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【精神科】医療法人北林会 北林病院 (53レス)
【精神科】医療法人北林会 北林病院 http://egg.5ch.net/test/read.cgi/hosp/1624972612/
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1: 卵の名無しさん [sage] 2021/06/29(火) 22:16:52 ID:iOEg2eFT どうぞ http://egg.5ch.net/test/read.cgi/hosp/1624972612/1
2: 卵の名無しさん [sage] 2021/06/29(火) 22:18:49 ID:Qhaw6y9n この病院には具合が悪い時に助けられたから感謝してる http://egg.5ch.net/test/read.cgi/hosp/1624972612/2
3: 卵の名無しさん [sage] 2021/06/29(火) 22:19:54 ID:Qhaw6y9n 逸脱と医療化―悪から病いへ (MINERVA社会学叢書) 以下は「医療化」の良い点と悪い点。 逸脱の医療化は重要な社会的影響をもたらす。「明るい側面」と目しては以下の五つが挙げられる。 逸脱をより人道主義的にとらえること 逸脱者に病人役割を適用し,非難を最小化し,一定の逸脱を条件つきで免責すること 医療的モデルによって,変化に対してより楽観的な見方ができるようになること 逸脱の認定や治療に対して医療専門職の威信を付与できること 医療による社会統制が他の統制よりも柔軟で,ときにはより効果的であるということ しかし,医療化には「暗い側面」もある。 個人の逸脱に対する責任を全く無視してしまうこと 医学が道徳的に中立的であると想定してしまうこと 専門家支配によって起こる様々な問題 社会統制のために使われる強力な医療技術 社会に存在する複雑な問題を個人化してしまうこと 逸脱行動を脱政治化させてしまうこと 悪を排除してしまうこと。 そして、「犯罪有責モデル」「医療無責モデル」のオルタナティブとして「犠牲者」モデルを上げる。 逸脱の医療化は,事実上の、社会政策として認識されるべきである。 逸脱の医療化の程度,ポリティクス,便益,費用などについての調査が,もっとなされなければならない。 医療による社会統制に対する一定の「対抗勢力」が創出されねばならない。 「犠牲者」モデルという形で,行為に対する責任ほ問うが,責めることは、しないという新しい逸脱モデルが必要である。犯罪か病気かという二分法モデルから脱却する必要がある。 http://archive.is/8JbMn http://egg.5ch.net/test/read.cgi/hosp/1624972612/3
4: 卵の名無しさん [sage] 2021/06/29(火) 22:20:34 ID:Qhaw6y9n 医療従事者専用の身に付ける機器を必要としない視界に直接投影する装置は 患者の話したことを分析して投影する患者の気分をお天気マークで表示したり 本当かウソかも表示する得意げにしているとニヤリと表示したりかなり精巧に表示するのである だが看護師が見るものは医師が編集したものばかりなので本当でもウソと表示させたり 事実と異なっている場合も多い http://egg.5ch.net/test/read.cgi/hosp/1624972612/4
5: 卵の名無しさん [sage] 2021/06/29(火) 22:20:49 ID:Qhaw6y9n 獣医がある牛の状態を診て病気と診断する場合、彼はその診断のみでその牛の行動を変えはしない。 つまり、牛にとっての病気は体験している生体生理学的状態であるにすぎず、それ以上の意味はないのである。 ところが医者がある人間の状態を病気と診断すればその診断によって医者はその人の行動を変えてしまう。 いうならば病気の意味を疾患に付け加えることにより、ある社会的な状態が生体生理学的な状態に付加されるのである。 次のような場合の帰結の差異について考察してみよう。 労働の無能力が怠状によるとされる場合、または単核症のためとされる場合、またはてんかんのためだとされる場合、 あるいは飲酒癖が道徳的な弱さのためとされる場合、またはアルコール症のためとされる場合である。 つまり医学的診断は人の行動、その人が自分自身に対してとる態度、他人がその人に対してとる態度に影響を及ぼすのである。 