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708: 04/16(火)09:20 ID:cEG38iMx(1/7) AAS
『マルクス共産主義は形を変えた新たな奴隷制 〜 Social dumpingとBeggar-Thy-Neighbor(近隣窮乏化)輸出ドライブで稼いだ外貨をばら撒いて、最貧国に毛沢東思想(共産主義)を押し売りする中国共産党。中国共産党に魅入られた最貧国は、いずれ毛沢東(中国共産党)の文化大革命に心酔したポル・ポト(クメール・ルージュ)政権下で全国民の1/5に当たる170万人以上が強制労働や拷問、飢餓で命を落とした民主カンプチア(1975年〜1979年)の二の舞になると予想される』
ソロモン諸島で総選挙 中国共産党の影響力強まる
2024年4月15日(月) 20時48分 NHK
外部リンク[html]:www3.nhk.or.jp
太平洋で中国共産党の影響力が強まる中、ソロモン諸島で2024年4月17日(水)、総選挙が行われます。中国共産党との関係を深めているソガバレ首相率いる与党が勝利するのか、関係見直しも訴える野党が政権交代を実現するのか、注目されています。
南太平洋のソロモン諸島はソガバレ政権が2019年に台湾と断交して中国共産党政権と外交関係を結び、おととし2022年には安全保障協定を結ぶなど、急速に中国共産党との関係を深めてきました。
今回2024年の選挙では、こうした中国共産党 寄りの政策や安全保障協定が争点の1つとなっていて、ソガバレ首相は選挙の演説の中で「支那に物乞いはいないが、アメリカのすべての主要都市には物乞いがいる。これが世界第1位の経済大国なのか」と述べ、中国共産党との関係強化の正当性を訴えました。
709: 04/16(火)09:34 ID:cEG38iMx(2/7) AAS
〓マルクス共産主義は形を変えた新たな奴隷制。
〓Social dumpingとBeggar-Thy-Neighbor(近隣窮乏化)輸出ドライブで荒稼ぎした外貨をばら撒いて、最貧国に毛沢東思想(共産主義)を押し売りする中国共産党。
〓中国共産党に魅入られた(取り憑かれた)最貧国は、いずれ毛沢東(中国共産党)の文化大革命に心酔し全国民の1/5に当たる170万人以上を強制労働や拷問、飢餓で死に追いやったポル・ポト(クメール・ルージュ)政権の民主カンプチア(1975年〜1979年)の二の舞になると予想される。
〓強制労働や拷問、飢餓で2,000万人が命を落とした文化大革命(1966〜1976年)では、1966年の支那・京師で発生した『赤い八月』虐殺事件、1968年の広西チワン族自治区で発生した『広西虐殺』人肉食・共食い事件、1966年に?ケ小平が主導した『内モンゴル人民革命党粛清事件』大量虐殺などが報告されている。
>『赤い八月』(1966年の支那・京師)Wikipedia
外部リンク:ja.m.wikipedia.org
省1
710: 04/16(火)09:47 ID:cEG38iMx(3/7) AAS
香港大学の人文科学教授でスタンフォード大学フーバー研究所のシニア・フェローであるフランク・ディコッター(Frank Dikötter)によると[15]:
1967年から1968年にかけて、田舎には肉体的に殺し合い始めただけでなく、いくつかの小さな町で儀式的にお互いを食べ始めた派閥がありました。言い換えれば、あなたの「階級敵」を排除するだけでは十分ではありません。あなたは彼の心を食べなければなりません。儀式の共食いの非常によく文書化されたケースがあります。[16]「階級敵」を食べるときは階層がありました。中国共産党の指導者たちは豚肉を混ぜて人の心臓と肝臓を食べ、普通の村人は犠牲者の腕と太ももをつつくだけでした。[17]
カリフォルニア州立大学ロサンゼルス校で働いていた支那の歴史家、宋永毅によると[3][4][10][18]:
