[過去ログ] 法政大学について語ろう 【Part.1】 (991レス)
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221: 2018/03/17(土)20:40 ID:LV4xkePm(1/5) AAS
英吉利法律法律学校の菊池武夫氏と東京佛学校の栗塚省吾氏とは、
共に司法大臣秘書官たり、且つ
東京佛学校は従来普通学科のみなりしに、
補助金の議あるに及びて、俄かに法律学科を設けたる等の事あり、
物議躁然として起こり、山田伯と我が校との間、亦、
多少の誤解を生じ推薦の事、為に遷延を来したりしなり。
而して是れ亦些かも根拠なき行為にして、山田伯固より異意なく、
我が校亦固より此の如き事実に噛む所なく、光風明月、
胸襟漸くにして相徹し、茲に初志に依りて推薦を
実行したりしなり。
省1
222: 2018/03/17(土)20:41 ID:LV4xkePm(2/5) AAS
法政大学八十年史によると、「20年4月仏学会はすみやかに
法学講座を開くことを条件に司法省から毎年
年額5,000円の補助金をもらうことになった」。
この司法省補助金は23年まで続いたが、当時もっぱら
英語で英法を教えた英吉利法律学校(中央大学)も
同額の補助金を得た。しかし23年の帝国議会が
この費用を削ってしまったので止んだ。
223: 2018/03/17(土)20:42 ID:LV4xkePm(3/5) AAS
さて、英吉利法律学校は創立2年目の明治20年に
^有能な人材を養成^している
事が認められ、司法省から年間5,000円の補助金を受けるようになる。
社会的評価も高まり、明治21年には生徒数も4786名にまで増えたので、
その年12月新築校舎を落成させる。
赤レンガ造りのハイカラなもので、創立者の岡村輝彦や土方寧が
留学したミッドル・テンプルを真似たものであったらしい。
この新校舎建設に際して、清水組との間で取り交わされた請負約定書は、
英国方式に乗っ取ったわが国で初めての^正式契約書^であった。
参考資料 中央大学ー実学の伝統から翔び立つ
省1
224: 2018/03/17(土)20:43 ID:LV4xkePm(4/5) AAS
明治22年、注目すべきに校舎の新設と移転がある。
和仏法律学校発足当時の明治22年の生徒数は約500人内外で、
すでに神田柳原の校舎では狭くなったので、同年10月の理事員会は
新校舎の建設を議決した。その結果、九段坂上の富士見町6丁目に
敷地315坪が購入され、23年7月に木造255坪の新校舎が立った。
この年の卒業式は竣工式もかねてこの新校舎で行われた。規模も外観も設備も
決して特に人目を惹くようなものではなかったらしい。
しかし、この校舎新築によって学校の環境がいわば雑踏の神田から高爽の
九段坂上に移されたことは、法政の歴史に一つの期を画するだけの
意義を持ったといえよう。その校舎の建築費などどうして賄われたか、
省1
226: 2018/03/17(土)20:56 ID:LV4xkePm(5/5) AAS
「中央大学七十年史」によると、英吉利法律学校も
そのころ21年12月神田錦町の旧校舎跡に総額26,000余円を投じて
校舎を新築している。これはイギリスのミドル・テンプルに模した
凸字型二層の大煉瓦建築であったらしいが、二五年の大火で焼けた。
それはとにかく、この建設費の一部には当時この学校が司法省から
もらっていた5,000円も充てられたらしいと書かれている。
和仏法律学校のばあいもあるいはそういうことがあったかもしれない。
【 法政大学八十年史】174ページ
※この4年間にわたって司法省から下された20,000円もの大金は
中央と法政には限りない幸運を齎したのではないですかね。
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