な統治のもとで、再びひそかにユダヤ教の礼拝を実施しようと考えた。礼拝は多くの場合発覚した。1700年から1720年の間に、宗教裁判所はバルセロナで三人、コルドバで五人、トレドで二十三人、マドリードで五人のユダヤ人を死刑に処していた。今度の新事実に激怒した宗教裁判所は、新たな活動を開始した。1721年から1727年にかけて法廷が取り上げた八百六十八件の事件のうち、八百件以上がユダヤ人を対象としたものだった。そして、そのうち七十五名を火刑に処した。
しかし、このような事例は以後はきわめてまれになった。宗教裁判所の歴史の晩年に当たる1780年から1820年の期間、スペイン宗教裁判所は五千人の被告を尋問したが、そのうちユダヤ教関係の者は十六人だけであった。しかもそのうちの十人は外国人であった。スペイン法は一貫して「純血」、すなわちユダヤ人の祖先の血が混ざらない血の純粋さを証明できない人々を、全て文官や軍人から除外していた。改革論者は有能な人々を軍と行政から閉め出すこの規定に不満を抱いた。そして、1783年にカルロス三世はこの法の規制を緩めた。
ポルトガルでは、宗教裁判所はユダヤ教の放棄を拒絶したかどで、1717年に二十七名のユダヤ人を火刑にした。イギリスの桂冠詩人サウジがポルトガル最大の劇作家として評価したアントニウ・ダ・シルヴァは、1712年にリオデジャネイロからリスボンにやってきた。彼と母はユダヤ人という嫌疑で捕らえられ、母は火刑にされた。息子は信仰の放棄を誓って釈放されたが、彼は明らかに再度改宗したようである。なぜなら1739年に彼も三十五歳で火刑にされたからである。ポンバル公はその多くの改革の一環として、在来のキリスト教徒と新しい(改宗した)キリスト教徒との間にあったすべての法的差別を1774年に撤廃した。
イタリアではヴェネチアがユダヤ人を解放する方向に向かった。1772年、ヴェネチアのユダヤ人は自由であり、他の住民と全く対等であるという布告が出された。ローマはちゅうちょしていた。ローマのユダヤ人街(ゲットー)は、ヨーロッパで最悪なものだった。律法学者(ラビ)たちが奨励した出産の増大は、貧困と不潔を一層ひどいものにした。ある時は、一平方キロに一万人ものユダヤ人が住んでいた。毎年、ティベル川が氾濫してゲットーの狭い路地をおおい、部屋を泥土で満たした。ほとんどの商業上の仕事から除外されていたため、ローマ市に住むユダヤ人は仕立て職人になった。
1700年当時、ユダヤ人の成年男子の四分の三は仕立て屋で、その慣習は今日に至るまで続いている。1775年、教皇ピウス六世は古くからあったユダヤ人に対する禁令を更新し、さらにこれに新しい禁令を加えた「ヘブライ人に関する教書」を布告した。そのためユダヤ人は馬車に乗ることや埋葬の時葬送歌を歌うことを禁止され、さらに死者のための墓石も建てられなくなった。ローマに住むユダヤ人がこのかせから解放されるには、ナポレオンの時まで待たなければならなかった。
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