[過去ログ] 法政大学について語ろう 【Part.2】 (903レス)
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862: 2020/03/03(火)20:17 ID:chA2rCtU(42/42) AAS
「青年日本号」訪欧飛行関係資料
外部リンク[html]:www.hosei.ac.jp
「1931(昭和6)年5月29日、完成したばかりの東京飛行場(現・羽田空港)から小さな複葉プロペラ機「青年日本号」がイタリア・ローマを目指して飛び立ちました。
操縦かんを握るのは法政大学航空研究会(後の航空部)所属の栗村盛孝2等飛行士(経済学部2年)と付添教官の熊川良太郎1等飛行士(朝日新聞社)。
初の学生による訪欧飛行とあって話題を呼び、当時の新聞報道によれば、空港には数万の群衆が集まり、空には陸海軍の飛行編隊、新聞社や航空会社の航空機など30余機が舞い、
「青年日本号」を見送ったといいます。
この2年前、法文学部3年の中野勝義は、自家用飛行機と2等飛行士の免許を持っていた同窓の前田岩夫らとともに、日本の大学で初めての航空研究会を設立しました。
このとき会長を引き受けたのが内田百?(内田栄造教授)で、学生の訪欧旅行を最初に計画したのは内田会長でした。
朝日新聞社航空部の後援を得、飛行機は逓信省航空局の援助により「法政大学かはせみ号」「法政大学ひよどり号」の2機が提供されて活動がスタートしました。
中野・前田は翌年に卒業して、中野は朝日新聞社、前田は日本航空に入社。中野は同社の航空部に所属して訪欧飛行を陰で支えることになります。
・・・」
上記、本学OB中野勝義は後に全日本空輸(ANA)創立の中心的人物となり、
上記、内田百?(教授)と法政大学生とのふれ合いを描いた映画が黒澤明の遺作『まあだだよ』である。
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