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488: 幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB [age] 2015/11/16(月) 21:02:20.23 ID:T9M70So/ 原始キリスト教は原始仏教に近い。 http://hayabusa3.5ch.net/test/read.cgi/livemarket1/1447649673/488
489: 山師さん@トレード中 [] 2015/11/16(月) 21:02:24.50 ID:+O5qYGdX >>471 ここで、そんなコト言っても誰も相手にしないだろババア お前の性格の悪さ、他人に絡む凶暴さをまず何とかしろ。話はそれからだ。 http://hayabusa3.5ch.net/test/read.cgi/livemarket1/1447649673/489
490: ミリンダ=ブランティーニ中尉 [sage] 2015/11/16(月) 21:02:35.59 ID:nsC54fB9 へたくそwwwwwwwwww http://hayabusa3.5ch.net/test/read.cgi/livemarket1/1447649673/490
491: 早寝 ◆PR6K0R6pOM [sage] 2015/11/16(月) 21:02:38.00 ID:tpEKJlCB タイムリーキタ─wwヘ√レvv〜(゚∀゚)─wwヘ√レvv〜─!! http://hayabusa3.5ch.net/test/read.cgi/livemarket1/1447649673/491
492: 山師さん@トレード中 [] 2015/11/16(月) 21:02:40.91 ID:gie+WnPe よっしゃあああああ http://hayabusa3.5ch.net/test/read.cgi/livemarket1/1447649673/492
493: (へーへ; ◆wmVcretqzE [sage] 2015/11/16(月) 21:02:48.49 ID:J5FZZfLW >>485 ぎゃああああああああああああああああああああああああ した事あんのかよwwww http://hayabusa3.5ch.net/test/read.cgi/livemarket1/1447649673/493
494: 山師さん@トレード中 [sage] 2015/11/16(月) 21:02:55.80 ID:wjMABNxy 楽勝じゃん http://hayabusa3.5ch.net/test/read.cgi/livemarket1/1447649673/494
495: 山師さん@トレード中 [] 2015/11/16(月) 21:02:58.61 ID:pDSD54kq 日本つえー http://hayabusa3.5ch.net/test/read.cgi/livemarket1/1447649673/495
496: 幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB [age] 2015/11/16(月) 21:03:01.85 ID:T9M70So/ 第一七九節 旧約聖書と新約聖書 ユダヤ教の根本性格は現物主義と楽天論だ。この二つは血筋の近いもので、本来の有神論の条件であ る。というのは、有神論は物質界を絶対に現実と見て、人生をわれわれのためにつくられた、快適な一 種の贈り物とみているからである。これと反対に、バラモン教や仏教の根本性格は、精神主義と厭世観 だ。というのは、バラモン教や仏教は、世界を一種の夢のようなものと見ており、人生をわれわれの罪 の結果と見ているからである。周知のようにユダヤ教の源流であるゼンド・アヴェスタ教では、厭世的 要素を代表するものにアフリマンがある。しかしユダヤ教では、このアフリマンがサタンになって、従 属的地位を占めるにすぎなくなる。といってもサタンが蛇やさそりや毒虫の元祖であることは、アフリ マンと同様である。ユダヤ教はサタンの化身である蛇を人間の堕落に登場させる。つまり楽天観という ユダヤ教の根本的誤謬を修正するために、サタンを利用するのだ。