要約すれば、病気とはそもそもある状態に関する人間の判断に基づいた社会的構成物である。 病気はある意味では美意識と同じく見る人次第である。 これは部分的には疾患とは何かということに関して流布している文化的な概念に基づいており、 そうでない時、この方が西欧社会では殆どなのだが、生体生理学的な現象に基礎を置いている。 だが、いずれにせよ病気というこの社会的評価を下すという過程が病気や疾患の概念にとっては枝葉末節なことでなくむしろ中心的なことなのである。 論理的には(体系化された分類である)診断と治療が共に社会的判断を土台としている以上、両者は不可分なのである。 「疾患」の原因である微生物を確認することが重要な結果をもたらすのとちょうど同じ様に病気を社会的判断として認識することが重要なのである。 いうまでもないが、逸脱行動をめぐる病気の社会的構成は、明らかに生体生理学的な問題に比べてより多義的で解釈次第となりがちである。 この点から見れば病気と定義された状態は、社会的な価値体系とある社会の一般的世界観とを反映していることが理解できるのである。 批判的精神医学 : 反精神医学その後 D.イングレビィ編 177p. http://egg.5ch.net/test/read.cgi/hosp/1624972612/5
6: 卵の名無しさん [sage] 2021/06/29(火) 22:21:06 ID:Qhaw6y9n 米海軍兵器センターの発言です。「我々は、細胞、組織、生体全体の行動を変化させることができる」。つまり、体のどこでも、です。 「胎児死亡率を6倍上げ、先天性異常を引き起こし、人体の細胞に悪性腫瘍を引き起こすことができる」。 2001年から2007年にかけて、秘密のコースが行われていました。このコースの第11番目の開始時には、こうありました。 「学生たちは、現在の知識を学ぶ。ガンのメモリー、脳の機能障害、目や肌へのダメージ、電磁波・周波数による先天性障害」。 ◆実験は特定のプロジェクトの一環だった どんな精神疾患だろうと、電磁波を使って引き起こすことができる、というのが彼らの自慢でした(それが可能なのは知っています)。 精神分裂病、パラノイアを誘発する事もできるし、目を見えなくさせたりすることもできます。 心臓発作、肝臓の機能障害、心臓の機能障害も引き起こせる。その内臓をターゲットにするだけで、人体になんでも引き起こすことが可能なのです。 http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=295046 ↑このテクノロジーを医師が使用していると考えて間違いないだろう 国家機密レベルの話なので絶対に言わないが http://egg.5ch.net/test/read.cgi/hosp/1624972612/6
7: 卵の名無しさん [sage] 2021/06/29(火) 22:21:40 ID:7LiZG/Sr 俺がある病院で性格を最初と真逆に当てつけられまくって原型をとどめない認知にされてどう頑張ってもそうなってしまっていたのに 精神科医を変えると訳分からん所まで病気になる前のもともとの性格や知能やコミュ力に戻ったのは 精神科医に完全な脳のコピーのデータがあってそこに精神科医が視界に投影する医療技術でフタを並べていくので 元々の脳はどうだったか他の精神科医がどう治療したかも精神科医は完璧に把握しているのだろう 戻そうと思えばいつでももともとの脳に完全に戻せるのだ http://egg.5ch.net/test/read.cgi/hosp/1624972612/7
8: 卵の名無しさん [sage] 2021/06/29(火) 22:22:00 ID:7LiZG/Sr 身体を対象にした制御 実は、これには、近代、特に18世紀の啓蒙の時代になって以降の医学の進歩が深く関係している。 バーバラ・スタフォードが「啓蒙された批評家の仕事は今や数学者のそれと似ていた。 この木立ちに剪定の鋏を入れて、永遠の原理に従って構想された秩序立ち、客観的で機械的な自然にと刈り込むのである。 身体が概念へ、蓋然が公式に変わるこの複雑な変化が完成するには丸一世紀を要した」と『ボディ・クリティシズム』などで論じているとおり、 18世紀を通じて身体はイメージを介して制御の対象となる(数値を用いてより科学的に制御が行われるようになるには、もうすこし待たなくてはならない)。 