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朝鮮人が嫌いな人いますか?★10 (1002レス)
朝鮮人が嫌いな人いますか?★10 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/korea/1661252257/
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170: マンセー名無しさん [sage] 2022/09/20(火) 08:58:08.07 ID:oNOYk5Rc この悲劇が真っ先に起きたのはカリブ海のエスパニョラ島(現ハイチ・ドミニカ)であった。 この島には1492年にコロンブスが初めて到着して以来、スペイン人が定住して20年あまりの間、先住民たちを酷使して砂金の採取を行った。 一種のゴールドラッシュが起こり、1509年にはスペイン人の数は9千人あまりに増えていた。 彼らが先住民に疫病を感染させた。 彼らのやり方は乱暴で、もともとあまり生産性の高くない農村から、無理やり食料を調達し、農民を飢餓状態の栄養不足に陥れておきながら、 しかも彼らを駆り出して、砂金採取の過酷な労働に従事させた。 そして疫病に対する抵抗力がない住民たちは病気をうつされ、どんどん死に絶えて事実上絶滅状態に近づいた。 もともとエスパニョラ島では、スペイン人侵入以前は数百万人の人口をもつアラワク族が、 コヌスと呼ばれる焼畑農法によって森林を開いて農地にし、 マニオク、ジャガイモ、トウモロコシ、豆などを耕作していた。 しかしスペイン人が金の採掘のため彼らを駆り出し、また右に述べたような人口の激減が起こったため、コヌスによる農地は大部分荒廃し、 島全体が雑草と樹木に覆われてしまったのである。 そこでスペイン人たちは周りの島々から奴隷狩りによって原住民を集めて労働力としたが、結局は同じことが起こった。 エスパニョラ島に近いプエルトリコ島、キューバ島、ジャマイカ島、小アンティル諸島、 バハマ諸島といった島々には、ほとんど原住民がいなくなってしまった。 こうした事態に対処するために、これらの島々にはアフリカから黒人奴隷が連れてこられ、労働力として使役された。 やがてスペイン人たちはパナマ地方からユカタン半島方面に進出し、1521年にはコルテスがアステカ王国を征服し、さらに1533年には、 ペルー一帯に栄華を誇っていたインカ帝国をピサロが滅亡させた。 このようなスペイン人の進出に伴って、疫病の流行は猛威を振るった。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/korea/1661252257/170
171: マンセー名無しさん [sage] 2022/09/20(火) 08:58:17.40 ID:oNOYk5Rc ただしペルーの場合、海岸と高地では大きな差があって、高地におけるほうが、 スペイン人との接触がない集落が多かったので、人口減少はずっと低かった。 ところが海岸地方においては、人口数万の大きな集落が、 16世紀の後半には100人か200人程度の人口に激減してしまったところがざらにあった。 このような人口減少は17世紀になっても続いたが、17世紀の中頃になると、原住民が疫病に対する抵抗力をもつようになったため、 ようやく減少が止まり、増加に転じ始めた。 ポルトガル領だったブラジルでは、先住民が死に絶えたり、逃亡したりしたため、 その穴埋めに、旧世界の病気に抵抗力のあるアフリカ人が導入されたので、 事情はやや異なったが、それでも1562年から65年にかけて天然痘が大流行して、多くの住民が命を落とした。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/korea/1661252257/171
172: マンセー名無しさん [sage] 2022/09/20(火) 09:15:51.82 ID:oNOYk5Rc 《地獄絵さながらの奴隷船》 ヨーロッパ白人世界においては、古代から奴隷という社会階層が存在していた。 人間を人間扱いしないことを合法と定めた制度がまかり通っていたのである。 日本には昔、貧困にあえぐ農村から苦境に身を沈める娘たちを求めて、「人買い」や「人さらい」はいたが、奴隷はいなかった。 廓に身を置く女たちは、悲惨な思いを舐めていたとしても、彼女らを縛っていたのは年季契約であり、決して奴隷ではなかった。 制度としての奴隷、つまり合法的な奴隷制度は存在しなかった。 これは日本と西洋との大きな違いである。 ヨーロッパの場合、隣接国とは陸続きだったので、頻繁に戦争が起こり、 負けた国の人間は奴隷にされるという不文律が古代より近世まで厳然と存在してきた。 (前章に見たローマ帝国やオスマン帝国はむしろ例外だった)この点で、日本とは大きく事情が異なっていたのである。 奴隷というのは、人間扱いされない人間のことである。 人間を人間扱いせず、生殺与奪の権限を奪い、商品のように売買する。 