ところでアダムとイヴの堕落は、明 白な真理には絶対必要な厭世的要素をユダヤ教にもちこんだもので、この宗教では最も正しい根本思想 である。ただし罪に堕ちるということは人間生存の根拠であり、生存に先行するものとして叙述される はずのものであるが、アダムとイヴの堕落はこれを生存の経過へ移しかえているのである。 エホバがオルムズドであるという適切な確証を提供しているのは、七十人訳エズラ書・第一巻、すな わちο ιερευς Α(六の二四)だが、ルター訳では省かれている。「王キュロスはイェルサレムに主の家を 建造せしめた。そこでは不断の火によって主に犠牲がささげられていた。」――またアカベア第二書・第一 章および第二章、さらに第三章、最八節も、ユダヤ人の宗教がペルシア人の宗教であったことを証明 している。 というのは、バビロンの捕囚に連れ去られたユダヤ人たちは、ネヘミヤの導きのもとに、あ らかじめ聖火を乾いた天水槽のなかに隠しておいたため、水につかることになったが、そちに奇蹟に よってふたたび火があおりたてられたので、ペルシア王に大なる感化をあたえた、と語られているから である。ユダヤ人と同様、ペルシア人もまた偶像崇拝をきらい、したがって神々を像の姿であらわすこ とはなかったのである。(シュピーゲルもまた、ゼンド宗教について、それがユダヤ教徒親近性をもっ ていることを説いているが、しかし彼はゼンド宗教がユダヤ教に由来すると主張している。)―― エホバがオルムズドの一変形であるように、アフリマンの変形がサタン、すなわちオルムズドの敵対 者なのだ。(ルターは七十人訳で、「サタン」となっているところを「敵対者」と訳している。たとえ ば列王紀略上・第一一章、第二三節。)エホバ崇拝はヨシュア王の治下にヒルキアの援助によって生じ たらしい。すなわちゾロアスター教徒によって受けいれられエズラによりバビロン追放から帰還した さいに完成したと思われる。というのは、ヨシュアやヒルキアまでは、あきらかに自然宗教・星辰崇 拝・ベル崇拝・アスタルテ崇拝などがユダヤ王国で行われていたからであり、ソロモン王治下でも同 様である。(ヨシュアおよびヒルキアについての列王紀略を見よ。) http://hayabusa3.5ch.net/test/read.cgi/livemarket1/1447649673/496
497: お爺さん ◆TOPIXQCP8g [] 2015/11/16(月) 21:03:13.98 ID:p0f7IQEt >>473 (´ω`)昔なら代将という階級もあったりね 大将だけでも、大将、上級大将(二級大将、一級大将)とか分けられていたり まあほんとにまちまち http://hayabusa3.5ch.net/test/read.cgi/livemarket1/1447649673/497
498: 山師さん@トレード中 [sage] 2015/11/16(月) 21:03:16.93 ID:KnS8n8hx >>480 美魔女が発展したら、なんとか合法路理に落とし込める http://hayabusa3.5ch.net/test/read.cgi/livemarket1/1447649673/498
499: 幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB [age] 2015/11/16(月) 21:03:24.69 ID:T9M70So/ 列王紀略: キュロスやダリウスが(エズラ以降)ユダヤ人に好意を示し、その神殿を再建させているが、 これはおそらく、それまでバアル、アスタルテ、モロッホなどを崇拝していたユダヤ人たちが、バビロンに おいて、ペルシア人が勝利をしめしたときから、ゾロアスター教を受けいれ、エホバという名のもとでオルム ズドに仕えるようになったせいではあるまいか。そうでなければ、あの好意は不可解である。キュロスがイ スラエルの神に祈りをささげた(七十人訳聖書のエズラ書・第一巻二の三)ということも、このことと符合 する(そう考えなければ筋が通らないだろう)。旧約聖書のあらゆる先行諸書はのちに、すなわちバビロン捕 囚以後に作成されたが、あるいはすくなくともエホバの教えはのちに挿入されたかしたのだ。