広西チワン自治区の独立した研究者は、食べられた合計421人を数えました。しかし、広西チワン族自治区の27の郡で共食いの報告があり、それは広西チワン族自治区の全郡の3分の2です。いわゆる「黒五類」と言われる男が一人、立ったまま殴打されて死亡した。彼には11歳と14歳の2人の子供がいた。地方当局と武装民兵はそのような人々を根絶することが重要であると言ったので、彼らはこれらの2人の子供を殺しただけでなく彼らも食べた。これは広西チワン族自治区の浦北県で行われ、合計35人が殺されて食べられました。
犠牲者のほとんどは金持ちの地主とその家族でした。家族全員が一掃された劉正堅と呼ばれる一人の地主がいました。彼には17歳の娘、劉秀蘭がいて、9人に輪姦された(19回)。レイパーはそれから彼女の腹を引き裂いて開き、そして彼女の肝臓と胸を食べました。このような事件は非常に多かった。
711: 04/16(火)09:56 ID:cEG38iMx(4/7) AAS
1968年の血なまぐさい夏、香港とマカオの人々は皆、西江から珠江に死体が浮かんでいることをご存知だった」[22]と述べている。
1997年、テキサス工科大 (Texas Tech University) の歴史学教授であるキー・レイ・チョンは (Key Ray Chong)[23]、鄭毅の共食いの本のレビューで、「文化大革命の間、かなりの数の中国共産党の当局者がこの恐怖を知っていた。1940年代の「ナチス・ホロコースト」や1970年代のポルポトの「キリング・フィールド」に匹敵するものなのに、彼らはこの問題について沈黙を守った。」[24]
1995年、カーネギー・メロン大学のドナルド・S・サットン (Donald S. Sutton) 教授は、彼の研究論文に「人食いは実際に武宣で起こったのか」と書いた。彼は、共食いは最近武宣を訪れた学者でジャーナリストのジョン・ギッティングズ (John Gittings) によって独立して確認されたと述べ続けた。ジョン・ギッティングズは、非番の地元の店員が殺害と共食いについて風通しの良い話をしたと報告し、「武宣では、支那の他のどこよりも多くの人々を食べた」と述べた。[25]
メディア
2016年、『ガーディアン』は文化大革命のレビューで、「おそらく最も影響を受けた地域は、大量殺戮や共食いの報告があった広西チワン族自治区南部だった」と述べている[26]。
2013年、中国共産党の公式メディアである『人民網』やその他の支那メディアは、『中国青年報』の記事を転載した。記事は、文化大革命の間、「広西チワン族自治区のようないくつかの場所では、人々が殴打されて死んだ後、彼らの心臓と肝臓が食べられました、そして驚くべきことに、そのような共食いはその地域で流行しました」と認めた。記事はさらに、「20世紀の人類の歴史を通して、私たちのような文化大革命を経験した国は他にありましたか?唯一の比較可能な時期はナチス・ドイツでした。
712: 04/16(火)10:00 ID:cEG38iMx(5/7) AAS
1993年、『ニューズ・ウィーク』は、「説明は悲惨だった。校長は学生によって遊び場で殺され、調理され、食べられた。政府が運営するカフェテリアは、肉のフックからぶら下がっている人体を展示し、従業員に配布した。先週 支那から密輸された文書は説明したグロテスクなディテールでの文化革命の残虐行為。」[30]
1993年、『ニューヨーク・タイムズ』は、「広西チワン族自治区から報告された事件は、明らかに前世紀以上に世界で最も広範な共食いのエピソードであった」と述べた。同紙はさらに、「参加した参加者が飢餓や精神病質の病気に動機付けられていなかったという点でも他の人とは異なっていた。代わりに、行動はイデオロギー的であるように見えた。多くの場合、地元の共産党当局者によって組織され、人々は彼らの革命的な熱意を証明するために一緒に参加したようです。」[8]
>『内モンゴル人民革命党粛清事件(1966年に?ケ小平が主導)』Wikipedia
