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雑談 襟裳岬 [無断転載禁止]©2ch.net (1002レス)
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657: Mr.名無しさん [] 2017/06/20(火) 22:25:11.80 【神奈川】「卒業記念」にアダルトグッズ贈る 外部講師が中学生に 有害玩具贈与の疑いで書類送検 横浜市★2 [無断転載禁止]©2ch.net http://mint.5ch.net/test/read.cgi/male/1497334233/657
658: Mr.名無しさん [] 2017/06/20(火) 22:25:29.53 たまにヒカルさんが邪魔に感じるわ http://mint.5ch.net/test/read.cgi/male/1497334233/658
659: Mr.名無しさん [] 2017/06/20(火) 22:25:31.05 毎日新聞 7月26日(土)7時30分配信 長崎に原爆が投下された1945年8月9日、米軍爆撃機B29の来襲に備え、福岡県八幡市(現北九州市)の八幡製鉄所で「コールタールを燃やして煙幕を張った」と、 製鉄所の元従業員が毎日新聞に証言した。 米軍は当初、小倉市(同)を原爆投下の第1目標としていたが、視界不良で長崎に変更。視界不良の原因は前日の空襲の煙とされてきたが、専門家は「煙幕も一因になった可能性がある」と指摘する。 ◇米軍機「視界不良」の一因か 「煙幕作戦」はこれまで、長崎の被爆者への配慮などから関係者も公言せず、実態がほとんど知られていなかった。 だが、戦後69年がたち、当時を知る生存者も減る中、八幡製鉄所(現新日鉄住金)の元従業員ら3人が証言を決断した。 このうち、太平洋戦争末期に製鉄所構内の堂山製缶工場で働いていた大分市在住の宮代暁(さとる)さん(85)が、実際に「煙幕を張った」と証言した。 8月9日は工場隣の木造事務所におり、ラジオで「少数機編隊が北上中」と聞き、その後、敵機襲来の警報と同時に上司に命じられ煙幕装置に点火。 大量の黒煙が上がったのを確認して地下壕(ごう)に避難した。B29が去って事務所に戻ると「長崎が新型爆弾で攻撃された模様」という放送があったという。 宮代さんによると、従業員たちは、8月6日に広島市が「新型爆弾(原爆)」で壊滅したことを広島経由で八幡に戻った同僚から7日ごろに聞いていた。 北九州には八幡製鉄所のほか兵器工場などもあり、「次はこっちだと考えていた」と言う。 工藤洋三・元徳山高専教授が収集した米軍資料によると、原爆を積んだ2機は9日午前9時55分、小倉上空に到達。 原爆投下を3回試みたが、目標が「もやと煙」で見えず、第2目標の長崎の攻撃を決定し、10時58分に投下した。 一方、旧防衛庁の「戦史叢書(そうしょ)」によると西部軍管区司令部は7時48分に警戒警報、7時50分に空襲警報を発令。宮代さんが煙幕を張ったのはこの時とみられる。 八幡製鉄所構内の煙幕装置は、宮代さん以外の2人の元従業員らも目撃。取材に「半分に輪切りにしたドラム缶にコールタールを入れたものが並んでいた」などと話した。 コールタールは製鉄所で出る副産物で、燃やすと黒煙を上げる。 下関地方気象台(山口県)の記録では9日午前10時は晴れ。関門海峡を隔てた小倉方面は視界がわずかにかすむ「弱い煙霧」だった。 北九州市史は、原爆投下を妨げた「もやと煙」について「雲だけではなく、前日(8日朝)の八幡空襲で生じた煙が風向きによって小倉方面を覆った」とするが、根拠は示していない。 「空襲後の夕立で翌日まで煙は残っていなかった」との市民の証言もある。 八幡空襲を調査する藤澤秀雄・長崎大名誉教授(80)は「煙幕が空襲の煙や灰、前日の夕立による水蒸気と混ざり、視界を防いだ可能性はある。 広島が攻撃された情報を独自に入手した従業員たちが、警戒を強めていたという事実も注目に値する」と話している。 ◇69年の苦悩告白 鉄都・八幡で展開された「煙幕作戦」。小倉への原爆投下見送りにどの程度影響したかは明らかでないが、第2目標の長崎では約15万人が被爆直後に死傷した。 