とにかくわれ われはエズラ書・第一巻・第八章および第九章によって、ユダヤ教の最も恥ずべき面を知る。この選ばれた 民はここでその祖先アブラハムの不快・無道な手本にならって行動している。すなわちアブラハムがハガー ルをイスマエルとともに放逐したように、バビロン捕囚のあいだにユダヤ人と結婚した婦人たちは、ただ人 種的にMauschelでないという理由から、その子供とともに追放されたのだ。この民族のより大規模な非行 を曲飾するために、あのアブラハムの非行があみだされたものでないとしたら、これ以上卑劣なことはほと んど考えられない。 ユダヤ教の起源がゼンド宗教にあることを確証するものとして、ここについでながらあげておきたい ことは、旧約聖書やその他のユダヤの典拠によれば、天使が雄牛の頭をもったものになっており、エホ バがそれに乗って歩くということだ。(詩篇九十九の一.七十人訳聖書列王記略・第二書六の二、および二 二の一一。第四書十九の一五には「ケルビムの上に座したまう汝〔エホバ〕」とある。)エゼキエル書・ 第一章および第一〇章の記述などに見られるように、半ば雄牛で半ば人間、また半ば獅子といったこう した動物は、ペルセポリスにあるいろいろな彫刻、ことにモズルやニルムードで発見されたアッシリア の彫像のなかに見られる。それどころかヴィーンにある彫像を施した石には、オルムズドがこのような 雄牛のケルビムに乗った姿が描かれている。このことの詳細はヴィーン文学年間一八三三年九月「ペル シア旅行記」にある。なおユダヤ教のゼンド宗教起源についての詳しい説明は、J・G・ローデがその 著『ゼンド民族の聖なる伝説』で提供してくれる。これらすべてはエホバの系譜に光をあたえるものだ。 これに反して新約聖書はとにかくインド的な由来のものであるにちがいない。道徳を禁欲に移すまっ たくインド的なその倫理、その厭世観およびその降化がこれを証拠立てている。しかし、まさにそのた めに新約聖書は旧約聖書と決定的に内面的に矛盾することになり、けっきょくアダムとイヴの堕罪の物 語だけが、両者のつなぎになったのである。というのは、あのインドの教えが約束の国にはいってきた とき、この世が堕落していて悲惨であり、したがってそれを救う必要があるという認識、降化をはじめ として、自己否定と懺悔の道徳によって救われるという認識を――ユダヤ的一神教ならびにその楽天的 な「すべてはたいへん良かった」に結びつける課題が発生したのだ。そして、それは事情のゆるすかぎ り、つまりこれほどまったく異質的な、否、対立的でさえある二つの教えを結びつけうるかぎりにおい て、成功したのであった。 http://hayabusa3.5ch.net/test/read.cgi/livemarket1/1447649673/499
500: 山師さん@トレード中 [] 2015/11/16(月) 21:03:26.54 ID:gie+WnPe >>487 なんJでは合計35スレくらい逝ってる http://hayabusa3.5ch.net/test/read.cgi/livemarket1/1447649673/500
501: 山師さん@トレード中 [sage] 2015/11/16(月) 21:03:39.60 ID:xjjrpdBR 今後数日から数週間以内に再びテロが起きる可能性って、 なんか大地震の余震みたいだな http://hayabusa3.5ch.net/test/read.cgi/livemarket1/1447649673/501
502: 山師さん@トレード中 [sage] 2015/11/16(月) 21:03:45.36 ID:VPUtYTvR >>474 英語堪能なへーへーさん、純白大統領の件、各国でどう報道されてるか調べてきてください http://hayabusa3.5ch.net/test/read.cgi/livemarket1/1447649673/502