スタフォードが身体のイメージとその制御の例としてあげるのが、当時有名だった観相学者のラファーターが人の人相をコード化していく例だ。 身体は、要約され、コード化され、図式化されることで監視・制御の対象となっていく。医学の技術が政治的にも利用可能になる。 これが時代が降って19世期に入ると、ジョナサン・クレーリーが『観察者の系譜』で論じているように、生理学という人体制御に使える分野も成立しはじめる。 医学がその計測能力を高めたことがアガンベンのいう生政治が可能な基盤を作ったのだといえる。 医学の分野における、こうした発展とともに、政治が身体を通じて剥き出しの生を管理・制御の対象とすることが可能になったのである。 収容所の出現を許すかどうか? そのことは、アガンベンは本書でも指摘している。 実のところ、国民社会主義帝国は、医学と政治が、一つに統合されるという、近代の生政治の本質的特徴がその完成した形を引き受けはじめる瞬間をしるしづけている。 このことが含意するのは、剥き出しの生に関する主権的決定が厳密に政治的な動機や領域から離れ、 さらに両義的な領域へと移動していく、ということである。この領域では、医師と主権者が入れ替わっているように思われる。 ホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生/ジョルジョ・アガンベン https://archive.is/MVZbo http://egg.5ch.net/test/read.cgi/hosp/1624972612/8
9: 卵の名無しさん [sage] 2021/06/29(火) 22:22:15 ID:7LiZG/Sr 患者の意識精神状態から何で悩ませるかも 精神科医は事細かに選択できる脳を自由自在に調整できるのである つまりプシコが変な言動を取ったらそれは精神科医がそうさせているのである プシコが変な患者であればあるほどその主治医が変な人だということになる http://egg.5ch.net/test/read.cgi/hosp/1624972612/9
10: 卵の名無しさん [sage] 2021/06/29(火) 22:22:32 ID:7LiZG/Sr ■シンポジウム「『精神分裂病』(現統合失調症)とは何か」 クーパーとサズの来日講演 /東京で第72回日本精神神経学会総会 1975/05/12・13・14 まず、東京医科歯科大の島薗安雄が精神分裂病の生物学的研究の歴史経過を、東京精神医学総合研究所の荻野恒一が病理学・精神分析学的立場からの現状を述べ た後、サズが「Schizophrenia:The Sacred Symbol of Psychiatry(精神分裂病:精神医学の神聖なる象徴」、クーパーが「What is Schizophrenia?(精神分裂病と は何か?)」と題してそれぞれ講演している。 サズは、ここでも従来からの主張を繰り返す。要約すると1点目は、精神分裂病の症状といわれている現象があることは認めるが、精神分裂病(現統合失調症)なる ものは存在しない。なぜなら、精神分裂病の診断は「行動上の諸症状」を基礎に行っているものであり、はっきりした細胞上の病理などを示されていないからである。 精神分裂病とは絶対的・科学的な研究の結果ではなく倫理的・政治的な判断によって生じたものである。すなわち発見されたものではなく、社会的に構成され考えだ されたものであるとする。症状はあるが病因は不明のまま作為的な病名だけが与えられているとする従来の反精神医学の主張である。2点目に、サズはこのような精神 分裂病が社会的なものであるという前提にたち、患者の市民権や法的権利において人権侵害がなされていることにふれる。3点目としては、医学一般と精神医学を対比 し、医師と患者関係について述べている。自由な資本主義社会において、精神医学の需要と供給、すなわち検査や診断、治療といったものは当事者である医師か患者の どちらかが拒否すれば成立しないはずである。しかし、「伝統的な医学においては、医師は患者の代理行為者であるが、伝統的な精神医学においては医師は社会の代理 行為者」であるという現実上、医師によって患者が精神分裂病の診断名を冠されてしまうことにより、患者はどのように危険なのかも明確でないまま危険視され患者の 意思に反しても施設に監禁することが精神医学にも必要で法的にも正当化されていること、また患者はその診断や診断過程、診断によって正当化された治療を拒否する ことができず、そのような同意を得ないままの診断や治療が行われていることは暴行に等しいという(精神神経学会 1976:308 )。 http://egg.5ch.net/test/read.cgi/hosp/1624972612/10
