太平洋戦争は日本なら誰が悪かったの? (723レス)
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385: 08/18(日)22:40 ID:d+aaWji40(1/3) AAS
そして東條は首相就任の2週間後の11月1日の大本営政府連絡会議で、日米交渉の期限を11月末日とし、日本側提案を受け入れなかった場合は12月初旬に武力行使を決定した。
このようにして東條は天皇の意向に反して開戦に突き進んだ。
388(1): 08/18(日)22:59 ID:d+aaWji40(2/3) AAS
連合艦隊の出撃はハルノートの提出前であり、東條はアメリカは日本に都合が良すぎる乙案を拒否することを予想していた。そして帝国国策遂行要領の通り、開戦を強行した。
ハルノートが無ければ戦争は無かった、とする議論は、戦後に戦犯たちが自己弁護で言い始め。。
392: 08/18(日)23:34 ID:d+aaWji40(3/3) AAS
「ハル・ノート」は日本本国の政策決定過程においては最後通牒と主張され、開戦の最終決定に至った。「ハル・ノート」は自らを試案であり、(今後の交渉がこれに)拘束されるものでないとしていて、これが実際に最後通牒といえるかについては議論があるものの、日本側から提示された「乙案」と「ハル・ノート」の差が大きい以上、戦争は避けられない状況にあったとの主張も、日本にある[5]。
ただし、「ハル・ノート」中の中国からの撤兵要求につき、当時の日本にとって、この中国に満州を含むかどうかが重要な問題で、当時の東郷外相は初めから満州を含むものと考えて報告[6]し、それがため開戦に踏み切らざるをえなくなったかのように、当の東郷自身は戦後主張している。
一方で、責任ある地位にいた者の中で「満州を含む」と解釈していたとは認められず、これは結局、戦後に戦犯裁判に架けられた者の側からの日本は戦争に追い込まれたとする一種の陰謀論ではないかとする説[7]もある。両説どちらからも、東郷のそもそもの真意や実際の行動がどうであったか、疑問が呈されている。
また、「ハル・ノート」の内容が多くの日本側の戦争回避論者を失望させたことや、開戦主張論者に交渉成立の「見込み無し」として利用されたのは事実であるが、そもそも「ハル・ノート」が最後通牒を受けたも同然と言われるようにまでなったのは、少なくとも公には、戦後の東京裁判等で東郷が自身の戦争開始責任を逃れるため言い出し、それに合わせた議論が主張されるようになってからである。 (ウィキペディアより引用)
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