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雑談 襟裳岬 [無断転載禁止]©2ch.net (1002レス)
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631: Mr.名無しさん [] 2017/06/20(火) 22:21:42.07 またどこぞのネトウヨが無知蒙昧を振りまいて……と、思ったら作家の百田尚樹センセイであった。 「中国を偉大な国と勘違いさせる「漢文」の授業は廃止せよ」 「SAPIO」(小学館)5月号の「禁断の日本再生論」なる特集のなかで、百田が「対中政策の秘策」として寄稿した文章のタイトルがこれ。 いったい、このオッサンは漢文になんの恨みがあるのか? 読んでみると、これが予想以上に無教養・無知性の極みだったのである。 まず、百田に言わせれば、日本人には「中国の脅威」に対する危機感が足りず、それは「中国への漠然とした憧れ」が原因だという。 この「憧れ」は、『史記』や『三国志』はては「「中国4000年」という言葉」の影響で生まれた“中国は歴史的な文明国”との「誤解」に基づいているらしい。 百田は、そうした史書の読解力を身につける「漢文の授業」を諸悪の根源と見る。 〈そもそも、なぜ学校「漢文」の授業があるのか。英語と違って使う機会なんてないし、あれは趣味の世界だと思うんです。〉 “英語と違って使う機会がないのに”とは、日頃「売れない小説には意味がない」などと公言し、文化の価値を実益でしか測れない、 いかにも百田センセイらしい発想。さすが国立大の文系廃止方針を打ち出すなど経済効率優先で「文化」を破壊しようとする安倍首相のオトモダチだけのことはある。 反知性主義の極みだ。 しかし百田の主張はこれにとどまらない。百田はさらに「もともと中国文化は根本的に日本人には合いません」と断言。 “朝鮮半島は中国文化を無条件に受け入れたが日本は取捨選択をして「独自の文明」を築いた”と主張しついでに朝鮮半島まで攻撃したうえで、 再度、漢文をこう攻撃している。 〈それを考えれば、現在も中国に対する漠然とした憧れを持つことはやめるべきだし、そんな勘違いを育む漢文の授業も廃止したらいいのです。〉 前からアレだとは思っていたが、まさかこれほどとは……。つまり、百田センセイの頭のなかでは、 称揚すべき「日本独自の文明」と大陸由来の「漢文」は切り離されていて、後者は「中国を偉大な国と勘違い」させる“敵性言語”という扱いらしい (しかもそこまで「漢文」を忌み嫌っておきながら、しかしその主張を、同じく中国発祥の「漢字」で書くのはなぜかOKというのも意味不明だ) http://mint.5ch.net/test/read.cgi/male/1497334233/631
632: Mr.名無しさん [] 2017/06/20(火) 22:22:02.01 http://i.imgur.com/g7AF7GR.jpg http://mint.5ch.net/test/read.cgi/male/1497334233/632
633: Mr.名無しさん [] 2017/06/20(火) 22:22:05.10 「これでいいじゃないか」――。日本国憲法起草のもとになった連合国軍総司令部 (GHQ)草案の受け入れをめぐり、1946年2月22日に昭和天皇が幣原(しではら) 喜重郎首相(当時)と面談した際の天皇の発言を示すメモが、憲法学者の 故宮沢俊義・東大教授のノートに記されていたことがわかった。 「安心して、これで行くことに腹をきめた」という幣原氏の心情も記載されている。 ノートには、46年9月ごろ、宮沢氏ら貴族院特別委員会のメンバーが幣原氏から 首相官邸に呼ばれ、「内話を聞かされた」なかでの、幣原氏と昭和天皇のやりとりが 備忘録的に記されていた。高見勝利・上智大名誉教授(憲法)がメモの記述を見つけた。 ノートの原本は立教大学図書館に所蔵されている。 幣原氏と面談した際の昭和天皇の発言に関しては、GHQ作成の資料に、天皇自身が 徹底的な改革を望み、草案を「全面的に支持する」と述べたとの記載があり、様々な 文献にも引用されているが、「発言が積極的過ぎる」などと疑問視する声もあった。 高見氏は、「メモからは、日本や天皇制を取り巻く厳しい国際情勢を考え、草案の受け入れ しかないという現実的判断をしたことがうかがえる。