常識では考えられぬことであり、通常は犯罪となる。 ところが西洋では長い間、これを合法とし、多くの人たちが奴隷制度に積極的に加担してきた。 しかも奴隷は西洋人が仲間内で使ったばかりでなく、重要な輸出商品となっていた。 西洋がアラブ世界に輸出した白人奴隷の存在は、世界史の著書からは跡形もなく削除されている。 しかし実際には、奴隷はヨーロッパのオリエント向けの主要な輸出商品の一つだった。 なぜなら、ヨーロッパは奴隷以外に商品価値のあるものはろくになかったからである。 古い文化を誇る中近東やアジアに比べて、ヨーロッパは嘗て荒涼とした貧しい土地であった。 如何にヨーロッパが貧しかったかは、オリエントからヨーロッパに流入してきた商品とヨーロッパからの輸出商品を比較すれば一目瞭然である。 東方からは砂糖や胡椒、クローブ、シナモン、ナツメグといった香辛料を筆頭に、 樟脳、サフラン、タンニンなどの薬品、鉱物性の油や揮発油などが輸入された。 胡椒は一時期、貨幣の役目をしていたこともあったほどである。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/korea/1661252257/172
173: マンセー名無しさん [sage] 2022/09/20(火) 09:17:12.29 ID:oNOYk5Rc 繊維製品では生糸と麻で、高級絹織物やビロード、金糸、銀糸も輸入され、さらにアジアを原産地とする宝石、珊瑚、真珠、陶磁器ももたらされた。 これに対して、ヨーロッパが輸出できた商品はささやかで、 羊毛、皮革、蜜蝋(蜂蜜の巣を加熱、圧搾して採集した蝋で、蝋燭や光沢材などに利用する)といった程度の物しかなかった。 従ってヨーロッパの貿易は慢性的な赤字となり、貿易業者として幅を利かせていたアラブ商人の懐に大量の金・銀が消えていった。 しかし、ヨーロッパの上流階級の人たちのオリエント商品への渇望は、 飽くことを知らなかったので、何世紀もの間、オリエントへの輸出のために、ヨーロッパ人奴隷が用意された。 「奴隷(スレイブ)」は語源的に「スラブ人」と同じである。 ポーランドからボルガ河畔に沿って、ウラル山脈に至るロシアの平原で、ヨーロッパの奴隷狩りたちによって、スラブ人の男女が捕らえられた。 この事実が世界史の本から消え去り、ウヤムヤにできた理由は、ヨーロッパの白人奴隷が、アラブ人やペルシャ人と混血すると薄まって、 二世代も経てばほとんど分からなくなってしまったからであろう。 その点、アフリカの黒人は、混血してもその特徴が長く残るし、あまりにも違いがはっきりしていたため、白人たちが躊躇して混血の勢いも鈍く、 長く奴隷として存在し続けたものと推察される。 白人たちがアフリカの黒人を奴隷として連れ去り、まるで消耗品であるかのように、労働力として過酷な扱いをした状況は、世界各地で見られたが、 とりわけ南北アメリカ大陸では、黒人奴隷がおびただしい数に及んだ。 その仲介役としては、奴隷商人が暗躍した。 スペインとポルトガルの中南米進出以降、当初は原住民であるインディオを労働力として用いたが、インディオの人口が急速に減少したため、 16世紀に入ると黒人奴隷の導入が開始されたのである。 やがて17世紀になると、カリブ海の島嶼を中心にオランダやイギリス、フランスの進出も目覚ましくなり、 17世紀後半からカリブ海の砂糖生産が急速に発展したのに伴い、黒人奴隷の導入も急増した。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/korea/1661252257/173
174: マンセー名無しさん [sage] 2022/09/20(火) 09:18:53.23 ID:oNOYk5Rc どのくらいの数の黒人が連れてこられたのであろうか。 イギリスのジェイムズ・ウィリアムスンの試算では、1645年、バルバドスには1万1200人の白人小農と5680人の黒人奴隷がいたが、 1667年になると、745人の大農園主対8万2023人の奴隷に変化した。 この22年間に、小農による耕作が消滅し、大土地所有による大規模な砂糖きび栽培が多くの黒人奴隷を使って始められたのである。 18世紀にかけて、バルバドスの他ジャマイカやセント・キッツ島など イギリスが進出したカリブ海の島々に送られた黒人奴隷の数は、200万人以上に及ぶものと推測される。 16~19世紀にアメリカ大陸に運ばれたアフリカ奴隷の総数は、ブラジル向けが365万人、スペイン領南米・カリブ海が155万人、 フランス領カリブ海が160万人、オランダ領カリブ海が50万人、北米向けが40万人などと推測される (増田義郎著『物語ラテン・アメリカの歴史』に所載のPhilip Curtinによる) 初期の段階では主にオランダ船が奴隷貿易に携わっていたが、やがてイギリスが乗り出してきて、 先ずはブリストルとロンドンが拠点となり、その後はリヴァプールに拠点が移り、奴隷貿易をほとんど独占するようになった。 奴隷船による黒人奴隷の運搬は、残酷物語を得に描いたような酷いものであった。 奴隷は商品のように扱われ、航海中に20~25%、時として半数の奴隷が死亡した。 セネガルからニジェール河口 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ こうして地獄絵さながらの奴隷船をなんとか生き延びて仕向地に到着した奴隷たちは、上陸すると競売にかけられ、持ち主が決まると焼印を押された。 そして彼らは毎日、砂糖きび農園に追い立てられて、長時間の労働を強いられた。 良い主人のもとに売られていった奴隷はまだしも幸いだった。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/korea/1661252257/174