作戦に携わった人たちは、語ることもできず、心に重荷を抱えて戦後69年間を生きてきた。 「煙幕で長崎の人たちに迷惑をかけることになったんじゃないかという気持ちが、ずっとあった」。装置に火を付けた宮代暁さんは、つらそうな表情で話した。 長女の工藤由美子さん(56)は「私たちには幼いころから煙幕について聞かせてくれたが、長崎の犠牲者を考えると公言できなかったのでは」と父の胸中を思いやる。 製鉄所内の発電施設で働いていた福岡県福津市の田坂忠雄さん(92)は、北門付近から構内の線路沿いに並ぶドラム缶の煙幕装置を目撃していた。 「日にちは覚えていないが、煙を見た記憶もある」と振り返る。 学徒動員で構内の工場に通っていた北九州市八幡西区の山元勉さん(85)も「ドラム缶が置かれ、(燃やすための)コールタールが入っていた」と存在を記憶していた。 「敵機接近を知らせる警報が鳴ると火をつける」と聞かされていたという。 http://mint.5ch.net/test/read.cgi/male/1497334233/659
660: Mr.名無しさん [] 2017/06/20(火) 22:25:33.80 「安楽死」プログラムの拡大 安楽死立案者は、殺戮プログラムを施設に入所している成人障害患者まで拡大する構想を短期間のうちに立てました。 1939年秋、アドルフ・ヒトラーは、このプログラムに参加する医師、医療担当者、および管理者を起訴から保護するための秘密の権限付与に署名しました。 この権限付与は、1939年9月1日に遡って発効され、同プログラムの取り組みは戦時中の政策に関連するものだと示唆しました。 総統官邸は外部から孤立していて規模が小さく、国家組織、政府組織、またはナチ党組織とは分離しているため、ヒトラーは総統官邸を「安楽死」作戦の原動力としました。 官邸職員はその秘密の企てを「T4」と呼びました。 この名称は、ベルリンにあった同プログラム本部の所在地住所、 Tiergartenstrasse 4(ティーアガルテン通り4番地)から付けられました。 ヒトラーの指示に従い、総統官邸長官のフィリップ・ボウラーと医師のカール・ブラントが虐殺作戦の指揮官を務めました。 彼らの指揮下で、T4作戦員は「安楽死」作戦の一環として、 ベルリン近郊ハーフェル川沿いのブランデンブルク、ドイツ南西部のグラーフェネック、 サクソニーにあるベルンブルクとゾネンシュタイン、オーストリアのドナウ川沿いリンツ近郊ハルトハイム、およびヘッセンのハーダマーに、6つのガス施設を設置しました。 子供の「安楽死」プログラムで開発された方法を使って、T4立案者は1939年秋から、すべての公衆衛生担当官、公立および私立病院、精神科病院、および慢性患者や高齢者向けの養護施設に注意深く定式化された質問票を配布し始めました。 質問票の限られた記入欄と表現、添え状に記載された指示は、統計的データを収集するためのアンケートといった印象を与えました。 質問票の悪質な目的が暗示されているのは、患者の就労能力に重点が置かれていること、また医療当局に 統合失調症、てんかん、認知症、脳炎、およびその他の慢性的な精神疾患や神経疾患を患う個人、 ドイツ人またはドイツ人に「関連する」血統を持たない個人、精神に異常のある犯罪者、または犯罪を犯した個人、および5年を超えて療養施設に監禁されていた個人を特定することが義務付けられている点のみでした。 秘密裏に採用された定評の高い数多くの「医療専門家」や医師が3人1組で質問票を評価しました。 1940年1月の初め、これらの医師たちの決定に基づき、T4作戦員は「安楽死」プログラムに選ばれた患者を自宅や療養施設から連行し、バスまたは列車で殺害のため集中ガス施設に移送しました。 これらの施設に到着後数時間以内に、被害者はシャワー室だと偽られ、特別に設計されたガス室内で純粋な一酸化炭素ガスを使って殺害されました。 その後、T4作戦員はガス施設に隣接する遺体焼却炉で遺体を焼却しました。 その他の職員は一緒にされた遺灰の山から火葬された犠牲者の遺灰を骨壷に入れ、犠牲者の遺族に送りました。 犠牲者の遺族や後見人は、その骨壷と共に架空の死因と死亡日が記載された死亡証明書やその他の書類を受けとったのです。 