GHQの資料よりもメモの方が実態に 近いのではないか」と話す。 調査委員会でまとめた憲法改正案が明治憲法の微修正にとどまったため、GHQの 同意を得られなかった。46年2月13日、GHQ側から渡された草案では天皇の地位が 「象徴」となるなど、政府内では受け入れをめぐり賛否が割れたが、22日午前の閣議で 事実上の受け入れを決定。同日午後、首相だった幣原氏が天皇を訪ね、経緯を報告した ――ここまではすでに明らかになっている。 宮沢ノートのメモは、この時の様子をこう記す。 「陛下に拝謁(はいえつ)して、憲法草案(先方から示されたもの)を御目(おめ)にかけた。 すると陛下は『これでいいじゃないか』と仰せられた。自分はこの御一言で、安心して、 これで行くことに腹をきめた」 また、幣原氏は2月21日、マッカーサー司令官と面会。そこでのマッカーサー氏の発言に ついて「元帥曰(いわ)く。『天皇の問題については、自分は諒承(りょうしょう)しているが、 南と北とから、反対がある。天皇を象徴とする憲法を承認するということは、日本の為に のぞましいと思う』。〔南とは濠州、ニュージイランド、北とはソ聯(れん)だろう〕」。 草案に沿って憲法改正案作りをすることを決定した日本政府は、3月4日から5日にかけて GHQ側との徹夜の協議で案を確定。6日、「憲法改正草案要綱」として発表した。 帝国議会の審議を経て、46年11月3日に日本国憲法を公布。475月3日に施行した。 http://www.asahicom.jp/articles/images/AS20170502003336_comm.jpg 昭和天皇と幣原喜重郎とのやりとりが書かれた宮沢俊義のノート=立教大学図書館所蔵 http://mint.5ch.net/test/read.cgi/male/1497334233/633
634: Mr.名無しさん [] 2017/06/20(火) 22:22:06.06 「安楽死」プログラムの拡大 安楽死立案者は、殺戮プログラムを施設に入所している成人障害患者まで拡大する構想を短期間のうちに立てました。 1939年秋、アドルフ・ヒトラーは、このプログラムに参加する医師、医療担当者、および管理者を起訴から保護するための秘密の権限付与に署名しました。 この権限付与は、1939年9月1日に遡って発効され、同プログラムの取り組みは戦時中の政策に関連するものだと示唆しました。 総統官邸は外部から孤立していて規模が小さく、国家組織、政府組織、またはナチ党組織とは分離しているため、ヒトラーは総統官邸を「安楽死」作戦の原動力としました。 官邸職員はその秘密の企てを「T4」と呼びました。 この名称は、ベルリンにあった同プログラム本部の所在地住所、 Tiergartenstrasse 4(ティーアガルテン通り4番地)から付けられました。 ヒトラーの指示に従い、総統官邸長官のフィリップ・ボウラーと医師のカール・ブラントが虐殺作戦の指揮官を務めました。 彼らの指揮下で、T4作戦員は「安楽死」作戦の一環として、 ベルリン近郊ハーフェル川沿いのブランデンブルク、ドイツ南西部のグラーフェネック、 サクソニーにあるベルンブルクとゾネンシュタイン、オーストリアのドナウ川沿いリンツ近郊ハルトハイム、およびヘッセンのハーダマーに、6つのガス施設を設置しました。 子供の「安楽死」プログラムで開発された方法を使って、T4立案者は1939年秋から、すべての公衆衛生担当官、公立および私立病院、精神科病院、および慢性患者や高齢者向けの養護施設に注意深く定式化された質問票を配布し始めました。 質問票の限られた記入欄と表現、添え状に記載された指示は、統計的データを収集するためのアンケートといった印象を与えました。 質問票の悪質な目的が暗示されているのは、患者の就労能力に重点が置かれていること、また医療当局に 統合失調症、てんかん、認知症、脳炎、およびその他の慢性的な精神疾患や神経疾患を患う個人、 ドイツ人またはドイツ人に「関連する」血統を持たない個人、精神に異常のある犯罪者、または犯罪を犯した個人、および5年を超えて療養施設に監禁されていた個人を特定することが義務付けられている点のみでした。 秘密裏に採用された定評の高い数多くの「医療専門家」や医師が3人1組で質問票を評価しました。 1940年1月の初め、これらの医師たちの決定に基づき、T4作戦員は「安楽死」プログラムに選ばれた患者を自宅や療養施設から連行し、バスまたは列車で殺害のため集中ガス施設に移送しました。 