175: マンセー名無しさん [sage] 2022/09/20(火) 09:19:16.22 ID:oNOYk5Rc 奴隷は財産であるから、農園主たちは彼らは長持ちさせて、できるだけ使おうとしたので、ある程度の待遇を与え、それなりの面倒を見た。 悲惨だったのは、不在地主の農園の奴隷たちであった。 不在地主は本国に住み、自分の農園を現地の弁護士や農園主に任せた。 通常、彼らは生産物による収入の6%を報酬として受けたが、実務は監督者を雇って、これにやらせたので、 雇われた監督者は持ち主の財産と収益をくすねることに専念し、自分の所有物ではない奴隷たちを牛馬の如く酷使した。 白人たちは奴隷の反抗や蜂起を恐れていたので、ちょっとした過失や不服従も厳しく罰せられた。 バルバドスでは、1シリング以上の盗みは死罪と決まっていた。 1736年にアンティグア島で白人謀殺の企みが発覚したとき、6人の奴隷が絞首刑、5人が車裂き、77人が火刑に処せられた。 イギリス政府がようやく奴隷制度を廃止したのは1833年のことで、この時には2千万ポンドもの賠償金が支払われた。 奴隷制度廃止で不利益を蒙ったど奴隷のオーナーや奴隷商人たちが手厚い賠償金を受け取ったのである。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/korea/1661252257/175
176: マンセー名無しさん [sage] 2022/09/20(火) 09:21:15.70 ID:oNOYk5Rc 《独立へのプロセス》 19世紀に入ると、中南米のスペイン・ポルトガル領の各植民地は次々に独立した。 スペイン領アメリカの各地は、キューバとプエルトリコを除いて、すべて1828年までに独立した。 ポルトガル領ブラジルの場合は、1822年にブラジル帝国として独立し、1889年に共和制に移行した。 しかし独立運動を担ったのは原住民ではなく、多くの場合、現地で生まれ育った白人たちであった。 現地生まれのスペイン人はクリオーヨと呼ばれ、彼らは血筋としては本国人と変わりない白人でありながら、 本国生まれとは差別され、本国からの渡来人の下位に置かれるという状態が長年にわたり続けられてきた。 中南米の革命運動は、本質的にクリオーヨの本国に対する反逆だったのである。 クリオーヨのイニシアチブによって始まった運動も、それが社会革命的な色彩を帯びて原住民の処遇に目を向けるようになると、 直ちにクリオーヨの大部分はこれから背を向け、本国政府の植民地統治機構を形成する保守勢力と手を結んで、 逆に運動を制圧する側に回ることが多かった。 ここでも白人優越意識が強く働いたのである。 このような現象は、ナポレオン侵攻及びスペインでの政治委員会の設立が上ペルーに伝えられると、チャルカス(現スクレ)の アウディエンシア(注)は、本国の政治委員会に不信の念を表明し、今後はナポレオンによって退位させられた王が、 退位前に任命したアウディエンシアが最高の権威をもって統治する旨の宣言を行った。 ところがこれは上ペルーのクリオーヨたちの反発を買い、1809年10月、ラパス市において、 一群のクリオーヨたちが本国生まれスペイン人の総督と司教を逮捕して政治委員会をつくり、 その議長にメスティソ(白人とインディオとの混血)のペドロ・ドミンゴ・ムリリョが就任した。 (注)アウディエンシアは植民地時代、スペイン領アメリカの主な都市に置かれた統治機関。 副王を頂点とする植民地統治機構の中で、主要都市に置かれたアウディエンシアは、 国王から任命された数名のオイドールと呼ばれる議員によって構成され、首都では、副王がその議長になった。 行政だけでなく司法機能もそなえ、一定範囲の立法権ももっていた。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/korea/1661252257/176