このプログラムは秘密裏に行われたため、T4の立案者と担当職員はその殺害を意図した仕組みを隠すため、巧妙な手段を講じました。 すべてのケースにおいて、犠牲者の死が自然死であったことを示すために医師と療養施設管理者が公式記録を改ざんしましたが、「安楽死」プログラムはすぐに公然の秘密になりました。 政策が一般に広く知られていたこと、また殺害に関する民間および政府内からの抗議、特にドイツ人聖職者からの反対が続き、ヒトラーは1941年8月後半に安楽死プログラムの中止を命令しました。 T4独自の内部情報によると、「安楽死」プログラムにより、1940年1月から1941年8月までに6つのガス施設において、療養施設に収容されていた70,273人もの心身障害者の命が奪われました。 http://mint.5ch.net/test/read.cgi/male/1497334233/660
661: Mr.名無しさん [] 2017/06/20(火) 22:25:57.31 >>660 ゴミ邪魔だって http://mint.5ch.net/test/read.cgi/male/1497334233/661
662: Mr.名無しさん [] 2017/06/20(火) 22:25:57.71 「安楽死」プログラムの拡大 安楽死立案者は、殺戮プログラムを施設に入所している成人障害患者まで拡大する構想を短期間のうちに立てました。 1939年秋、アドルフ・ヒトラーは、このプログラムに参加する医師、医療担当者、および管理者を起訴から保護するための秘密の権限付与に署名しました。 この権限付与は、1939年9月1日に遡って発効され、同プログラムの取り組みは戦時中の政策に関連するものだと示唆しました。 総統官邸は外部から孤立していて規模が小さく、国家組織、政府組織、またはナチ党組織とは分離しているため、ヒトラーは総統官邸を「安楽死」作戦の原動力としました。 官邸職員はその秘密の企てを「T4」と呼びました。 この名称は、ベルリンにあった同プログラム本部の所在地住所、 Tiergartenstrasse 4(ティーアガルテン通り4番地)から付けられました。 ヒトラーの指示に従い、総統官邸長官のフィリップ・ボウラーと医師のカール・ブラントが虐殺作戦の指揮官を務めました。 彼らの指揮下で、T4作戦員は「安楽死」作戦の一環として、 ベルリン近郊ハーフェル川沿いのブランデンブルク、ドイツ南西部のグラーフェネック、 サクソニーにあるベルンブルクとゾネンシュタイン、オーストリアのドナウ川沿いリンツ近郊ハルトハイム、およびヘッセンのハーダマーに、6つのガス施設を設置しました。 子供の「安楽死」プログラムで開発された方法を使って、T4立案者は1939年秋から、すべての公衆衛生担当官、公立および私立病院、精神科病院、および慢性患者や高齢者向けの養護施設に注意深く定式化された質問票を配布し始めました。 質問票の限られた記入欄と表現、添え状に記載された指示は、統計的データを収集するためのアンケートといった印象を与えました。 質問票の悪質な目的が暗示されているのは、患者の就労能力に重点が置かれていること、また医療当局に 統合失調症、てんかん、認知症、脳炎、およびその他の慢性的な精神疾患や神経疾患を患う個人、 ドイツ人またはドイツ人に「関連する」血統を持たない個人、精神に異常のある犯罪者、または犯罪を犯した個人、および5年を超えて療養施設に監禁されていた個人を特定することが義務付けられている点のみでした。 秘密裏に採用された定評の高い数多くの「医療専門家」や医師が3人1組で質問票を評価しました。 1940年1月の初め、これらの医師たちの決定に基づき、T4作戦員は「安楽死」プログラムに選ばれた患者を自宅や療養施設から連行し、バスまたは列車で殺害のため集中ガス施設に移送しました。 これらの施設に到着後数時間以内に、被害者はシャワー室だと偽られ、特別に設計されたガス室内で純粋な一酸化炭素ガスを使って殺害されました。 その後、T4作戦員はガス施設に隣接する遺体焼却炉で遺体を焼却しました。 その他の職員は一緒にされた遺灰の山から火葬された犠牲者の遺灰を骨壷に入れ、犠牲者の遺族に送りました。 犠牲者の遺族や後見人は、その骨壷と共に架空の死因と死亡日が記載された死亡証明書やその他の書類を受けとったのです。 