これらの施設に到着後数時間以内に、被害者はシャワー室だと偽られ、特別に設計されたガス室内で純粋な一酸化炭素ガスを使って殺害されました。 その後、T4作戦員はガス施設に隣接する遺体焼却炉で遺体を焼却しました。 その他の職員は一緒にされた遺灰の山から火葬された犠牲者の遺灰を骨壷に入れ、犠牲者の遺族に送りました。 犠牲者の遺族や後見人は、その骨壷と共に架空の死因と死亡日が記載された死亡証明書やその他の書類を受けとったのです。 このプログラムは秘密裏に行われたため、T4の立案者と担当職員はその殺害を意図した仕組みを隠すため、巧妙な手段を講じました。 すべてのケースにおいて、犠牲者の死が自然死であったことを示すために医師と療養施設管理者が公式記録を改ざんしましたが、「安楽死」プログラムはすぐに公然の秘密になりました。 政策が一般に広く知られていたこと、また殺害に関する民間および政府内からの抗議、特にドイツ人聖職者からの反対が続き、ヒトラーは1941年8月後半に安楽死プログラムの中止を命令しました。 T4独自の内部情報によると、「安楽死」プログラムにより、1940年1月から1941年8月までに6つのガス施設において、療養施設に収容されていた70,273人もの心身障害者の命が奪われました。 http://mint.5ch.net/test/read.cgi/male/1497334233/634
635: Mr.名無しさん [] 2017/06/20(火) 22:22:17.89 >>504 ポフ http://mint.5ch.net/test/read.cgi/male/1497334233/635
636: Mr.名無しさん [] 2017/06/20(火) 22:22:31.99 毒雑アイドル部な https://m.youtube.com/watch?v=RisoO3e79As http://mint.5ch.net/test/read.cgi/male/1497334233/636
637: Mr.名無しさん [] 2017/06/20(火) 22:22:51.69 うんちっちぃ〜 http://mint.5ch.net/test/read.cgi/male/1497334233/637
638: Mr.名無しさん [] 2017/06/20(火) 22:22:53.82 「安楽死」プログラムの拡大 安楽死立案者は、殺戮プログラムを施設に入所している成人障害患者まで拡大する構想を短期間のうちに立てました。 1939年秋、アドルフ・ヒトラーは、このプログラムに参加する医師、医療担当者、および管理者を起訴から保護するための秘密の権限付与に署名しました。 この権限付与は、1939年9月1日に遡って発効され、同プログラムの取り組みは戦時中の政策に関連するものだと示唆しました。 総統官邸は外部から孤立していて規模が小さく、国家組織、政府組織、またはナチ党組織とは分離しているため、ヒトラーは総統官邸を「安楽死」作戦の原動力としました。 官邸職員はその秘密の企てを「T4」と呼びました。 この名称は、ベルリンにあった同プログラム本部の所在地住所、 Tiergartenstrasse 4(ティーアガルテン通り4番地)から付けられました。 ヒトラーの指示に従い、総統官邸長官のフィリップ・ボウラーと医師のカール・ブラントが虐殺作戦の指揮官を務めました。 彼らの指揮下で、T4作戦員は「安楽死」作戦の一環として、 ベルリン近郊ハーフェル川沿いのブランデンブルク、ドイツ南西部のグラーフェネック、 サクソニーにあるベルンブルクとゾネンシュタイン、オーストリアのドナウ川沿いリンツ近郊ハルトハイム、およびヘッセンのハーダマーに、6つのガス施設を設置しました。 子供の「安楽死」プログラムで開発された方法を使って、T4立案者は1939年秋から、すべての公衆衛生担当官、公立および私立病院、精神科病院、および慢性患者や高齢者向けの養護施設に注意深く定式化された質問票を配布し始めました。 質問票の限られた記入欄と表現、添え状に記載された指示は、統計的データを収集するためのアンケートといった印象を与えました。 