177: マンセー名無しさん [sage] 2022/09/20(火) 09:22:12.45 ID:oNOYk5Rc そこでクリオーヨたちが発表した独立宣言案には、もはや本国でナポレオンに退位させられた フェルナンド7世への忠誠を誓うことなど問題外とし、今こそスペインの軛から脱して独立することを唱え、 また民衆の代表者による議会をつくり、その中には「インディオたちにも議席を与えてその権利を保障すべきである」という、 当時としては極めて革命的な内容を盛り込んで宣言案であった。 一般のクリオーヨの目から見れば、たいへん危険な思想を孕んだこの革命運動は疑いの目で見られたので、 その支持を得ることができず、結局はペルーのリマから送られてきた軍隊によって粉砕されてしまったのである。 この例に見られるように、独立に向けた運動に携わったのは常にクリオーヨたちであった。 従って独立達成後、政治の表舞台に立ったのはクリオーヨの大土地所有者や大商人たちであり、 追い出された本国生まれのスペイン人に代わって、彼らが政治の舵取りを握った。 ところがそこではメスティソや原住民はすっかり置き去りにされてしまう形となり、あくまで白人主導で事が進められた。 つまり常に白人優越意識が強く働く結末になっていたのである。 19世紀に、中南米各国の政治で幅を利かせるようになったのはカウディーヨたちであった。 カウディーヨとは、配下の者たちとの個人的関係で結ばれ、家父長的な権威をもって政治を支配した独裁者であり、 その多くは私的な軍事力を備えていた。 彼らは腕っぷしが強く、頭が切れ、同時にカリスマ性のある人物でなければならず、 ある意味では「清水次郎長」のような任侠道の親分に似ているようにも思えるが、モラルの面では全く異なる存在であった。 その出自はまちまちで、中にはメスティソの者もいたが、多くの場合、 彼らが代表していたのは地主や大商人などの裕福なクリオーヨたちの利益であった。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/korea/1661252257/177
178: マンセー名無しさん [sage] 2022/09/20(火) 09:22:38.39 ID:oNOYk5Rc 当時の中南米各国はまだ都市化が進んでおらず、リマやブエノスアイレスのような首都でもたかだか数万人程度の人口に過ぎなかったので、 このような都市を武力で制圧して、地方の小ボスを手なずけてしまえば、勝手放題の政治を行うことはたやすかった。 19世紀を通じて、中南米の政変とはカウディーヨの政権を別のカウディーヨが私兵を使って転覆させて乗っ取ることを意味した。 これが革命と称される茶番の実態だったのである。 19世紀前半の典型的なカウディーヨは、アルゼンチンのマヌエル・デ・ロサスであった。 彼はまずブエノスアイレスを押さえ、地方のカウディーヨを手なずけて盟約を結び、反抗者は残忍なやり方で徹底的に弾圧し、 最終的にはアルゼンチンの独裁者となって1852年まで君臨した。 その過程で、彼は白人植民者の進出を後押しするために現地人の狩猟民を「掃討」する作戦を指揮し、 原住民の命などには全く価値も認めず、手当たり次第に虐殺するのが常であった。 1833年の作戦では6千人の原住民を殺した。 たまたまビーグル号に乗ってパタゴニア沖を航海していた若き日のチャールズ・ダーウィンは、上陸した時にロサスの「掃討」の有様を目撃し、 「こんなならず者の盗賊同然の軍隊は前代未聞である」と驚いている。 発端はクリオーヨの運動として発足しながらも、次第に社会下層のインディオ農民やメスティソを吸収して、 本国生まれであろうとクリオーヨであるとを問わず、すべての白人を敵とする 革命運動的な性格をもったケースも稀にあったが、これはあくまでも例外でしかなかった。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/korea/1661252257/178
179: マンセー名無しさん [sage] 2022/09/20(火) 09:23:25.40 ID:oNOYk5Rc ■植民地残酷物語 白人優越意識を解き明かす■(著)山口洋一 カナリアコミュニケーションズ2015年7月31日発売 ◇(2)イギリス領インド帝国◇ イギリスがそのお家芸とも言える「分割統治」(divide and rule)の手法を駆使して、 狡猾な統治を行った典型的なケースとして知られるインドにおいては、どのような植民地経営が行われたのであろうか。 イギリスが産業革命に成功し、巨大な植民地帝国を築き上げ、 繁栄を誇り得たのも、実はイギリスがインドの富を奪い、 インドの民衆を極貧に陥れ、彼らを犠牲にして初めて可能となったのである。 現にイギリス東インド会社はインドの富を暴力的に収奪し、イギリス産業革命の物質的基盤を構築していった。 インドが抱えてきた貧困をはじめとする困難な諸問題は、2世紀に及んだイギリスの植民地支配と収奪の結果生じ、増幅されてきた。 インドの経済は荒廃し、民衆の生活は悪化の一途を辿った。 1770年に発生したベンガルの大飢饉では、1千万人もの餓死者が出た。 その後このように多くの餓死者を出した飢饉は頻発するようになり、19世紀前半には74回の飢饉で150万人が餓死し、 19世紀後半になると244回(内184回は最後の25年間に集中)の飢饉で2850万人もの餓死者を出している。 