このプログラムは秘密裏に行われたため、T4の立案者と担当職員はその殺害を意図した仕組みを隠すため、巧妙な手段を講じました。 すべてのケースにおいて、犠牲者の死が自然死であったことを示すために医師と療養施設管理者が公式記録を改ざんしましたが、「安楽死」プログラムはすぐに公然の秘密になりました。 政策が一般に広く知られていたこと、また殺害に関する民間および政府内からの抗議、特にドイツ人聖職者からの反対が続き、ヒトラーは1941年8月後半に安楽死プログラムの中止を命令しました。 T4独自の内部情報によると、「安楽死」プログラムにより、1940年1月から1941年8月までに6つのガス施設において、療養施設に収容されていた70,273人もの心身障害者の命が奪われました。 http://mint.5ch.net/test/read.cgi/male/1497334233/662
663: Mr.名無しさん [] 2017/06/20(火) 22:26:07.83 1943年(昭和18年)3月18日、南東方面艦隊(司令長官草鹿任一中将)の指揮下で行動中、ニューギニアの戦いにおいて日本軍が進出したニューギニア島東部(東部ニューギニア)から、 一大拠点であるニューブリテン島ラバウルへ向け現地の在住民間人(女子供を含む各国の民間人)を「秋風」にて移送中、秋風艦上において乗員がその全員を処刑・虐殺した戦争犯罪 太平洋戦争における日本海軍・アメリカ海軍(連合軍)は、双方とも洋上における虐殺事件を多数引き起こしているが、「秋風」艦上において処刑された被害者は漂流中の軍人や民間人ではなく、 かつ子供をも含むためそれらとは性格を異にする。経過は以下のとおり。 北東部ニューギニアは古くはドイツ植民地帝国の植民地であり(ドイツ領ニューギニア、第一次世界大戦によるドイツ敗戦以降は同島南東部を領有していたオーストラリアの委任統治領となる)、 現地には宣教師や農園主等としてドイツ人ら欧米各国人が入植していた。当時、ラバウル方面の作戦全般を指揮していた南東方面艦隊(司令長官草鹿任一中将、参謀長中原義正少将)は、 東部ニューギニア・中部ソロモンの防備をかためるため航空基地整備を企図しており、3月9日に「南東方面基地設営計画」、14日に「南東方面基地整備計画」を発令し、 4月15日を目標に21ヶ所の陸上基地(新設10)・12ヶ所の水上機基地(新設6)を整備しようとしていた。 被害者の内訳は以下の通り。 カイリルー島の26名(修道士12名、修道女11名、2〜7歳の中国人児童3名) マヌス島の40名(神父と修道女各3名、ドイツ人宣教師夫妻2組と子供1名、ドイツ人農園主2名、中国人2名と原住民3名) ほか、少なくとも5名のオランダ人、1名のハンガリー人、1名のアメリカ人 戦後、連合国は本事件を調査。「秋風」が所属していた当時の第八艦隊司令長官三川軍一海軍中将および、参謀長大西新蔵海軍少将をB級戦犯に指名、1947年(昭和22年)1月に拘束した。 事件当時の秋風艦長である佐部鶴吉海軍少佐以下主要士官は1943年(昭和18年)8月に秋風大破時に戦死、また「秋風」自体も乗員諸共に戦没(事件当時の秋風乗組員は転勤のため生存者がいる)、 裁判の焦点は事件当時の「秋風」所属および命令元となった。 裁判において第二復員省および草鹿任一(当時の南東方面艦隊司令長官)や第八艦隊関係者は事件当時の「秋風」が 第八艦隊(三川長官、大西参謀長)の指揮下にあったと主張。 これに対し三川・大西の両名は、事件当時の「秋風」が南東方面艦隊(司令長官草鹿任一中将)の指揮下、 南東方面艦隊の命令を受けて行動していたと反論する(両名の主張が正しかった場合、草鹿任一元中将が秋風事件の戦犯となる)。 当時の軍隊区分において、「秋風」は南東方面艦隊/第十一航空艦隊(第八艦隊の上部組織)附属であるため、第八艦隊とは別の命令系統に所属していた。 また1943年3月〜4月のラバウル方面は、第81号作戦(ビスマルク海海戦)や『い号作戦』実施のため、連合艦隊、南東方面艦隊(第十一航空艦隊)、第三艦隊、第八艦隊、 日本陸軍の指揮系統が複雑に絡み合っていた。 1948年(昭和23年)10月上旬、小口茂秋風機関長や秋風乗組員等が被告側の証人となる。