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【エロゲ特任教授】東浩紀スレッド126【ゼロアカ帝国皇帝】 (653レス)
【エロゲ特任教授】東浩紀スレッド126【ゼロアカ帝国皇帝】 http://mercury.bbspink.com/test/read.cgi/leaf/1214065100/
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100: 名無しさんだよもん [sage] 2008/07/03(木) 13:55:23 ID:Jof1sHQL0 100get http://mercury.bbspink.com/test/read.cgi/leaf/1214065100/100
101: 名無しさんだよもん [sage] 2008/07/03(木) 13:57:22 ID:Jof1sHQL0 うわー、くそー、100取られた 100getうらやましす、こいつまじスゲエぜっ! http://mercury.bbspink.com/test/read.cgi/leaf/1214065100/101
102: 名無しさんだよもん [sage] 2008/07/04(金) 00:53:42 ID:Egmo1t3p0 >>95 かなり違うけど、人々が「残酷」と思う事柄から共通する感情が見い出せる 可能性はあるかもしれないという意味。戦争で子供が死んだら悲しいとか、 日本人でもイスラムでも同じ親心ではないかといったところからくる連帯の 可能性。 >>97 哲学というより論理を構築するためのゼロ地点のようなものとして、そのような 仮定をロールズが立てた。ローティの場合は、それは学校で説教されるような ことでなくて、人々がそのような想像力をもつことによって連帯できる可能性が あるということになる。それから「プレイヤー」に感情移入できるなら、隣人や 他の民族に対してもそれができる可能性があることを示している。 http://mercury.bbspink.com/test/read.cgi/leaf/1214065100/102
103: 名無しさんだよもん [sage] 2008/07/04(金) 01:25:11 ID:8Jc3b/qG0 >>98 「ゲーム的リアリズム」はそれまでの私小説やライトノベルとの形式的な差異を 強調するために掲げられた用語で、これは柄谷の近代文学史からの最前線にある ものとしてみたほうが適切。ローティの場合は、実存主義に関する言説に対する 徹底したアイロニストであって、世界中全ての人間がそのようなアイロニストに なることによって世界に素晴らしいユートピアが誕生すると考えている。 「ゲーム的リアリズム」とは実存の文学のことで、ゲーム的(≒リセット可能)で あるにも関わらず、ゲームではプレイヤーのキャラクターが何度でも死ねるにも 関わらず、そのゲーム的な小説では人間の死ないしその反転としての生を描けると いう新しい形式のあり方を指している。これを東が「ゲーム的リアリズム」と呼び 実存を描く作品の新しい形式のあり方として加えることを提案している。 http://mercury.bbspink.com/test/read.cgi/leaf/1214065100/103
104: 名無しさんだよもん [sage] 2008/07/04(金) 01:26:01 ID:f4T/jJwo0 >>102 言っていることはわかるが、 ローティ=宮台的連帯可能性は外側から恣意的に提示されなければならない エリートによるアジア主義の見直し・・・のように そしてそれはやはり一つの物語としての限界がはっきりしている これは方法論の次元なので大した興味はない > 「プレイヤー」に感情移入できるなら、隣人や > 他の民族に対してもそれができる可能性があることを示している。 展開に異論はないが、私は「プレイヤー」に感情移入は不可能だと考える >>97にあるように、 視点が現プレイヤー視点に更新された時には前プレイヤー視点は消去される むしろ前プレイヤー視点と現プレイヤー視点は区別ができない プレイヤーは感情移入の有無以前に対象化することができないのでは? http://mercury.bbspink.com/test/read.cgi/leaf/1214065100/104
105: 名無しさんだよもん [sage] 2008/07/04(金) 02:04:57 ID:Egmo1t3p0 >>104 ローティは「公」と「私」の問題を完全に分離したものと見なしているので、宮台とは まったく異なる。アイロニーは「公」に何の役にも立たないとローティははっきりそう 言っている。アイロニーはあくまでそれは個々人(「私」)のあり方の問題で、そのような アイロニストが増えることによって、連帯が生まれるという可能性を言及している。 宮台は「一つの物語としての限界」を承知しつつ、それでも「あえて」エリートが特に 例外的な状況に対して対処すべく、養成されなければならないと考えている。 これは社会論的な問題で、哲学の問題ではない。哲学に興味ある人がこのことにあまり 興味を持たないのはそれはそれで当然だともいえる。むしろ東があちこちに首を突っ込む ほうがどうかしてるのかもしれない。東は哲学的に論理的にやれることは全てやり尽く してしまったという想いないし挫折感があるのかも。情報理論とデリダ哲学の関係付けとか、 東がやって然るべき仕事はたくさんあると思えるけど、その重い腰をあげる気はないようだ。 >私は「プレイヤー」に感情移入は不可能だと考える 「プレイヤー」は人間じゃないから、込み入った議論は丁寧にされるべきだったかも しれない。「プレイヤー」を対象化する作業は興味深いそうだけど、簡単ではなさそうだ。 ベタな例えでいえば、ある女と付き合って別れて、そして新しい女と付き合っているときの ような状態がそれに似ているのではないか? その場合の「女」というフレームがそのまま 「プレイヤー」と等値できる可能性はある。記憶を保持し続ける主体としての自分と、記憶 なき複数性の世界ないしその複数性を含み入れているフレームと、そしてそのフレームを 内面化している自分自身の関係として整理してみたらどうだろうか。 http://mercury.bbspink.com/test/read.cgi/leaf/1214065100/105