イギリスの植民地支配による収奪が進行するにつれて、餓死者は急増しており、この趨勢は20世紀に入っても続いた。 独立後の初代首相に就任したネールは、1943年に起きたベンガルの大飢饉について、次のように記している。 「(この大飢饉は)幾世代にもわたったイギリス支配のあげくにおける貧しさと醜さとそして人間的堕落の全貌をさらけ出してみせた。 それがインドにおけるイギリス支配の行き着いた頂点であり、結実であった」 (ジャワハルラール・ネール著『インドの発見』岩波書店」) そこで、まずイギリスがこの国を植民地にした過程から振り返ってみたい。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/korea/1661252257/179
180: マンセー名無しさん [sage] 2022/09/20(火) 09:24:22.33 ID:oNOYk5Rc 《植民地化推進の経緯》 イギリスのインド進出は、1600年にエリザベス女王の勅許状を下賜された東インド会社が1612年に西海岸のスラートに 最初の商館を開設したことをもって始まった。 それ以降、会社はどんどんとその地盤を拡大強化して行った。 やがてこの会社は、会社とはいえ堅固な要塞を築き、近代的な兵器を備え、 多数のインド人傭兵を擁する強大な貿易軍団となっていった。 イギリスが彼ら一流の「分割統治」の手法を駆使して、狡猾に植民地支配を進めるやり方は、 植民地化にとりかかる当初の段階から如何なく発揮された。 イギリスがインドに触手を伸ばそうとした頃のこの国はムガール帝国末期のことであった。 この帝国はインドの西からやってきて、16世紀前半に支配を確立したイスラム教を奉じる国家である。 「ムガール」とは「モンゴル」の転訛した呼び名であり、 その指導者はティムールの血筋を引くと自称していたが、実はトルコ系の征服王朝であった。 この帝国の繁栄は都市文化に最もよく表れており、その中心地はデリー (現在のニューデリーは古いデリーの東南にイギリスが開いた都市)であった。 帝国はここを中心にインドの広大な領域に支配を広げていったが、 各地方は旧来のマハラジャ(太守・藩王)やラジャ(小太守・小藩王)が支配しており、 これらの地方勢力の上に、ムガール帝国の威光を行きわたらせるというやり方の支配であった。 天皇の権威の下に、群雄割拠する領主が併存していた戦国時代の日本の様相と似ていたとも言えよう。 ところがイギリスが目をつけた時期はムガール帝国が最盛期を過ぎた時代であり、 地方勢力に対する王朝のグリップは徐々に弱まってきていた。 こうした状況に着目したイギリスは、地盤を強化してきた東インド会社を十二分に機能させ、 地方勢力を各個撃破して切り崩しを図りつつ支配力を広げていく手法を用いた。 まさにディヴァイド・アンド・ルールである。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/korea/1661252257/180
181: マンセー名無しさん [sage] 2022/09/20(火) 09:24:52.36 ID:oNOYk5Rc 設立当初の東インド会社は、東洋の物産をヨーロッパに輸入して利益を上げる商業活動からスタートした。 しかし、やがてそのための資金をインド自体で手に入れる方策を編み出した。 つまり会社が商業活動のみならず、政治的支配者としての主権をインドに持ち込み、 インド人から税金を取り立てることを始めたのである。 まさに東インド会社の商活動からイギリスの植民地統治に向けたプロセス初動への脱皮である。 その後イギリスとインドの関係を決定的に変える第一歩となったのは1757年のプラッシーの戦いであった。 もともとベンガルはムガール帝国の一州であったが、帝国末期には事実上地方権力として独立した存在となっていた。 かねてからベンガル地方への進出を狙っていた東インド会社は、 フランスの攻撃に備えるという名目で、カルカッタの要塞を強化しようとした。 これに異を唱えた太守は会社と衝突し、フランスに援助を求め、1757年6月23日にプラッシーの野にイギリス側と対峙した。 ここで干戈を交えたのがプラッシーの戦いであり、太守軍は兵力で圧倒的に優っていたものの、 イギリスが仕掛けた奸策が功を奏したこともあり、あっけなく敗退してしまった。 この時から会社は商人としての装いをかなぐり捨てて、 政治・軍事権力によってインドを植民地化する地歩を固めはじめたのである。 会社が多数のインド人兵士を傭兵として採用し始めたのもこの時である。 こうして地方政権を各個撃破し支配を拡大する手立てには、軍事力を動員した強制手段ばかりでなく、 非暴力ではあるが権謀術策を弄しての陰険なやり方をも駆使した。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/korea/1661252257/181