10月15日、土肥一夫(海軍兵学校54期)は南東方面艦隊の戦時日誌を裁判に提出。 これにより虐殺事件時の「秋風」が南東方面艦隊(司令長官草鹿任一中将。第十一航空艦隊司令長官兼務)の命令を受けていたことが明らかになる。 同年10月18日、三川と大西の2名は起訴却下となった。 大西は、冷戦によりアメリカの対日政策がかわり、草鹿が起訴される恐れがなくなったことが、第二復員省による南東方面艦隊の戦時日誌提出につながったと推測している。 なお秋風事件当時の連合艦隊参謀長宇垣纏少将(終戦時に特攻で死亡)が記録していた陣中日誌「戦藻録」は太平洋戦争の第一級資料だが、 同日誌は黒島亀人(当時連合艦隊先任参謀)が電車に置き忘れたことにより、1943年(昭和18年)1月から3月分(秋風事件前後)の日誌が欠如している。 ソロモン作戦の後期、日本軍は電波探知により諜報網を検挙、スパイとみなしたドイツ人、オーストラリア人、豪州人等、現地人、すくなくとも60名以上を駆逐艦の甲板上で処刑したという。 しかし、伊藤はこの駆逐艦の艦名については言及しておらず、また処刑された民間人集団がスパイ・沿岸監視員だったという証拠もないが、スパイではなかったとする証拠もない。 なお彼らの子供も処刑されている。 http://mint.5ch.net/test/read.cgi/male/1497334233/663
664: Mr.名無しさん [] 2017/06/20(火) 22:26:08.79 粉おじ死ねよ http://mint.5ch.net/test/read.cgi/male/1497334233/664
665: Mr.名無しさん [] 2017/06/20(火) 22:26:19.58 じゃあ殺せよ!! http://mint.5ch.net/test/read.cgi/male/1497334233/665
666: Mr.名無しさん [] 2017/06/20(火) 22:26:32.81 悠 木 碧 の お し っ こ 飲 み た い ん だ わ http://mint.5ch.net/test/read.cgi/male/1497334233/666
667: Mr.名無しさん [] 2017/06/20(火) 22:26:53.21 rikashiikiヘアメイクの高橋有紀さんがプロデュースするアクセサリーの展示会に行ってきました??超ひさびさのポニーテール?? https://www.instagram.com/p/BVhuwjSAfab/ http://scontent-nrt1-1.cdninstagram.com/t51.2885-15/e35/19366963_1263550903772914_8039884744650915840_n.jpg http://mint.5ch.net/test/read.cgi/male/1497334233/667
668: Mr.名無しさん [] 2017/06/20(火) 22:27:10.21 「安楽死」プログラムの拡大 安楽死立案者は、殺戮プログラムを施設に入所している成人障害患者まで拡大する構想を短期間のうちに立てました。 1939年秋、アドルフ・ヒトラーは、このプログラムに参加する医師、医療担当者、および管理者を起訴から保護するための秘密の権限付与に署名しました。 この権限付与は、1939年9月1日に遡って発効され、同プログラムの取り組みは戦時中の政策に関連するものだと示唆しました。 総統官邸は外部から孤立していて規模が小さく、国家組織、政府組織、またはナチ党組織とは分離しているため、ヒトラーは総統官邸を「安楽死」作戦の原動力としました。 官邸職員はその秘密の企てを「T4」と呼びました。 この名称は、ベルリンにあった同プログラム本部の所在地住所、 Tiergartenstrasse 4(ティーアガルテン通り4番地)から付けられました。 ヒトラーの指示に従い、総統官邸長官のフィリップ・ボウラーと医師のカール・ブラントが虐殺作戦の指揮官を務めました。 