106: 名無しさんだよもん [sage] 2008/07/04(金) 02:09:32 ID:8Jc3b/qG0 >>91 動物は「立場入れ替え可能性の想像力」など持たない。あくまで動物として生を 実践しているだけ。ただこれは自然界のいたるところで見られるように、判り易い 例でいえば、ミツバチは花の蜜を吸うのは単純に蜜がほしいから、でも花はその ミツバチの性質を利用して、花粉を他の花へミツバチを介して受粉させているみたい な関係が築かれている。東はそれを人間の「政治」でもできるだろうと考えている。 その東の着想の原点はやはりローティにあるだろう。ローティは「哲学」と「政治」 を切り離すことを提案している。「政治」を実践の場として考えること、ローティ は「政治」の場はプラグマティックに構築されるべきだと考えた。それを更に進化 というか退化させたのが東で「政治」を人間の動物的な性質から構築されるような 場に「落とす」ことを考えているようだ。 http://mercury.bbspink.com/test/read.cgi/leaf/1214065100/106
107: 名無しさんだよもん [sage] 2008/07/06(日) 02:47:33 ID:8KWel6eA0 >>105 > ローティは「公」と「私」の問題を完全に分離したものと見なしているので、宮台とは > まったく異なる。アイロニーは「公」に何の役にも立たないとローティははっきりそう > 言っている。アイロニーはあくまでそれは個々人(「私」)のあり方の問題で、そのような > アイロニストが増えることによって、連帯が生まれるという可能性を言及している。 ローティはアイロニストの私的態度(アイロニー)を共感可能性として外側から提示している アイロニストが連帯性を広げられるのは同じアイロニストに対してであって、 そこで作られる公は私的な属性によって担保された公共性にすぎないのではないか それはアイロニスト間で通用する物語で、宮台的なものと区別がつかないように思われる > 「プレイヤー」は人間じゃないから、込み入った議論は丁寧にされるべきだったかも > しれない。 「プレイヤー」は人間ではないのか?私が社会学の位相を離れられていないのか あずまんのゲーム的リアリズムの可能性が文芸批評に留まらないという前提は共有されているように思う 私は>>95>>102に対する違和がゲーム的リアリズムを用いて説明できると考える ・>>95立場入れ替え可能性は属性や性質に阻害されることはない ・>>102立場入れ替え可能性を保障するものは素朴な実存的感情ではない ・立場入れ替え可能性はゲーム的リアリズム的想像力に依拠する>>97 ・しかし<私>(プレイヤー)のキャラクター化は不可能ではないか(論点) 複数性に開かれるべきなのは<私>でなければならない それが<私>のキャラクター化という意味 「この私」に可能な世界を想像するのではなく、 「この私」が「ここ」ではなく「そこ」にいることを見ることができるかということ >>105の<私のカノジョ>の例は「この私」に可能な世界の例で、 単一的な「私」にとっての「カノジョ」の複数性と私は捉える (ベタな例とのことなので、同じように使われているブログ記事等あれば教えて下さい) ・結論は動物的動力を有効利用して社会をまわs(ry>>106 http://mercury.bbspink.com/test/read.cgi/leaf/1214065100/107
108: 名無しさんだよもん [sage] 2008/07/07(月) 19:33:28 ID:ShQsl5gM0 今頃あずまんスレの存在に気付いたw ネットスターで風子の中の人からヒトデもらいそこねてすねてたあずまん萌え http://mercury.bbspink.com/test/read.cgi/leaf/1214065100/108
109: 名無しさんだよもん [sage] 2008/07/07(月) 20:04:41 ID:+C4dSnzM0 そういうのはこっちでやれ。 【哲板の】東浩紀スレッド129【看板】 http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1215073146/ http://mercury.bbspink.com/test/read.cgi/leaf/1214065100/109
110: 名無しさんだよもん [] 2008/07/07(月) 20:16:32 ID:3Ti0+ZEy0 いや、風子の話は重要だと思う 『ファントム・クオンタム』にもでてくるし、同名のキャラが http://mercury.bbspink.com/test/read.cgi/leaf/1214065100/110
111: 名無しさんだよもん [sage] 2008/07/07(月) 22:28:49 ID:+C4dSnzM0 どう大切なのか自分で語るものじゃないの? 大切だと思う、で完結したら会話にならないよ。 http://mercury.bbspink.com/test/read.cgi/leaf/1214065100/111
