安濃豊の戦勝国は日本だったについて Leg2 (261レス)
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259: 11/22(金)01:05 ID:PSFE5djx0(1) AAS
1930 年代末まで、ジャワの美術界は頑ななまでにインドネシア人の参加を認めな
かった。バタビア在住の上流階級、画家、美術愛好家によるバタビア・アートサーク
ル(Bataviaasche Kunstkring)はヨーロッパ人にのみ開かれた排他的な団体であり、
インドネシア人には美術を観賞したり、作品を展示したりする機会が与えられていな
かった。スパンヤード(2016)によると、これはオランダの植民地政策の一環であり、
インドネシア人には伝統的な東洋の工芸を、オランダ人には近代的な西洋の美術を奨
励するという意図的な分離を行ったためである。

啓民文化指導所は、1943(昭和 18)年より広くジャワ全土から、美術作品を公募し
審査の上、作品を展示する「新ジャワ生活美術展」を明治節(11 月 3 日)と天長節(4
月 29 日)の年 2 回、合計 5 回開催した(後小路、2013)。未だかつて、自身の作品を
公に展示する機会が無かったインドネシア人美術家たちにとって、この公募展は画期
的であった。
第 1 回展では、エミリア・スナッサ(Emiria Sunassa)が最高指揮官賞を受賞した。
本展はジャカルタだけでなく地方へも巡回し、ジョグジャカルタでは 2 日間で 9,000 人が
来場したと報道されている 。
公募展は 1945(昭和 20)年 5 月の第 5 回展まで継続されたが、終戦の 3 カ月前
に、まだこうした公募展が行われていたことは特筆すべきである。

バンドン支部で教育を担当したバルリによると、日本側からの指導は全く無く、バ
ンドンの作家に対し、資金や画材など非常に良い形で支援をしてくれ、新しい主流を
作る、といったような押しつけは無かった

日本軍が来て啓民文化指導所ができると、画家たちにとってはいい時代
になった。高価な油絵具や絵筆、キャンバスや用紙などが、無料で支給されるように
なったからで、油絵具もチューブではなく、ガロン単位で支部に運ばれて来たと証言
している(後小路、2007)。

日本時代とオランダ時代を比較して「10 対 0」という「雲泥の差があり」、助言や施設を与え
られたことに対し、「日本に感謝している」と語った(ANRI, 1988)
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