質問票の悪質な目的が暗示されているのは、患者の就労能力に重点が置かれていること、また医療当局に 統合失調症、てんかん、認知症、脳炎、およびその他の慢性的な精神疾患や神経疾患を患う個人、 ドイツ人またはドイツ人に「関連する」血統を持たない個人、精神に異常のある犯罪者、または犯罪を犯した個人、および5年を超えて療養施設に監禁されていた個人を特定することが義務付けられている点のみでした。 秘密裏に採用された定評の高い数多くの「医療専門家」や医師が3人1組で質問票を評価しました。 1940年1月の初め、これらの医師たちの決定に基づき、T4作戦員は「安楽死」プログラムに選ばれた患者を自宅や療養施設から連行し、バスまたは列車で殺害のため集中ガス施設に移送しました。 これらの施設に到着後数時間以内に、被害者はシャワー室だと偽られ、特別に設計されたガス室内で純粋な一酸化炭素ガスを使って殺害されました。 その後、T4作戦員はガス施設に隣接する遺体焼却炉で遺体を焼却しました。 その他の職員は一緒にされた遺灰の山から火葬された犠牲者の遺灰を骨壷に入れ、犠牲者の遺族に送りました。 犠牲者の遺族や後見人は、その骨壷と共に架空の死因と死亡日が記載された死亡証明書やその他の書類を受けとったのです。 このプログラムは秘密裏に行われたため、T4の立案者と担当職員はその殺害を意図した仕組みを隠すため、巧妙な手段を講じました。 すべてのケースにおいて、犠牲者の死が自然死であったことを示すために医師と療養施設管理者が公式記録を改ざんしましたが、「安楽死」プログラムはすぐに公然の秘密になりました。 政策が一般に広く知られていたこと、また殺害に関する民間および政府内からの抗議、特にドイツ人聖職者からの反対が続き、ヒトラーは1941年8月後半に安楽死プログラムの中止を命令しました。 T4独自の内部情報によると、「安楽死」プログラムにより、1940年1月から1941年8月までに6つのガス施設において、療養施設に収容されていた70,273人もの心身障害者の命が奪われました。 http://mint.5ch.net/test/read.cgi/male/1497334233/638
639: Mr.名無しさん [] 2017/06/20(火) 22:23:08.58 *米山豪憲 http://mint.5ch.net/test/read.cgi/male/1497334233/639
640: Mr.名無しさん [] 2017/06/20(火) 22:23:11.35 >>619 ちんたさんお久しぶりです ウッさん亡き今ちんたさんが毒雑王です http://mint.5ch.net/test/read.cgi/male/1497334233/640
641: Mr.名無しさん [] 2017/06/20(火) 22:23:19.14 児童買春のほとんどが悲しい状況で強制的に売春をさせられているものである。特にタイでは、 多くの日本人男性たちがタイ人やラオス人の少女を性の対象として買春し、対価として金銭渡しているという。 日本人の売春・買春行為について詳しく知っているという、タイの旅行代理店のタイ人にお話をうかがったところ、非常に悲しい事実が判明した。 タイにはマッサージパーラーといわれる、日本でいうところの性的サービスのあるソープランドのような店があり、 多くの日本人観光客がマッサージパーラーを訪れるという。マッサージパーラーのなかには日本人が多くやってくる 日本人御用達のような店があり、そんな店には多くの10代少女がいるという。 「店では18歳と紹介される少女でも、実際は13〜16歳ということがよくあります。 日本人たちはそれを知ってて性的な関係を持つ人もいますよ」とのこと。特に驚いたのが「処女とセックスをしたいという日本人男性もおり、 だいたい11万円ほどで処女とセックスをしていくそうです。容姿端麗ならばもっと価格はあがるでしょう」という情報。 日本はもちろんのこと、タイでも児童に関する売春・買春行為は立派な犯罪だ。なにより、児童に対して性的な関係を持とうとする考え自体が変態行為であり、 犯罪行為につながる。自分にとっては旅の快楽として良い思い出になるかもしれないが、少女たちにとっては悲しみしか残らない。たとえ対価をもらえるとしても、 それは彼女たちが望んで手にしたお金ではないのである。 「日本の春休みや夏休みになると、日本の大学生が多くタイで買春をしています。年を通してオヤジといわれる年齢の人たちは少女を買春をしています。 だから私の代理店ではそのような店を紹介して欲しいといわれても、紹介できないといって断っていますし、案内もしません」。 あまりにも恥ずかしい、日本人の児童買春という変態行為。海外で日本の評判を落とすようなことは慎んでもらいたいものだ。 http://mint.5ch.net/test/read.cgi/male/1497334233/641