11: 卵の名無しさん [sage] 2021/06/29(火) 22:22:52 ID:7LiZG/Sr 単科精神科病院はご存知の通り警察に連れてこられるような人も多い だから裏の精神医療の仕組みが治すように基本的にできていない 表に出して懲らしめたくても懲らしめられない犯罪者を精神病にして悩ませて苦しめる所なんだよ 総合病院精神医学リエゾン精神医学心身医学の方がまだまともと言える 主治医が裏テクノロジーで病気を作っているから精神科は特に主治医との相性がめちゃくちゃ重要なんだよ http://egg.5ch.net/test/read.cgi/hosp/1624972612/11
12: 卵の名無しさん [sage] 2021/06/29(火) 22:23:33 ID:T8EXRUXM 精神科の薬を抜く上で最も重要なポイントはどの精神科医が主治医のときに薬を抜くかである 相性の悪い精神科医や相性の悪い病院で薬を抜こうとしても精神科医は再発させるだろう 相性の良い精神科医が主治医だとあっさり薬を抜けてしまったりするものである http://egg.5ch.net/test/read.cgi/hosp/1624972612/12
13: 卵の名無しさん [sage] 2021/06/29(火) 22:23:50 ID:T8EXRUXM 先進国では異常犯罪者を周りに分かるように懲らしめると批判を浴びるから 単科精神科病院で表に出して懲らしめたくても懲らしめられない異常犯罪者を周囲に分からないように懲らしめるようにできている 単科精神科病院は異常犯罪者に懲罰を与えるところだから総合病院の精神科に行け http://egg.5ch.net/test/read.cgi/hosp/1624972612/13
14: 卵の名無しさん [sage] 2021/06/29(火) 22:24:10 ID:T8EXRUXM 「残基的ルール違反者が公けにレッテルを貼られる時に生じる危機のなかでは逸脱者は被暗示性が高くなり、 申しだされた狂気の役割を唯一の代替策として受け入れるかもしれない ……残基的ルール違反者が精神障害の枠組みのなかで自分の行動を組織化し、 彼の組織化が他の人びと、特に医師たちのような威信のある他者たちによって妥当化される時、彼は「ひっかけられ」て慢性的な逸脱の経歴をたどって行くであろう」(pp.88-89) https://archive.is/vItZC http://egg.5ch.net/test/read.cgi/hosp/1624972612/14
15: 卵の名無しさん [sage] 2021/06/29(火) 22:24:24 ID:T8EXRUXM 精神鑑定によって、どのようなタイプの対象が出現するのでしょうか? 精神鑑定は、裁判に介入する目的として、また、刑罰の目標としてどのようなタイプの対象を裁判官に提出するのでしょうか。 先ほど紹介したテクスト−他のテクストを紹介することもできます。 私は一九五五年から一九七四年にかけての精神鑑定書をひと揃い手に入れました。 精神鑑定によって出現し、犯罪に貼りつけられ、犯罪の裏地ないし分身となるような、 そうした対象といえば一体どのようなものなのかと言えば、 それは、「心理的未成熟」、「ほとんど構造化されてない人格」、「現実に対する不的確な判断」などといった、 それら一連のテクストの中に絶え間なく見いだすことのできる諸概念です。 実際私は、以下のような表現を見つけました。すなわち、「極度の情緒不安定」、「深刻な感情の混乱」、 あるいは、「補償」、「想像上の創作」、「倒錯的な戯れ」、「ヘロストラトス症」、「アルキビアデス症」、「ドン・ファン症」、「ボヴァリスム」などです。 要するに、精神鑑定は、犯罪の心理学的かつ倫理的な分身な構成を可能にする、ということです。 つまり、精神鑑定は、法典に明記されたものとしての違反行為をそれとして認めず、 その背後に、弟あるいは妹のようにそれに似ている分身を、もはや法律が定める違反行為としてではなく、 生理学的、心理学的、ないしは道徳的ないくつかの規則からの逸脱として、出現させるのです。 ミシェル・フーコー講義集成〈5〉異常者たち (コレージュ・ド・フランス講義1974‐75) 18p. http://egg.5ch.net/test/read.cgi/hosp/1624972612/15