182: マンセー名無しさん [sage] 2022/09/20(火) 09:25:27.68 ID:oNOYk5Rc 地主階級には法外な税を課して、彼らの多くを支払不能にさせ、土地を競売に付して彼らを破滅に陥れた。 また「失権政策」と称して、太守に嫡出子のない場合には養子が後継者になることを認めず、 その領地を東インド会社が合併するという理不尽な手段もとられた。 ムガール皇帝と東インド会社との関係の推移にも、イギリス流の悪巧みが見られた。 プラッシーの戦いでの勝利後、ベンガル統治を始めた東インド会社には、 それまでベンガルの地方政権が持っていた微税権をムガール帝国から与えられた。 形の上では、東インド会社はムガール皇帝の臣下となり、事実上はベンガル州の支配者となった。 つまり会社は正面切って皇帝に戦いを挑んだのではなく、 いわば事実上の統治を皇帝から認められたに過ぎないという体裁をとったのである。 本来イギリス国王の臣下である東インド会社にとって、これは当初における全くの便法に過ぎなかった。 やがてイギリスの支配が強化され、確立して行くにつれて、この体裁はかなぐり捨て去られた。 一切の統治行為について、皇帝の裁可を仰ぐことはなくなり、皇帝の存在は無視されるようになった。 会社は皇帝の下にあるのではなく、逆に会社が皇帝の保護者として、主人として振る舞うようになり、 さらには、皇帝は東インド会社から年金を受け取る傀儡に過ぎない状態に置かれてしまったのである。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/korea/1661252257/182
183: マンセー名無しさん [sage] 2022/09/20(火) 09:26:43.77 ID:oNOYk5Rc 《セポイの反乱の鎮圧により植民地化は完結》 ムガール帝国が完全に崩壊したのは、1857年に起きたセポイの反乱の時であった。 最後の皇帝バハドゥル・シャー二世は1837年、62歳の時に即位した。 その後在位20年を経過し、反乱が起こった時には82歳の高齢であった。 セポイとは東インド会社に雇われた傭兵のことである。 原語をより正確に表記するならば「シパーヒー」であるが、日本では一般に「セポイ」の反乱で知られているので、 ここでは「セポイ」という呼称を用いる。 彼らは東インド会社に雇われはじめてから、既に100年経っていた。 当時東インド会社の傭兵は大きく分けてベンガル軍、ボンベイ軍、マドラス軍の三軍から構成されていた。 インドの全軍合わせると23万8千人だったが、その内20万人が傭兵であり、ヨーロッパ人は僅か3万8千人に過ぎなかった。 プラッシーの戦い以降100年間、インドの征服に乗り出してきたイギリスの軍事的支柱は、インド人傭兵だったのである。 1857年5月10日、北西部の州のメラート基地で蜂起した2千人の傭兵の反乱は、翌11日にはデリーを占拠し、 ムガール皇帝を擁立することによって、その性格を一変させた。 蜂起の発端となったのは、配布された新しい薬包(火砲に使用する発射用火薬を装填量に分けて包んだもの) に牛脂と豚脂が塗ってあるという問題であった。 このようなものを使えば、ヒンズー教徒もイスラム教徒も穢される。 そうなればカーストを失い、家にも帰れなくなる。 こう心配した傭兵たちは新薬包に強い拒絶反応を示していた。 こうした事情があったので、反乱勃発直後の時点では、イギリス人は傭兵が宗教上の不満から暴動を起こしたに過ぎないと楽観していた。 ところがムガール皇帝擁立となると、事態は深刻になる。 82歳の老皇帝は、もはやその権力がとるに足らないのは周知の事実であったが、 インドを統一させるシンボルとしては、当時これに優る存在はなかった。 果たして5月末から6月初めにかけて、夥しい蜂起が北ないし中部インドの各地で勃発し、傭兵たちはデリー目指して進軍してきた。 イギリスの重税に喘いできた農民や中小の地主たちも傭兵の反乱に呼応して立ち上がった。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/korea/1661252257/183
184: マンセー名無しさん [sage] 2022/09/20(火) 09:27:18.01 ID:oNOYk5Rc 当初、簡単に鎮圧できると考えていたイギリス側は次第に反乱の大きさに驚き、事態の深刻さに気付いた。 彼らは反乱の鎮圧に手を焼き、多大の犠牲者を出したが、最新兵器で優るイギリス軍は援軍の加勢も得て、 なんとかこの事態に対処することができた。 9月19日、4月持ちこたえたデリーの抵抗は遂に終焉を迎え、デリーは落城した。 反乱に立ち上がった愛国者たちは一斉に捕らえられ、その多くは処刑された。 降伏した皇帝は裁判にかけられた上で、ラングーン(現ヤンゴン)に流刑となり、1862年、この流刑地で87歳の生涯を閉じた。 デリーの反乱は4か月しかもたなかったが、全国に広がった蜂起はこの後1年以上続き、 これを完全に終息させるには、イギリス軍はさらなる奮戦を強いられたのであった。 この反乱を契機にイギリスは、インド全土に覇権を確立し、イギリス領インド帝国として名実ともに植民地化した。 