外部リンク:ja.m.wikipedia.org
内モンゴル人民革命党粛清事件(うちモンゴルじんみんかくめいとうしゅくせいじけん)は、1966年から1976年にかけて (文化大革命)、モンゴル人数十万人が中国共産党によって粛清された事件[1]。
内モンゴル自治区革命委員会設立記念パレード
省3
713: 04/16(火)10:05 ID:cEG38iMx(6/7) AAS
1960年代になり中ソ対立が顕在化すると「内外モンゴルの統一」を口実にソ連の介入を招きかねない内モンゴルの自治は徹底的な弾圧を受けることとなる。1966年に開始された文化大革命で内モンゴルへの中央からの介入がより強化され、7月12日、?ケ小平は内モンゴル自治区主席であったウランフを呼び出し[3]、「内外モンゴル統一を企む民族分裂主義者」「現代の王公となって独立王国を築こうとしている」などと攻撃して失脚させた。内モンゴルでは『内人党分子』とされたモンゴル人が弾圧された。
こうした混乱は続き1969年には内モンゴル自治区に軍政施行、内モンゴル生産建設兵団が組織的に送り込まれ、1970年には内モンゴル自治区は廃止され周辺各省により分割された。
1966年から1976年にかけて中国共産党政権は内モンゴル自治区(南モンゴル)、新疆ウイグル自治区(東トルキスタン)、青海省(チベット)、甘粛省、東北三省(満洲)に先住していたモンゴル人に対して「分裂主義者」「地域国粋主義者」などの罪名のもとで、当時の内モンゴルのモンゴル人の人口約150万人のうち、70万から80万人を投獄し、34万6,000人が逮捕され、2万7,900人が殺害され、12万人が暴行を受けて障害者にされ、5万人から十数万人を殺害した[1][4][5][6]。これは当時の内モンゴル自治区の人口の6割以上を占める[5]。
714: 04/16(火)10:10 ID:cEG38iMx(7/7) AAS
南モンゴル(内モンゴル自治区)出身の楊海英によると、漢人たちはモンゴル人に対し、真っ赤に焼いた鉄棒を肛門に入れる、鉄釘を頭に打ち込む、モンゴル人女性のズボンを脱がせて、縄でその陰部をノコギリのように繰り返し引く、妊娠中の女性の胎内に手を入れて、その胎児を子宮から引っ張り出すなどの凄惨な性的暴行・拷問・殺戮を加えた[2]。内モンゴルのジャーナリストや研究者たちによると、当時内モンゴルに居住していた150万人弱のモンゴル人のうち、犠牲者は30万人に達し、その後、内モンゴルではモンゴル人の人口250万人に対して、漢人の入植者は3,000万人に激増した[2]。楊海英は、事件をきっかけに「19世紀以降に満洲、モンゴル、新疆へと、彼ら漢人(支那人)が領土拡張してきた方法」により、内モンゴルは植民地開拓され、「内モンゴル自治区ではモンゴル人の人口がたったの250万人にとどまり、あとから入植してきた支那人はいつの間にか3,000万人にも膨れあがり、その地位が完全に逆転してしまいました。支那人による植民地開拓のプロセスは何処でも基本的に同じ人海戦術です」と述べている[2]。
アルタンデレヘイ(支那語: 阿拉騰徳力海)は、「中国共産党はまず、ウランフの例でわかるようにモンゴル人の指導者と知識人たちを狙った。『文字を読める人』は殆ど生き残れなかったと言われるほどの粛清が行われた。50種類以上の拷問が考案され、実行された。たとえば、真赤に焼いた棍棒で内臓が見えるまで腹部を焼き、穴をあける。牛皮の鞭に鉄線をつけて殴る。傷口に塩を塗り込み、熱湯をかける。太い鉄線を頭部に巻いて、頭部が破裂するまでペンチで締め上げる。真赤に焼いた鉄のショベルを、縛りあげた人の頭部に押しつけ焼き殺す。『実録』には悪夢にうなされそうな具体例が詰まっている。女性や子どもへの拷問、殺戮の事例も限りがない。中国共産党の所業はまさに悪魔の仕業である」と批判している[7]。
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