503: 幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB [age] 2015/11/16(月) 21:03:48.81 ID:T9M70So/ 支柱や手がかりのいる常春藤のつるが、荒削りな棒杭にからみついて、どんなところでもその不格好 な形に順応し、その形を再現しながらも、自分の生命と優雅でそれに覆い、こうして棒杭ではなしに、 こころよい眺めをわれわれに見せてくれるのと同様に、インドの知恵に発したキリスト教の教えが、これ とまったく異質的な荒けずりなユダヤ教の古い幹を覆ってしまったのだ。そしてもとの形のうちで保存 されなければならなかったものは、キリストの教えによってまったく別のものに、いきいきとした真実 なものに変えられたのである。それは同じもののように見えながら、ほんとうは別なものなのだ。 つまりこの世と切り離されていた無からの創造者は救世主と同一視され、またそれをつうじて救世主 を代表者とする人類とも同一視されたのだ。なぜなら、人類はアダムにおいて堕落し、それ以後、罪・ 堕落・苦悩・死のきずなに巻きこまれていたけれども、救世主において救われることになるからだ。仏 教におけると同様に、ここでもこの世は罪や堕落、苦悩や死としてその姿を示すからである。――「す べてをたいへん良い」と見たユダヤ的楽天観の光は消えて、いまや悪魔そのものが「この世の君」(ヨ ハネによる福音書一二の三一)、文字どおりに世界支配者とよばれるのだ。この世はもはや目的ではな く、手段となる。つまり永遠のよろこびの国は、この世の彼岸、死のかなたにあるのだ。この世におけ る諦念とあらゆる希望をよりよき世界へ向けることが、キリスト教の精神である。しかしこのような世 界への道をひらくのは、贖罪、すなわちこの世とその道からの解放である。道徳においては、報復権の かわりに、敵を愛せよという掟があらわれる。無数の子孫を約束することに取ってかわって、永生の約 束があらわれる。犯罪に対する神罰が四代の子孫にまで及ぶということにかわって、すべてを庇護する 聖霊が立ちあらわれるのである。 こうしてわわわれは新約聖書の教えによって、旧約聖書の教えが修正され、転釈を受けていることを 見いだす。このことによって旧約の教えは内面的・本質的にインドの古い宗教と一致するようになった のだ。キリスト教のもっている真実な点は、すべてバラモン教や仏教にも見いだされる。しかし、無か ら生命をあたえられ、しばしの時をおくるこの神のこしらえものである人間が、歎きと不安と困窮にみ ちたこのはかない生存をあたえられたことに対して、いくらへりくだって感謝してもじゅぶんではな く、そのためにエホバをどのように讃えても讃えきれるものではないというユダヤ的な考え方は、ヒン ドゥー教や仏教にこれを求めてもむだであろう。なぜなら、新約聖書には、インド的知恵の精神が、は るかな熱帯の原野からいくたの山河を越えて吹いてくる花の香りのように感知されるけれども、旧約聖 書では、インド的知恵に適合するものは人類堕落論以外にはなにものもないからだ。この堕落論は楽天観的 な有神論を修正するものとして、旧約聖書につけ加えられる必要があったのであり、じじつまた新約聖 書はこれを唯一の手がかりとして、堕落論に結びついたのである。 さてある種を徹底的に知るには、その類を知る必要があり、またその類そのものはふたたびその種 的様相においてのみ認識されるものだ。それと同様に、キリスト教を徹底的に理解しようとすれば、世 界否定的な二つの他の宗教、すなわちバラモン教と仏教を知る必要がある。しかも確実に、できるだけ 精密に知る必要があるのだ。というのは、サンスクリットがギリシア語とラテン語を真に徹底的に理解 する道をわれわれにひらいてくれるのと同様に、バラモン教と仏教こそ、キリスト教を真に理解する道 であるからだ。 http://hayabusa3.5ch.net/test/read.cgi/livemarket1/1447649673/503
504: 幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB [age] 2015/11/16(月) 21:04:13.15 ID:T9M70So/ いつか将来、インドの宗教に精通した聖書研究家があらわれて、キリスト教がインドの諸宗教と親縁 関係にあることをその特色をつうじて証明してくれるだろうという期待をさえいだいているわたしだ が、さしあたって次のような点を注意しておこう。ヤコブの手紙(三の六)に見られる「生存の車輪」 (逐語的には「発生の輪」)という表現は、昔から「解釈者にとっての十字架」つまり難問のひとつだっ た。