16: 卵の名無しさん [sage] 2021/06/29(火) 22:24:40 ID:T8EXRUXM 生政治(Bio-politics) 現代社会の支配体系の特徴として、例えば政府等の国家が市民を支配する際に、単に法制度等を個人に課すだけではなく、 市民一人ひとりが心から服従するようになってきたとして、個人への支配の方法がこれまでの「政治」からひとりひとりの「生政治」にまで及ぶようになったと説明する。 これを「生政治学(Bio-politics)」という。これはフーコーの著書『監獄の誕生』の中で言及される主要な概念のひとつで、この例を示すために、「パノプティコン」の例がよく使われる。 近代国民国家の支配の方法として、法制度といったものを「外的」に制定するだけではなく、法制度を「倫理」として各個人の「内的」な意識レベルまでに浸透させるようになってきたと説明する。 http://egg.5ch.net/test/read.cgi/hosp/1624972612/16
17: 卵の名無しさん [sage] 2021/06/29(火) 22:25:16 ID:t0PhsI8N 生-権力 フランスのポストモダンの哲学者フーコーの用語。 近代以前の権力は、ルールに従わなければ殺す(従うならば放っておく)というものだったが、 近代の権力は、人々の生にむしろ積極的に介入しそれを管理し方向付けようとする。 こうした特徴をもつ近代の権力を「生-権力」とフーコーは呼ぶ。 こうしたフーコーの権力論は、近代になって個々人の自由が広く認められるようになったという一般的なイメージを覆し、 近代を個々人を巧妙に支配管理する権力技術が発達してきた時代として捉えるものだった。 http://egg.5ch.net/test/read.cgi/hosp/1624972612/17
18: 卵の名無しさん [sage] 2021/06/29(火) 22:25:31 ID:t0PhsI8N ■思想と政治体制について 精神医学と収容所について 立命館大学生存学研究センター 天田 城介 周縁的な人間の監視=矯正へ 「金持ちと貧乏人の断絶」から「民衆と周縁的な人間の断絶」への書き換え。18 世紀における資本主義体制の成立とともに、経済的規律が課 せられ、民衆は労働に従事し、多少なりとも財を蓄積するようになると、非合法的行為を容認できなくなっていくと同時に、精神医学・警察・ 司法・刑法体系などが結合した統治システムによって「周縁的な人間の監視=矯正」が遂行されていく。こうして周縁的な人間たちが監獄や 精神病院といった施設へと分離的=差別的に収容されるようになると、かつては歓迎されることさえあった周縁的な人間は民衆と断絶させられ、 また他の下層民とも切り離されていく――プロレタリアートとプロレタリアート化されていない周縁的存在を分け隔てる分断――。そして、 こうした統治システムのもと「周縁的な人間の監視=矯正」が実効されるだけではなく、むしろその圧倒的な効果は、周縁的な人間と切り離さ れた民衆に対する監視=矯正となって現れてくるのである。したがって、「周縁的な人間」を作り出すことは「周縁的な人間の監視=矯正」よ りもむしろ「民衆の保護と監視=矯正」の効果を生み出すのだ。 こうした権力システムのもと民衆は「社会階層」のイデオロギーを発展させた。犯罪者という「周縁的な人間」を切り離し、彼/女らに敵意 ・憎悪を向けるようになった。警察による保護さえ求めるようになった。そのことで、民衆は警察から容易に監視されることになった。犯罪者 に対して厳罰を求めるようになった。「人種差別反対をしながらも犯罪者には極めて冷酷な対応をする」(Foucault 1994d=1999: 249)ように なった。その社会的帰結として、権力はいとも簡単に民衆を統制することになったのだ8)。 http://egg.5ch.net/test/read.cgi/hosp/1624972612/18