112: 名無しさんだよもん [] 2008/07/08(火) 00:50:30 ID:/ksrLOcB0 おらおらどうしたんや? わいが怖いんか お前ら http://mercury.bbspink.com/test/read.cgi/leaf/1214065100/112
113: 名無しさんだよもん [sage] 2008/07/08(火) 23:11:22 ID:3lTH99nI0 もうid付きのこのスレでいいよ 勢いが激減するかもしれないが http://mercury.bbspink.com/test/read.cgi/leaf/1214065100/113
114: 名無しさんだよもん [] 2008/07/11(金) 22:41:57 ID:G7Gbeu/X0 終わりか?楽しみにしてたんだけどね。 http://mercury.bbspink.com/test/read.cgi/leaf/1214065100/114
115: 名無しさんだよもん [sage] 2008/07/12(土) 01:54:06 ID:kizfD2k50 葉鍵板でこんな知的な会話…貴重なスレかもしれん http://mercury.bbspink.com/test/read.cgi/leaf/1214065100/115
116: 名無しさんだよもん [] 2008/07/14(月) 18:06:56 ID:0+DmGI2A0 まだだ まだ終わらんよ http://mercury.bbspink.com/test/read.cgi/leaf/1214065100/116
117: 名無しさんだよもん [sage] 2008/07/14(月) 20:38:35 ID:0PjZp2Wk0 2人しかまともにレスしてないけどなw http://mercury.bbspink.com/test/read.cgi/leaf/1214065100/117
118: 名無しさんだよもん [sage] 2008/07/15(火) 21:34:42 ID:u9RQzeG60 >>107 >そこで作られる公は私的な属性によって担保された公共性にすぎないのではないか >それはアイロニスト間で通用する物語で、宮台的なものと区別がつかないように思われる 公と私を直接つなごうとはしない=ローティ 公と私を天皇とか物語でつなぐ=宮台ほか こんな感じだろう。 >しかし<私>(プレイヤー)のキャラクター化は不可能ではないか(論点) 精神的には可能だろう。 あずまんも精神的には痩せている。 >「この私」に可能な世界を想像するのではなく、 >「この私」が「ここ」ではなく「そこ」にいることを見ることができるかということ 何やら難しそうな話だ。。 http://mercury.bbspink.com/test/read.cgi/leaf/1214065100/118
119: 名無しさんだよもん [sage] 2008/07/15(火) 23:57:25 ID:u9RQzeG60 文字起こししたよ(^o^)ノ 浅田彰 No.8(1986年テレビ放送) http://jp.youtube.com/watch?v=hjCl8fotdpQ そして戦争が終わり、我々はすっかり変貌してしまった都市のなかで終わりのない時を 生きています。境界と中心によって空間的に確定され、サンボリックな言語的秩序によって 支配された古典的なポリスとしての都市ではなく、アメーバ状のスプロールによって外部との 境界を失い、エレクトロニックメディアの散布するイマジネールな表層的映像の洪水のなかに どっぷりと浸り込んだ、そういうシミュレーションとしての、そう、それはまさにボードリヤールの いう意味でのシミュレーション都市であって、そのなかでは映像が現実を模倣すると同時に 現実が映像を模倣する、そういう奇妙なループが止め処もなく反転し合って、まわっている わけです。 この都市は全体像などというものを持ち合わせない。もちろん中心となるべき舞台などと いうものはない。したがって中心と周縁あるいは表層と深層といったものの反転がもたらす 弁証法の劇といったものは、まあどこにも見当たらないといったほうがいいだろう。ただヒト エキ(?)の空間の中を、電子の薄膜と化したイマジネールな映像の群れが飛び交う中で 弁証法的な反転ならぬノーセンスな反転、両義的な反転が繰り返されているばかりです。 考えてみればかつて流行した劇場都市モデル、あるいはそれを使った都市の文化記号論など というものは、たぶんそういうシミュレーション都市の状況のなかで失われた有機的全体性への センチメンタル、あるいは感傷的なノスタルジーが産み出した一種のフィクション、少なくとも イリュージョンに過ぎなかったのではないか、そんな気がしてなりません。 実際のところ、シミュレーション都市のリアリティあるいは、まあ、ハイパーリアリティといった ほうがいいでしょうか、そのなかでは何かこう、濃密な意味を帯びた伝統的都市空間をテクスト として読み解いていくとか、あるいはそこで上演される劇をのんびりと鑑賞するとか、そんな暇は とてもない。むしろ、あらゆる意味のシステム、あらゆるドラマ、そういった一切の破壊されたあと にあるノンセンスな流動状態の残酷な輝きだけが問題なのです。 http://mercury.bbspink.com/test/read.cgi/leaf/1214065100/119
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