ところが仏教では輪廻の車輪はきわめてありふれた概念である。アベル・レミュザの『仏国記』訳 二八頁には、「車輪は輪廻の象徴である。輪廻には円と同じように始めも終わりもないからである」と 書かれており、一七九頁には「車輪は仏教徒にはなじみの象徴である。その意味するところは、魂がさ まざまな形をとる生存の円のなかで、次から次へと移ってゆくということである」と見える。二八二頁 には、仏陀自身が「真理を悟らぬ者は、車輪の回転によって、生と死におちいるであろう」と述べてい る。われわれはビュルヌフの『仏教史序論』第一巻四三四頁に、次のような重要な個所を見いだす。 「彼は輪廻の車輪がどういう点にあるかを悟った。この車輪は動くと同時に動かないものであり、それ には五つの目じるしがあるのである。彼は世人がこの世にはいって行くあらゆる道を破壊することによ り、この道に対して勝利をおさめたのであった」と。スペンス・ハーディの『東洋の修道生活』(ロン ドン、一八五〇年)六頁には次のように読まれる。「車輪の回転のように、そこには死と生誕の規則正 しい継起がある。その道徳的原因は物への執着であるが、それをひき起こす原因は業なのである」と。 同書一九三頁および二三三頁参照。また『プラボード・チャンドロー・ダヤ』(第四幕・第三場)には、 「無知は、この死すべき存在の車輪をまわしている情念の源泉である」と見える。継起する諸世界が不 断に生じては消えてゆくことについて、ビルマ原典によるビュナカンの仏教の説明(『アジア研究』第 肋間一八一頁)には、『世界の連続的破壊と再生は、大きな車輪に似ている。この車輪においては、わ れわれは始めも終わりも認めることはできない」と言われている。(これより長い文章ではあるが、同 じ個所はサンジェルマーノの『ビルマ帝国解説』ローマ、一八三三年、七頁にもる。) グラウル専門語辞典によると、Hansa とは Saniassi の同義語である。――Johannes (これからドイ ツ語では Hans がつくられる)という名前は Hansa という語(およびその砂漠における隠遁生活)と 奸計が或るのではあるまいか。―― 仏教が外面的に、たまたまキリスト教と類似しているひとつの点は、仏教がその発生地では優勢では ないことで、つまりどちらも「予言者は自分の故郷では敬われないものだ」と言わざるをえないことだ。 キリスト教がインドのいろいろな教えと一致していることを説明するために、あらゆる推測をほしい ままにするなら、エジプトへの逃避という福音書の覚え書の根底にはなにか史実があって、イエスがイ ンド起源の宗教をもつエジプトの僧侶たちによって教育され、彼らからインド的倫理と降化の概念を受 けいれ、のちに故国に帰ってからこれをユダヤの教義に適合させ、古い幹に接木しようと努めたのだ、 と仮定できるかもしれない。イエスは、自分が道徳的にも知的にもすぐれているという気持ちに駆られ て、ついに自分自身を一個の降化者と見るようになり、したがって自分を「人の子」とよび、ただの人 間以上の存在であることを暗示しようとしたのではあるまいか。一般に物それ自体としての意志には全 能の力があり、それはわれわれも動物磁気やこれに類する魔術的作用などから知っているところだが、 イエスもその意志が強固で純粋であったために、この全能の力によって、いわゆる奇蹟を行なうこと、 つまり意志の形而上学的感化を使って働きかけることができたのだとさえ考えられるであろう。この場 合にもやはりエジプトの僧侶たちの教育が役に立ったのであろう。そしてこうした奇蹟のかずかずを、 のちに伝説が拡大・増大したわけであろう。 http://hayabusa3.5ch.net/test/read.cgi/livemarket1/1447649673/504