彼らの指揮下で、T4作戦員は「安楽死」作戦の一環として、 ベルリン近郊ハーフェル川沿いのブランデンブルク、ドイツ南西部のグラーフェネック、 サクソニーにあるベルンブルクとゾネンシュタイン、オーストリアのドナウ川沿いリンツ近郊ハルトハイム、およびヘッセンのハーダマーに、6つのガス施設を設置しました。 子供の「安楽死」プログラムで開発された方法を使って、T4立案者は1939年秋から、すべての公衆衛生担当官、公立および私立病院、精神科病院、および慢性患者や高齢者向けの養護施設に注意深く定式化された質問票を配布し始めました。 質問票の限られた記入欄と表現、添え状に記載された指示は、統計的データを収集するためのアンケートといった印象を与えました。 質問票の悪質な目的が暗示されているのは、患者の就労能力に重点が置かれていること、また医療当局に 統合失調症、てんかん、認知症、脳炎、およびその他の慢性的な精神疾患や神経疾患を患う個人、 ドイツ人またはドイツ人に「関連する」血統を持たない個人、精神に異常のある犯罪者、または犯罪を犯した個人、および5年を超えて療養施設に監禁されていた個人を特定することが義務付けられている点のみでした。 秘密裏に採用された定評の高い数多くの「医療専門家」や医師が3人1組で質問票を評価しました。 1940年1月の初め、これらの医師たちの決定に基づき、T4作戦員は「安楽死」プログラムに選ばれた患者を自宅や療養施設から連行し、バスまたは列車で殺害のため集中ガス施設に移送しました。 これらの施設に到着後数時間以内に、被害者はシャワー室だと偽られ、特別に設計されたガス室内で純粋な一酸化炭素ガスを使って殺害されました。 その後、T4作戦員はガス施設に隣接する遺体焼却炉で遺体を焼却しました。 その他の職員は一緒にされた遺灰の山から火葬された犠牲者の遺灰を骨壷に入れ、犠牲者の遺族に送りました。 犠牲者の遺族や後見人は、その骨壷と共に架空の死因と死亡日が記載された死亡証明書やその他の書類を受けとったのです。 このプログラムは秘密裏に行われたため、T4の立案者と担当職員はその殺害を意図した仕組みを隠すため、巧妙な手段を講じました。 すべてのケースにおいて、犠牲者の死が自然死であったことを示すために医師と療養施設管理者が公式記録を改ざんしましたが、「安楽死」プログラムはすぐに公然の秘密になりました。 政策が一般に広く知られていたこと、また殺害に関する民間および政府内からの抗議、特にドイツ人聖職者からの反対が続き、ヒトラーは1941年8月後半に安楽死プログラムの中止を命令しました。 T4独自の内部情報によると、「安楽死」プログラムにより、1940年1月から1941年8月までに6つのガス施設において、療養施設に収容されていた70,273人もの心身障害者の命が奪われました。 http://mint.5ch.net/test/read.cgi/male/1497334233/668
669: Mr.名無しさん [] 2017/06/20(火) 22:27:24.55 ゴミスレが上がってるな http://mint.5ch.net/test/read.cgi/male/1497334233/669
670: Mr.名無しさん [] 2017/06/20(火) 22:27:36.97 「安楽死」プログラムの拡大 安楽死立案者は、殺戮プログラムを施設に入所している成人障害患者まで拡大する構想を短期間のうちに立てました。 1939年秋、アドルフ・ヒトラーは、このプログラムに参加する医師、医療担当者、および管理者を起訴から保護するための秘密の権限付与に署名しました。 この権限付与は、1939年9月1日に遡って発効され、同プログラムの取り組みは戦時中の政策に関連するものだと示唆しました。 総統官邸は外部から孤立していて規模が小さく、国家組織、政府組織、またはナチ党組織とは分離しているため、ヒトラーは総統官邸を「安楽死」作戦の原動力としました。 官邸職員はその秘密の企てを「T4」と呼びました。 この名称は、ベルリンにあった同プログラム本部の所在地住所、 Tiergartenstrasse 4(ティーアガルテン通り4番地)から付けられました。 ヒトラーの指示に従い、総統官邸長官のフィリップ・ボウラーと医師のカール・ブラントが虐殺作戦の指揮官を務めました。 