[過去ログ] 明石市★35 (1002レス)
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105: 2023/06/29(木)14:10 ID:KuHfL6AJ(1) AAS
マンモスセンターで調べたらこんなのが出てきた
のんきやもあの辺にあったのか
ダイエーショックで負けた感じか

「二十六万都市明石の“副都心”」と位置づけられていた国鉄西明石駅周辺の場合,昭和50年代末において小売市場を中心とする小売商業の状況は以下の通りであった。
同駅周辺は,駅の南側と北側で全く様相を異にしていた。
すなわち南側が旧川崎航空機の飛行場跡へ自然発生的に生まれた「密集商店街」であったのに対し,北側は市の土地区画整理事業によって幅広の道路と駅前広場を備え整然とした町並みを有していた。
第二次大戦後,民間業者が駅南の飛行場跡地を宅地として開発し,昭和30年代の終わりごろから商店が建ち並び始め,40年代後半には当時の西明石商店街の原型がほぼ出来上がった。
それは駅の南口から西明石マンモスセンター(小売市場,昭和40年開設)やスーパー・ダイエー(昭和44年開19店)が建ち並ぶ南北の一番街,一番街に並行して延びる西明石センター街,そしてこれらと交差して東西に延びる三番街ならびに五番街から成り,これらの通りを中心におよそ250の店舗がひしめいていた。
だが「ここ五,六年,人通りは増えず,売り上げは横ばいか,減少気味」と,当時同地区の商店主らは危機感を訴えていた。
危機の先駆けは駅前にダイエーが開店したことで,その結果市内の小売市場の中でも好業績を誇っていた西明石マンモスセンターがまず大きな打撃を受けた。
この「ダイエーショック」が一段落した後,昭和53年駅の北側に灘神戸生協が開店したのに続き,新幹線の高架下に西明石ショッピングプラザやフードセンターが相次ぎ開設され,駅を挟んで商店の「南北戦争」が始まり,競争は激化した。
その結果,競争が激化する以前には「貴先,藤が丘,北は西明石北町」までの約1万世帯を商圏としていた西明石商店街顧客の2~3割は駅北側の住民が占めていたものが,昭和59年にはこれが1割程度にまで減少したという。

ダイエー進出により地元商店の受けた打撃は深刻なものであった。
そのため西明石店開設予定地のすぐ南で営業していた小売市場・西明石マンモスセンター(50 店舗),中小スーパー・のんきや,そして西明石南商店会などでは,ダイエー西明石店が開店した後,これに対抗するため抽選会を計画し,また「シール販売」に魅力を持たせるなど防戦に躍起となった。
西明石マンモスセンターでは数千枚の折り込み広告を出すとともに,9月19日には5割引の販売を断行した。
「物価高にあえぐ」主婦たちは「ウドン玉十五円が十円,牛肉のミンチ百グラム百円が七十円,キュウリ一本十円が五円,大根半本が五円」というこの「大安売り」を歓迎し,「押すな押すなの大盛況」となった。
「どっさり買い物をして帰る」ある主婦(30)は「私ら主婦は安い方へ買い物に行きます。
ダイエーができると便利になりますが,全部ダイエーで買うということもないでしょう」と述べ,ダイエー進出による競争の激化を歓迎する意向を示した。
一方西明石マンモスセンターの辻本商業協同組合長は「大資本を相手にケンカをしても始まらない。共存共栄の道をみつけて西明石一帯を発展させなくては・・・。個人商店の魅力を発揮できるようなんとか考えます。きょうの廉売は四年間マンモスセンターを利用して下さったお客様への恩返し」と,ダイエーを迎え打つ抱負を語った。
一般に消費者や競合しない品目を扱う商店の経営者はダイエー進出に好意的で,大手資本の参入によって「これまで独善的な経営をしていた商店が改革され,商店側も共同仕入れなどの流通方法の改善,店舗大型化,専門店化など活発に動き出すのではないか」との期待が高まっていた。
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