505: 幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB [age] 2015/11/16(月) 21:04:37.23 ID:T9M70So/ というのは、本来の奇蹟というものは、どんな場合も、自然が自分自身にあたえる一種の否認であるは ずだからだ。ところで、パウロの主要な手紙はなんといってもほんとうのものであるにちがいないが、 そのパウロがしばらくまえに死んだばかりの人を、したがってその同時代者がたくさんまだ生きている という状況下で、どうして大まじめに受肉して人間となった神であり、世界創造者と同じものであると 説明できたかは、そういう前提のもとで、はじめていくらかのみこめるものになる。普通ならば、この 種の、またこの程度の、まじめに考えられた神化が徐々に熟してゆくには、何世紀もかかるはずだから だ。しかし他方ではパウロの手紙一般の真正さに対する反証を、ここから引き出してくることもできよう。 一般にわれわれの福音書の根底には、なんらかの原典、あるいはすくなくともイエス自身の時代と環 境に由来する断片ぐらいはあったと思われる。わたしがこういうことを推定するのは、世界の終末がお とずれて、主なる神が雲のなかに輝かしく再臨されるという、はなはだ不快な予言が行なわれており、 しかもそれは、この約束に立ち会った二、三の人びとがまだ生きているうちに実現するはずになってい た点からなのだ。ところがこの約束がいつまでたっても果たされなかったことは、じつに困った事情 で、後世になって物議をかもしただけでなく、すでにパウロやペテロも困りぬいていたのだ。このこと はライマールスのすぐれた著書『イエスとその使徒たちの目的について』第四二節から第四四節にかけ て詳論されているところである。さてもし福音書が約百年もたってから、当時存した記録もなしに著作 されたとしたら、それが実現しないことが不快にもすでに明白になっていたこの種の予言を福音書のな かにもちこまないような作者たちは気をつけただろうと推定されるのである。同様に、ライマールスが明 敏にも使徒たちの最初の体系と名づけているものにあたるあの個所を福音書に挿入することもなかった であろう。この体系に従えば、イエスは彼ら使徒たちにとって、ただ俗世における一介のユダヤ人解放 者にすぎなかったのだ。 こういう挿入がなされたというのも、福音書の起草者たちが、こうした個所をふくむ同時代のいろいろな 記録ををもとにして仕事をしたからだと思われるのだ。というのは、信者たちのあいだで口伝えにつたえら れていた伝説でさえも、信仰に不都合をきたすようなことは落としてしまったと想定されるからだ。ついで ながら、ライマールスが彼の仮設にとくに好都合な個所をいろいろ見落としているのは不可解だ。たとえば ヨハネ一一の四八(この個所を一の五〇、六の一五と比較すること)、マタイ二七の二八ー三〇、ルカ二三 の一ー四、三七、三八、ヨハネ一九ー二二である。しかし、この仮説を真剣に妥当・貫徹させようと思うな らば、次のような想定が必要となるだろう。すなわち、キリスト教の宗教的・道徳的内容は、ヒンドゥー教 や仏教の教義に精通したアレクサンドレイアのユダヤ人たちによってつくりあげられたのではないか、そこ へひとりの政治的英雄が悲しい運命を背負って現われたので、もともと後世のメシアであったものを天上的 な救世主につくりかえることによって、これらの教義の結び目にされたという想定である。もちろんこの想 定は矛盾する点が非常に多い。しかし福音書の物語を解明するためにシュトラウスが提示した神話の原理は、 すくなくともその細部に対しては、たしかに正しい。それにしても、この原理がどこまで及ぶかをきめるこ とは、むつかしいであろう。一般に神話的物語がどういう事情にあるかは、もう少し手近な疑義の少ない実 例について明らかにしなければならない。たとえば中世全般にわたって、フランスでもイギリスでも、アー サー王はきわめて事蹟の多い、驚くべき人物ではあるが、輪郭ははっきりしており、いつも同じ性格をもっ て、同一の従者を伴って登場する。王の円卓やそれを囲む騎士たち、王のかずかずの前代未聞の英雄的行為、 その風変わりな執事、その不貞な妃、妃の愛人ランスローなどといったお膳立てで、この王は何世紀もの詩 人たちや物語作者のおきまりの主題になっているが、これらの作者たちはすべて同じ性格をもったもろもろ の同一人物を登場させており、事件の点でもかなり一致しているのである。ただ服装や習慣の点では、作者 自身のそのつどの時代に応じて、相互にひどく違っているだけの話だ。 http://hayabusa3.5ch.net/test/read.cgi/livemarket1/1447649673/505