19: 卵の名無しさん [sage] 2021/06/29(火) 22:25:46 ID:t0PhsI8N 社会全体がひとつの精神病院となり、私たちはそこに収容された囚人となる。そこでは精神医学という専門家の知識が権力をもつことになる。 今回とりあげる、ミッシェル・フーコー(Michel Foucault 1926-84)の描く近代とは、まさにこうした、知識によって管理された、一種の収容所のごとき世界です。 近代となって逸脱者への対応はより巧妙になりました。逸脱した者は排除されるのでなく、おもてむき、社会へ回復することになります。 社会は逸脱者を自己のうちに回収することで、逸脱者を無害なものとします。社会は逸脱者を「更生」・「治療」と称しつつ自分の管理下に集めるのです。 社会はもはや逸脱者から脅かされることもなければ、そこから学ぶこともありません。こうして社会にとって危険な逸脱者(犯罪者と精神病患者など)は、 排除されるのではなく、社会の内に、しかしその周辺に集められ、包み込まれて無害なものとされるのです。社会はその外部をみずからの内にとりこんだのです。 刑法は犯罪者をその違法行為においてとらえますが、監獄の技術は囚人をその生活態度においてとらえます。 前者では違法性が問題とされますが、後者ではその非行生が問題とされます。刑法の建前では、監獄は犯罪者を更正させることになっています。 しかし実際には監獄はその特殊な環境によってむしろ「非行者」を生み出し、あらゆる違法行為の可能性を持つ者として社会に循環させているのです。 それゆえ、監獄制度の真の意義は、違法行為を減らし、抑制することではなく、 社会の転覆や不安につながるような犯罪の可能性を「非行性」として管理し安全なものとして閉じ込めることにあるのです。 [それはちょうど、精神病院のありかたに似ています。精神病院はたてまえとしては精神病患者の治療をするためにあります。 しかし患者を閉じ込めることでかえって患者の社会への不適合を生み出してしまいます。 実際には精神病院は、社会不安を引き起こす者たちの閉じ込めと管理をしているというべきでしょう]。 https://shakaigaku.exblog.jp/21000984/ http://archive.is/GEFMi http://egg.5ch.net/test/read.cgi/hosp/1624972612/19
20: 卵の名無しさん [sage] 2021/06/29(火) 22:26:03 ID:t0PhsI8N フーコー権力論における4つの諸相 1.言説編制体を経由した権力の行使:社会の権力行使のタイプ 2.系譜学的アプローチを使った「権力の意味理解」への反省:権力への系譜学的探究 3.権力行使を微視的に観察するミクロロジーという方法:権力行使の分析法 4.身体を規格・規範化を通して「従順な身体」へと構成すること:身体を統治する 「権力というものを、否定と拒否と排除のメカニズムの総体だと考えてはならないことを想起する必要があります。権力は実際に、作りだす力をもつ ものなのです」(フーコー2008[June, 1975]:30) 医療における権力論の研究は、ミッシェル・フーコー(Michel Foucault, 1926-1984)の、生権力や統治性の 議論が登場して根本的な変化を 遂げました。 それまで、医療について考えられてきた権力像は、患者をコントロールするむき出しの力、患者をモルモットにす る服従を強制する権力というのが定番でした。 今でも、このような権力論の図式にのっかって、「医者は権力を行使するからリベラルでなければならない」 「医 師の権力は神聖」(→医療聖職論)ということを主張する主に高齢者を中心としたお目出度いオールド・リベラストの方々がおられます。 ところが、権力の作用の多様なあり方や、統治性(governmentality)に かんする フーコーの議論に触れたものは、 権力というものは、我々が考えるほど(1)狭い範囲の出来事ではない、(2)容易に統御されるものではない、しかし、かと 言って (3)人間をがんじがらめにする絶望的なものでもない、という認識に到達しつつあります。 「真理には権力が伴う」「私たちは誰もが、権力のターゲットであるだけでなく、権力を結ぶ結節点(リレー)であり、ここからある種の権力が発揮されるからです」(フーコー2008[June, 1975] https://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/000316helpoli.html http://egg.5ch.net/test/read.cgi/hosp/1624972612/20
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