1858年には、イギリスは東インド会社を解散して、 インドをイギリス国王の直轄統治下に置き、その後支配の反動化を一層強めていった。 他方、インド人の側からすると、この大反乱は、それまで四分五裂のままイギリスに各個撃破されてきたインド各地の地方権力を、 統一したインドという国家にまとめあげる効果を及ぼしたと評することができる。 この意味においてセポイの反乱は民族独立運動の魁であったと見做すことができる。 大反乱は敗北したが、その後人々の民族自立への情熱は別の形態を求めて行くこととなった。 こうして1885年には国民会議派が産声を上げ、ムスリム同盟も1906年に誕生して、 民族運動は非暴力を基軸に展開して行くこととなったのである。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/korea/1661252257/184
185: マンセー名無しさん [sage] 2022/09/20(火) 09:27:54.49 ID:oNOYk5Rc 《自治への願望 》 1914年7月、第一次世界大戦の幕が切って落とされ、翌8月にイギリスも参戦した。 これに対して、インド各派の指導者は戦争に突入したイギリスとの協力を表明した。 この協力表明の思惑としては、イギリス帝国主義に協力することによって、 なんとかインドの自治の扉を開きたいという狙いにあったのは言うまでもない。 戦争協力は、まず兵力の動員という形をとり、大戦全期間を通じ、動員数は167万9千人に達した。 その内3分の2以上に当たる127万人は徴募による半ば強制的な動員であった。 そしてインド兵の犠牲者は15万人を上回る(戦死及び行方不明者7万2千人、負傷者7万9千人)膨大な数に及んだ。 これに加え、戦争の長期化に伴い、インドには莫大な軍需物資や資源の供出が求められ、財政的にも大きな負担を強いられた。 その結果、民衆は物価高騰、重税、低賃金に呻吟させられた。 しかしイギリスはインドの協力姿勢になんらの代償を与えないばかりか、逆に1915年にインド防衛法を制定し、 これによってインド人の政治活動の自由を制限した。 こうした事態に対処して、それまでイギリスの分割統治政策によって、分裂・抗争に陥っていた国民会議派とムスリム同盟が 1916年12月に大同団結して大会を開き、「自治政府実現」で共同歩調をとることを確認した。 この戦線統一によって、民族運動は一層はずみがつき、ロシアの社会主義革命の成功にも刺激されて、新しい盛り上がりを示した。 こうなるとイギリスはインドの協力を得るには、なんらかの手を打たざるを得なくなり、 1917年8月、インドに責任政府の漸進的実現による自治制度の導入を公約した。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/korea/1661252257/185
186: マンセー名無しさん [sage] 2022/09/20(火) 09:28:36.94 ID:oNOYk5Rc こうしてイギリスは、世界大戦のさ中、形式的であれインドに自治を約束し、民族運動の動きを一時、せきとめることに成功した。 しかしイギリスに協力するのは民族自決のための戦いであると考え、勝利の暁には恩恵を受けるものと信じていたインド人の期待は、 1918年の晩秋に大戦の砲火が止むと、完全に裏切られた。 イギリスは公約を果たすと称して、1919年にインド統治法を制定した。 この法律は立法・行政の面で、はじめて州に一定の権限を許容したが、 支配権に関わる事項はすべてイギリスが掌握し続けることとなっており、 一種の懐柔策に過ぎないまやかしの自治制度を内容とするものであった。 加えて、戦時特別立法であったインド防衛法に代わる措置として、 戦後、ローラット法(Rowlatt Acts)という徹底した弾圧法を制定した。 この法律は裁判なしに投獄できるという治安維持法だったのである。 インドの民衆の怒りは沸騰した。 ここでいよいよガンジーの登場となる。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/korea/1661252257/186
187: マンセー名無しさん [sage] 2022/09/20(火) 09:29:49.97 ID:oNOYk5Rc ■植民地残酷物語 白人優越意識を解き明かす■(著)山口洋一 カナリアコミュニケーションズ2015年7月31日発売 (3)ミャンマー 嘗てはビルマと呼び慣わされてきたミャンマーは、中国とインドという二つの大国に隣接していながら 独立を保ってきた国であり、古来独立自尊の気概溢れる国柄を誇ってきた。 それだけにイギリスはこの国を征服して、植民地として支配するのは、ひと筋縄では行かず、大いに手を焼いた。 三次にわたる英緬戦争(1824年~26年、1852年~53年、1885年)を経てイギリス側も多大な犠牲を払った上で、 1885年にようやくミャンマー全土を支配下に置くことができた。 しかしイギリスはミャンマーを植民地にするや、直ちにミャンマー人の激しい抵抗を受けた。 