彼らの指揮下で、T4作戦員は「安楽死」作戦の一環として、 ベルリン近郊ハーフェル川沿いのブランデンブルク、ドイツ南西部のグラーフェネック、 サクソニーにあるベルンブルクとゾネンシュタイン、オーストリアのドナウ川沿いリンツ近郊ハルトハイム、およびヘッセンのハーダマーに、6つのガス施設を設置しました。 子供の「安楽死」プログラムで開発された方法を使って、T4立案者は1939年秋から、すべての公衆衛生担当官、公立および私立病院、精神科病院、および慢性患者や高齢者向けの養護施設に注意深く定式化された質問票を配布し始めました。 質問票の限られた記入欄と表現、添え状に記載された指示は、統計的データを収集するためのアンケートといった印象を与えました。 質問票の悪質な目的が暗示されているのは、患者の就労能力に重点が置かれていること、また医療当局に 統合失調症、てんかん、認知症、脳炎、およびその他の慢性的な精神疾患や神経疾患を患う個人、 ドイツ人またはドイツ人に「関連する」血統を持たない個人、精神に異常のある犯罪者、または犯罪を犯した個人、および5年を超えて療養施設に監禁されていた個人を特定することが義務付けられている点のみでした。 秘密裏に採用された定評の高い数多くの「医療専門家」や医師が3人1組で質問票を評価しました。 1940年1月の初め、これらの医師たちの決定に基づき、T4作戦員は「安楽死」プログラムに選ばれた患者を自宅や療養施設から連行し、バスまたは列車で殺害のため集中ガス施設に移送しました。 これらの施設に到着後数時間以内に、被害者はシャワー室だと偽られ、特別に設計されたガス室内で純粋な一酸化炭素ガスを使って殺害されました。 その後、T4作戦員はガス施設に隣接する遺体焼却炉で遺体を焼却しました。 その他の職員は一緒にされた遺灰の山から火葬された犠牲者の遺灰を骨壷に入れ、犠牲者の遺族に送りました。 犠牲者の遺族や後見人は、その骨壷と共に架空の死因と死亡日が記載された死亡証明書やその他の書類を受けとったのです。 このプログラムは秘密裏に行われたため、T4の立案者と担当職員はその殺害を意図した仕組みを隠すため、巧妙な手段を講じました。 すべてのケースにおいて、犠牲者の死が自然死であったことを示すために医師と療養施設管理者が公式記録を改ざんしましたが、「安楽死」プログラムはすぐに公然の秘密になりました。 政策が一般に広く知られていたこと、また殺害に関する民間および政府内からの抗議、特にドイツ人聖職者からの反対が続き、ヒトラーは1941年8月後半に安楽死プログラムの中止を命令しました。 T4独自の内部情報によると、「安楽死」プログラムにより、1940年1月から1941年8月までに6つのガス施設において、療養施設に収容されていた70,273人もの心身障害者の命が奪われました。 http://mint.5ch.net/test/read.cgi/male/1497334233/670
671: Mr.名無しさん [] 2017/06/20(火) 22:27:37.01 ウンコーさんは荒らしてるとき頭の中真っ白になって何も考えられなくなると仰られていた http://mint.5ch.net/test/read.cgi/male/1497334233/671
672: Mr.名無しさん [] 2017/06/20(火) 22:27:42.43 >>665 死ねカス http://mint.5ch.net/test/read.cgi/male/1497334233/672
673: Mr.名無しさん [] 2017/06/20(火) 22:27:47.65 浜崎あゆみのデビュー曲聴いてる http://mint.5ch.net/test/read.cgi/male/1497334233/673
674: Mr.名無しさん [] 2017/06/20(火) 22:27:51.19 木村拓哉容疑者;; http://mint.5ch.net/test/read.cgi/male/1497334233/674