642: Mr.名無しさん [] 2017/06/20(火) 22:23:19.55 >>638 邪魔だよゴミ http://mint.5ch.net/test/read.cgi/male/1497334233/642
643: Mr.名無しさん [] 2017/06/20(火) 22:23:25.81 悠 木 碧 の お し っ こ 飲 み た い ん だ わ http://mint.5ch.net/test/read.cgi/male/1497334233/643
644: Mr.名無しさん [] 2017/06/20(火) 22:23:41.96 フィリピン 高等学校用「フィリピン国の歴史」(一九八一年版) 「日本軍の残酷さ−とくに地方での女性に対する邪悪な扱い−は、多くの市民がゲリラになる要因の一つであった。ゲリラ活動の広がりを危険視した日本軍は、フィリピン市民に対して残酷さをいっそう加えるようになった。 多くのフィリピン人は、有罪無罪を問わず捕らえられ、 サンディアゴ砦や、日本軍が接収し刑務所とした他の施設に送られた。家に戻ることができた者にしても、不自由な身体となっていた。」 インドネシア 中学校用「社会科学・歴史科 第五分冊」(一九八八年版) 「当初、日本軍の到来はインドネシア民族に歓迎された。インドネシア民族は、長く切望した独立を日本が与えてくれるだろうと期待した。 どうしてインドネシア民族は、このような期待を持ったのだろうか。それは日本がやってきてまもなく、つぎのような宣伝を展開したからである。 −日本民族はインドネシア民族の「兄」である。日本がきた目的は、インドネシア民族を西洋の植民地支配から解放することである。 −日本は「大東亜の共栄」のために開発を実施する。 その実体はどうであったか。日本時代にインドネシアの民衆は、肉体的にも精神的にも、並はずれた苦痛を体験した。日本は結局独立を与えるどころか、インドネシア民衆を圧迫し、搾取したのだ。 その行いは、強制栽培と強制労働時代のオランダの行為を超える、非人道的なものだった。資源とインドネシア民族の労働力は、日本の戦争のために搾り取られた。」 タイ 中学二年生用 社会科教育読本「歴史学 タイ2」(一九八〇年版) 「タイ人の多くは、日本がタイを占領し、横行することに不満を感じていた。タイ人グループの中には、日本と同盟関係を持つという政府の方針に反対するものもあった。これら一般民衆グループには、 連合国から遣わされたリーダーがいたものと思われる。(後略) 在英タイ人留学生の大部分は運動(※自由タイ運動、反日独立運動のこと)に参加し、イギリス政府の援助を受けた。アーナンタ・マヒドーン王の名代であるプリディ・パノムヨン摂政は、タイ国内に抗日地下部隊を設立した。 そしてアメリカやイギリスの自由タイ運動と連絡を取り、 様々な行動を起こした。例えば、日本の兵力や動向に関する情報を連合国側に提供したり、 破壊行為によって日本の通行を妨害したり、また、日本兵を拘引したりして連合国を援助した。」 ベトナム 十二年生用 「歴史 第一巻」(一九八四年版) 「インドシナに足を踏み入れて以来、ファシスト日本のあらゆる経済活動は、直接的にあるいはフランスを通じて間接的に、略奪戦争を遂行するため、資源や食料をできる限り多く獲得することであった。(後略) もう一つの非道な政策は、日本への供出用と戦争の備蓄用とのために、食料、とくに米の強制かつ廉価な買いつけをしたことである。この非道な政策こそ、市場における深刻な食糧不足をもたらし、 一九四五年初頭の数ヶ月の間に、北部で、二〇〇万人以上のわが同胞が餓死した直接の原因となった。」 http://mint.5ch.net/test/read.cgi/male/1497334233/644
645: Mr.名無しさん [] 2017/06/20(火) 22:23:51.71 粉は昔の●流出で情報が出たと言っていたわ http://mint.5ch.net/test/read.cgi/male/1497334233/645
