[過去ログ] 朝鮮人が嫌いな人いますか?★10 (1002レス)
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292: 2022/09/26(月)10:37 ID:hr/Cw5wv(11/19) AAS
スペインの世界制覇の野望は、1588年にスペインの無敵艦隊がイギリスに敗れたことで大きく後退した。
これに代わってイギリス、オランダという新興植民地主義国が頭角を現し、
その方針も宗教を抜きにした経済支配の傾向にとって代わられることになった。

しかしトルデシリャス条約によって、スペインとポルトガルが描いた世界を支配する夢は簡単に消えるものではなかった。
祭壇に武器を祀ったイエズス会を尖兵とする彼らの動きには、少なくとも17世紀初めまでは油断がならなかったのである。
そこで秀吉は天正15(1587)年、バテレン追放令を出してキリシタンを弾圧し、逮捕と処刑を行った。

見せしめにキリシタン大名高山右近の追放処分も行った。
スペインの政治的な動きの意味を理解していたからこそ、秀吉はこの果断な措置に出たのであった。
さらに秀吉は、天正19(1591)年にはフィリピンに、文禄2(1593)年には台湾にも朝貢を命じている。

多くの歴史家はこの命令を単なる外交的な示威行為と国内的宣伝に過ぎないと見ているが、
これはそれほど単純なものではなく、「これらの国と結んでスペインの中国への進出を牽制する」
という深い政治的な意味合いをもっていたのである。

こうして秀吉の朝鮮出兵は文禄元(1592)年の「文禄の役」と慶長3(1598)年の「慶長の役」の二次にわたって行われ、
慶長3年8月に秀吉が没したため、日本軍は朝鮮から撤退して幕を閉じた。

この出兵は、結局このような形で失敗に終わったが、二度にわたり15万前後の大軍を動員して出兵したことは、
日本軍の遠征が国内においてコンセンサスを得ていたことを示している。
この出撃は決して領土拡張を目指した侵略として行われたのではなく、
その背景にはスペインへの強い警戒感があったことを見逃してはならない。
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