675: Mr.名無しさん [] 2017/06/20(火) 22:27:59.41 「安楽死」プログラムの拡大 安楽死立案者は、殺戮プログラムを施設に入所している成人障害患者まで拡大する構想を短期間のうちに立てました。 1939年秋、アドルフ・ヒトラーは、このプログラムに参加する医師、医療担当者、および管理者を起訴から保護するための秘密の権限付与に署名しました。 この権限付与は、1939年9月1日に遡って発効され、同プログラムの取り組みは戦時中の政策に関連するものだと示唆しました。 総統官邸は外部から孤立していて規模が小さく、国家組織、政府組織、またはナチ党組織とは分離しているため、ヒトラーは総統官邸を「安楽死」作戦の原動力としました。 官邸職員はその秘密の企てを「T4」と呼びました。 この名称は、ベルリンにあった同プログラム本部の所在地住所、 Tiergartenstrasse 4(ティーアガルテン通り4番地)から付けられました。 ヒトラーの指示に従い、総統官邸長官のフィリップ・ボウラーと医師のカール・ブラントが虐殺作戦の指揮官を務めました。 彼らの指揮下で、T4作戦員は「安楽死」作戦の一環として、 ベルリン近郊ハーフェル川沿いのブランデンブルク、ドイツ南西部のグラーフェネック、 サクソニーにあるベルンブルクとゾネンシュタイン、オーストリアのドナウ川沿いリンツ近郊ハルトハイム、およびヘッセンのハーダマーに、6つのガス施設を設置しました。 子供の「安楽死」プログラムで開発された方法を使って、T4立案者は1939年秋から、すべての公衆衛生担当官、公立および私立病院、精神科病院、および慢性患者や高齢者向けの養護施設に注意深く定式化された質問票を配布し始めました。 質問票の限られた記入欄と表現、添え状に記載された指示は、統計的データを収集するためのアンケートといった印象を与えました。 質問票の悪質な目的が暗示されているのは、患者の就労能力に重点が置かれていること、また医療当局に 統合失調症、てんかん、認知症、脳炎、およびその他の慢性的な精神疾患や神経疾患を患う個人、 ドイツ人またはドイツ人に「関連する」血統を持たない個人、精神に異常のある犯罪者、または犯罪を犯した個人、および5年を超えて療養施設に監禁されていた個人を特定することが義務付けられている点のみでした。 秘密裏に採用された定評の高い数多くの「医療専門家」や医師が3人1組で質問票を評価しました。 1940年1月の初め、これらの医師たちの決定に基づき、T4作戦員は「安楽死」プログラムに選ばれた患者を自宅や療養施設から連行し、バスまたは列車で殺害のため集中ガス施設に移送しました。 これらの施設に到着後数時間以内に、被害者はシャワー室だと偽られ、特別に設計されたガス室内で純粋な一酸化炭素ガスを使って殺害されました。 その後、T4作戦員はガス施設に隣接する遺体焼却炉で遺体を焼却しました。 その他の職員は一緒にされた遺灰の山から火葬された犠牲者の遺灰を骨壷に入れ、犠牲者の遺族に送りました。 犠牲者の遺族や後見人は、その骨壷と共に架空の死因と死亡日が記載された死亡証明書やその他の書類を受けとったのです。 このプログラムは秘密裏に行われたため、T4の立案者と担当職員はその殺害を意図した仕組みを隠すため、巧妙な手段を講じました。 すべてのケースにおいて、犠牲者の死が自然死であったことを示すために医師と療養施設管理者が公式記録を改ざんしましたが、「安楽死」プログラムはすぐに公然の秘密になりました。 政策が一般に広く知られていたこと、また殺害に関する民間および政府内からの抗議、特にドイツ人聖職者からの反対が続き、ヒトラーは1941年8月後半に安楽死プログラムの中止を命令しました。 T4独自の内部情報によると、「安楽死」プログラムにより、1940年1月から1941年8月までに6つのガス施設において、療養施設に収容されていた70,273人もの心身障害者の命が奪われました。 http://mint.5ch.net/test/read.cgi/male/1497334233/675
676: Mr.名無しさん [] 2017/06/20(火) 22:28:06.34 ゲームで主人公の性別女選ぶ奴wwwwwwwwww [無断転載禁止]©2ch.net [924331556] http://mint.5ch.net/test/read.cgi/male/1497334233/676
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