646: Mr.名無しさん [] 2017/06/20(火) 22:23:54.14 悠 木 碧 の お し っ こ 飲 み た い ん だ わ http://mint.5ch.net/test/read.cgi/male/1497334233/646
647: Mr.名無しさん [] 2017/06/20(火) 22:23:57.65 仕事やめたい http://mint.5ch.net/test/read.cgi/male/1497334233/647
648: Mr.名無しさん [] 2017/06/20(火) 22:23:59.56 「安楽死」プログラムの拡大 安楽死立案者は、殺戮プログラムを施設に入所している成人障害患者まで拡大する構想を短期間のうちに立てました。 1939年秋、アドルフ・ヒトラーは、このプログラムに参加する医師、医療担当者、および管理者を起訴から保護するための秘密の権限付与に署名しました。 この権限付与は、1939年9月1日に遡って発効され、同プログラムの取り組みは戦時中の政策に関連するものだと示唆しました。 総統官邸は外部から孤立していて規模が小さく、国家組織、政府組織、またはナチ党組織とは分離しているため、ヒトラーは総統官邸を「安楽死」作戦の原動力としました。 官邸職員はその秘密の企てを「T4」と呼びました。 この名称は、ベルリンにあった同プログラム本部の所在地住所、 Tiergartenstrasse 4(ティーアガルテン通り4番地)から付けられました。 ヒトラーの指示に従い、総統官邸長官のフィリップ・ボウラーと医師のカール・ブラントが虐殺作戦の指揮官を務めました。 彼らの指揮下で、T4作戦員は「安楽死」作戦の一環として、 ベルリン近郊ハーフェル川沿いのブランデンブルク、ドイツ南西部のグラーフェネック、 サクソニーにあるベルンブルクとゾネンシュタイン、オーストリアのドナウ川沿いリンツ近郊ハルトハイム、およびヘッセンのハーダマーに、6つのガス施設を設置しました。 子供の「安楽死」プログラムで開発された方法を使って、T4立案者は1939年秋から、すべての公衆衛生担当官、公立および私立病院、精神科病院、および慢性患者や高齢者向けの養護施設に注意深く定式化された質問票を配布し始めました。 質問票の限られた記入欄と表現、添え状に記載された指示は、統計的データを収集するためのアンケートといった印象を与えました。 質問票の悪質な目的が暗示されているのは、患者の就労能力に重点が置かれていること、また医療当局に 統合失調症、てんかん、認知症、脳炎、およびその他の慢性的な精神疾患や神経疾患を患う個人、 ドイツ人またはドイツ人に「関連する」血統を持たない個人、精神に異常のある犯罪者、または犯罪を犯した個人、および5年を超えて療養施設に監禁されていた個人を特定することが義務付けられている点のみでした。 秘密裏に採用された定評の高い数多くの「医療専門家」や医師が3人1組で質問票を評価しました。 1940年1月の初め、これらの医師たちの決定に基づき、T4作戦員は「安楽死」プログラムに選ばれた患者を自宅や療養施設から連行し、バスまたは列車で殺害のため集中ガス施設に移送しました。 これらの施設に到着後数時間以内に、被害者はシャワー室だと偽られ、特別に設計されたガス室内で純粋な一酸化炭素ガスを使って殺害されました。 その後、T4作戦員はガス施設に隣接する遺体焼却炉で遺体を焼却しました。 その他の職員は一緒にされた遺灰の山から火葬された犠牲者の遺灰を骨壷に入れ、犠牲者の遺族に送りました。 犠牲者の遺族や後見人は、その骨壷と共に架空の死因と死亡日が記載された死亡証明書やその他の書類を受けとったのです。 このプログラムは秘密裏に行われたため、T4の立案者と担当職員はその殺害を意図した仕組みを隠すため、巧妙な手段を講じました。 すべてのケースにおいて、犠牲者の死が自然死であったことを示すために医師と療養施設管理者が公式記録を改ざんしましたが、「安楽死」プログラムはすぐに公然の秘密になりました。 政策が一般に広く知られていたこと、また殺害に関する民間および政府内からの抗議、特にドイツ人聖職者からの反対が続き、ヒトラーは1941年8月後半に安楽死プログラムの中止を命令しました。 T4独自の内部情報によると、「安楽死」プログラムにより、1940年1月から1941年8月までに6つのガス施設において、療養施設に収容されていた70,273人もの心身障害者の命が奪われました。 http://mint.5ch.net/test/read.cgi/male/1497334233/648