ミャンマーの多くの愛国者は、敗戦と植民地化という事態を唯々諾々と受け入れることを拒否し、 ゲリラ戦によってイギリス占領軍と戦うために立ち上がった。 王の一族、崩壊した王の軍隊の様々な階級の武将、かつて王に仕えた官吏はもとより、村長や仏教僧までもが先頭に立って、 国内至るところで蜂起した。 イギリス当局は彼らを愛国者とは見なさず、暴徒であると宣言して、手当たり次第殺害すべしとの指令を出した。 量刑は掃討部隊長の裁量に委ねられ、愛国者たちの大量殺戮が行われた。 女、子どもを含む村人全員が殺されるケースもあり、植民地統治の当初4年間は、大量虐殺の血塗られた時代となった。 こうしてイギリスの植民地にされたこの国が、その後の植民地統治期間中に如何にひどい仕打ちがされてきたかについては多くの研究書があり 私も既刊の著書(注)で論じてきたので、ここでは詳述を避け、象徴的な事例をいくつか紹介するにとどめておきたい。 (注)山口洋一著『ミャンマーの実像』勁草書房、同『<思いこみ>の世界史』勁草書房、同『歴史物語ミャンマー・上下二巻』カナリア書房、 山口洋一・寺井融共著『アウン・サン・ス―・チ―はミャンマーを救えるか?』マガジンハウス。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/korea/1661252257/187
188: マンセー名無しさん [sage] 2022/09/20(火) 09:30:23.94 ID:oNOYk5Rc 《分割統治で押さえこまれたビルマ族》 独立自尊の気概をもつビルマ族の抵抗は、この国を植民地化する過程でも、全土を支配した後においても、 イギリス人の脅威になっていたので、イギリスの統治者はビルマ族を他の民族と区別して痛めつけることにより、押さえつけようとした。 イギリス人のお家芸である「分割統治政策」(policy of divide and rule)の手法を駆使したのである。 ミャンマーは人口の69%を占めるビルマ族の他にカレン族、カチン族、チン族など多くの少数民族を抱えている。 イギリスはこの状況に着目し、少数民族を優遇して、ビルマ族を押さえこむやり方を用いたのである。 現地行政官はもとより、郵便局員や巡査といった下級官吏や兵士にはインド人や非ビルマ少数民族を充て、 多数民族であるビルマ族は最下層に押さえつけられて虐げられた。 ビルマ族は百姓とドックヤードの肉体労働者にしかなれないようにしたのである。 イギリスがアジアやアフリカの各地に有した植民地の中で、最も過酷な統治が行われたのがビルマであると言われるが、 これは多数民族であるビルマ族にとってのことであり、カレン族やカチン族やチン族などの少数民族はキリスト教に改宗させられ、むしろ植民統治の受益者となった。 敬虔な仏教徒であり、キリスト教改宗をかたくなに拒否したビルマ族だけが酷い扱いを受けたのである。 ビルマ人は蔑まれ、人間扱いされなかった。 イギリス人への呼びかけには、必ず「マスター」をつけて〝Our Master,Mr.Brown,…〟と言わせられ、イギリス人のいる部屋には、 履物を脱いで、ひざまつき、合掌して挨拶するよう強制させた。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/korea/1661252257/188
189: マンセー名無しさん [sage] 2022/09/20(火) 09:31:36.41 ID:oNOYk5Rc 他方、仏教徒にとっての神聖な場所である寺院に履物を履いたまま立ち入るのは ビルマ人の間では許されないことであったが、イギリス人はずかずかと土足でここに踏み入った。 その後1930年にラングーン大学卒業生が作った「われわれのビルマ協会」(Do-Bama Asi-ayon)は、 やがてアウン・サンやウ・ヌーやネ・ウィンも加わって、独立を明確な目標に掲げた政治団体に成長して行ったが、 この団体は一般に「タキン党」の名で知られるようになった。 「タキン」とはビルマ語で「主人」を意味する。 これはイギリス人の仕打ちに屈辱感を抱いた党員たちが、「ビルマ人こそビルマのタキン」 という誇りをこめて、自らを「タキン」と称したことに由来している。 このように徹底した「分割統治政策」が行われた結果、1948年に達成した独立直後の時期でさえラングーン(現ヤンゴン) での日常生活には、ビルマ語だけしか話さない者は不便を感じたという不都合な状況に置かれていた。 街でお巡りさんに道を尋ねるのにも、郵便局に用事で行くにも、相手はインド人だったり少数民族だったりするので、 ビルマ語が通じず、ヒンズー語か少なくとも英語の心得がないと用を足せなかったのである。 http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/korea/1661252257/189
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