506: 幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB [age] 2015/11/16(月) 21:04:59.78 ID:T9M70So/ ところで数年前、フランスの内閣は、アーサー王の伝説の起源をしらべるために、ド・ラ・ヴィルマルク氏 をイギリスへ派遣した。そのときの結果は、伝説の根底にある事実については、次のようなことであった。す なわち、六世紀の始め、ウェールズにアーサーという名の小領主がいて、侵入してきたサクソン人と根気よく 戦ったけれども、そのささいな事蹟は忘れられてしまった、というのである。してみると、この男が、どうし てだかわからないが、幾世紀もつうじて無数の歌謡・物語詩・物語のうちに讃えられてきたあの輝かしい人物 になったわけなのだ。ヴィルマルケ著『古代ブルターニュの民話。アーサー王の円卓にまつわる叙事詩の起源 についての試論付』(二巻、一八四二年)を見られたい。この『アーサー王伝』では、アーサーは霧のなかの 人物のようにぼんやりとした遠くはるかな存在としてあらわれているが、それでも現実的な核心がないわけで はない。――中世紀全体をつうじての英雄であるロランについても、事情はほとんど同じである。ロランも無 数の歌謡・叙事詩・物語で讃えられ、さらにロランの甲冑騎士柱像によって称揚され、ついにアリオストにま でもその素材を提供して、この作品から変容して復活するようになったのである。ところでロランについては、 歴史はたった一回、たまたま、しかも三語をもって言及しているにすぎない。すなわち、アインハルトが彼ロ ランをロンセスヴァリエスに滞在した名士のなかに「ブリテン王辺疆伯」(Britannici limitis praefectus) たるロードランドゥスとして数えあげているのだ。そしてこれがわれわれのロランについて知っているすべて であることは、ちょうどイエス・キリストについてほんとうにわれわれの知っていることが、タキトゥス (『年代記』第一五巻・第四四章)の一個所につきるのと同様なのだ。別の例を示すものに、世界的に有名な スペイン人シッドがある。 多くの伝説や年代記、とりわけあの有名なすばらしい『ロマンツェーロ』におさめられている民謡、はて はコルネイユの最上の悲劇までが彼を讃美しており、しかも主要事件については、とくに妻になったシメ ーネのことではだいたいにおいて一致している。ところがわずかな歴史的資料が彼について伝えているこ とは、彼はなるほど勇敢な騎士、すぐれた将軍ではあったが、非常に残酷・不実な性格の持ち主であり、 それどころか、ときによって仕える党派を変え、キリスト教徒に奉仕するよりもむしろサラセン人に味方 するほうが多かったような節操のない人物であり、それはまるで一介の傭兵隊長に類するが、シメーネの ひとりと結婚している、といったこと以上に出ないのである。こうしたことの詳細は、はじめて正しい 典拠に行きついたと思われるドージの『スペイン史研究』(一八四九年)第一巻から知ることができる。 ――イリアスの歴史的根拠ははたして何であろうか?――じっさい、こうした問題の実態につきあた るには、ニュートンのりんごの逸話を念願におくがよいのだ。この話に根拠がないことについては、わ たしはすでに第八六節で説明したとおりなのだが、それでも何千という本でくりかえされているところ で、現にオイラーさえも、『皇女あての書簡』の第一巻で、麗々しく述べたてているのだ。――およそ歴 史的事実はたいせつにすべきものである以上、残念ながら現状に見られるように、われわれは大嘘つき であってはなるまい。 http://hayabusa3.5ch.net/test/read.cgi/livemarket1/1447649673/506
507: 山師さん@トレード中 [sage] 2015/11/16(月) 21:05:01.49 ID:3Z8BTbwS イオン系のお見合い紹介所に登録して下さらないと運命の出逢いが実現しませんわ!! http://hayabusa3.5ch.net/test/read.cgi/livemarket1/1447649673/507
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