649: Mr.名無しさん [] 2017/06/20(火) 22:24:01.93 シンガポール 中学校初級用 「現代シンガポール社会経済史」(一九八五年版) 「一二三年間、シンガポールの人々は平和に暮らしていた。日本軍がシンガポールを攻撃したとき、人々は戦争の恐怖を体験しなければならなかった。日本軍が島を占領した三年半の間は、 さらに大きな被害と困難な状況が待ち受けていた。 この時期は、日本軍占領時代として知られている。 (中略)シンガポールは昭南島(ショウナントウと発音)、あるいはショーナンアイランドと名前を変えさせられた。”ショーナン”は”南の光”を意味する。 しかし、この”光”は明るく輝くことなく、シンガポールの人々は日本の支配下で彼らの生涯のうち、もっとも暗い日々を過ごした。」 「日本軍警察であるケンペイタイについては、恐ろしい話がたくさんある。「ケンペイタイ」ということばを口にすると、人々は心に恐怖の念が打ちこまれる思いをもつことだろう。 ケンペイタイは島全体にスパイをおいた。だれを信じてよいのかだれにもわからなかった。 スパイによって日本軍に通報された者は、オーチャード通りにあるYMCAや、クィーン通りにあるラッフルズ女学校といったケンペイタイの建物に連れて行かれた。 そこで彼らはあまりにもひどい拷問を受けたので、多くの者は自分の受けた苦しみを人に告げることなく死んでいった。」 マレーシア 中学校二年生用 「歴史のなかのマレーシア」(一九八八年版) 「日本は、マレー人の解放獲得への期待を裏切った。日本人はマラヤを、まるで自分たちの植民地であるかのように支配した。今度は彼らがイギリス人の座を奪ったのだ。日本の支配はイギリスよりずっとひどかった。」 「日本がマラヤを占領したとき、彼らは中国人に対して、厳しく乱暴だった。彼らはすべての中国人は反日であると疑っていた。シンガポールを占領したのち、日本は数万人の中国人を殺した。 マラヤの他の地域の中国人もまた、同じようにひどく扱われた。疑いを持たれた人間はすべて捕まえられ、刑務所に入れられた。」 ミャンマー 八年生用 「ビルマ史」(一九八七年版) 「「独立」したとはいえ、ビルマ政府には本来あるべき権限はなかった。ファシスト日本が許容した権限があっただけである。日本時代にもっとも強大な権力を見せつけたのは、日本軍のキンペイタイン(憲兵隊)である。 憲兵隊が管轄し、処理する事柄については、階級の上下を問わず、 いかなる日本軍将校も口出しできなかった。一般の国民は、憲兵隊の思うがままに逮捕され、拷問され、さらには虐殺されたのである。 こうしたファシストの弾圧の結果、無法者から学歴があまりない者までが、反乱への怒りの炎をたぎらせた。真の独立を望む声は全土に広がった。 民族、男女を問わず、僧侶も一般国民も、ファシスト日本に反乱を起こそうという強い決意を抱くようになった。」 −参考− 日本 国定修身教科書 初等科六年用 「初等科修身4」(一九四二年版) 「すでに満州国は、輝かしい発展を遂げました。国民政府もまた支那で、着々とその基礎を固め、タイ国も、東部インド支那も、日本と親密な関係を結び、相たずさえて大東亜建設のために、協力しています。 その上、わが戦果にかがやく南方の諸地方は、新生の光にあふれ、マライや昭南島、ビルマやフィリピン、東インド諸島に輝く建設の音が、耳元に聞こえて来ます。大東亜十億の力強い進軍が始まったのであります。 日本は、大きな胸を開いて、あらゆる東亜の住民へ、手を握りあうように呼びかけています。 日本人は御稜威(みいつ)をかしこみ仰ぎ、世界に本当の平和をもたらそうとして、大東亜建設の先頭に立ち続けるのであります。」 http://mint.5ch.net/test/read.cgi/male/1497334233/649
650: Mr.名無しさん [] 2017/06/20(火) 22:24:13.40 悠 木 碧 の お し っ こ 飲 み た い ん だ わ http://mint.5ch.net/test/read.cgi/male/1497334233/650
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