[過去ログ] 雑談 襟裳岬 [無断転載禁止]©2ch.net (1002レス)
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668(1): 2017/06/20(火)22:27 AAS
「安楽死」プログラムの拡大
安楽死立案者は、殺戮プログラムを施設に入所している成人障害患者まで拡大する構想を短期間のうちに立てました。
1939年秋、アドルフ・ヒトラーは、このプログラムに参加する医師、医療担当者、および管理者を起訴から保護するための秘密の権限付与に署名しました。
この権限付与は、1939年9月1日に遡って発効され、同プログラムの取り組みは戦時中の政策に関連するものだと示唆しました。
総統官邸は外部から孤立していて規模が小さく、国家組織、政府組織、またはナチ党組織とは分離しているため、ヒトラーは総統官邸を「安楽死」作戦の原動力としました。
官邸職員はその秘密の企てを「T4」と呼びました。 この名称は、ベルリンにあった同プログラム本部の所在地住所、 Tiergartenstrasse 4(ティーアガルテン通り4番地)から付けられました。
ヒトラーの指示に従い、総統官邸長官のフィリップ・ボウラーと医師のカール・ブラントが虐殺作戦の指揮官を務めました。
彼らの指揮下で、T4作戦員は「安楽死」作戦の一環として、 ベルリン近郊ハーフェル川沿いのブランデンブルク、ドイツ南西部のグラーフェネック、
サクソニーにあるベルンブルクとゾネンシュタイン、オーストリアのドナウ川沿いリンツ近郊ハルトハイム、およびヘッセンのハーダマーに、6つのガス施設を設置しました。
子供の「安楽死」プログラムで開発された方法を使って、T4立案者は1939年秋から、すべての公衆衛生担当官、公立および私立病院、精神科病院、および慢性患者や高齢者向けの養護施設に注意深く定式化された質問票を配布し始めました。
質問票の限られた記入欄と表現、添え状に記載された指示は、統計的データを収集するためのアンケートといった印象を与えました。
質問票の悪質な目的が暗示されているのは、患者の就労能力に重点が置かれていること、また医療当局に 統合失調症、てんかん、認知症、脳炎、およびその他の慢性的な精神疾患や神経疾患を患う個人、
ドイツ人またはドイツ人に「関連する」血統を持たない個人、精神に異常のある犯罪者、または犯罪を犯した個人、および5年を超えて療養施設に監禁されていた個人を特定することが義務付けられている点のみでした。
秘密裏に採用された定評の高い数多くの「医療専門家」や医師が3人1組で質問票を評価しました。
1940年1月の初め、これらの医師たちの決定に基づき、T4作戦員は「安楽死」プログラムに選ばれた患者を自宅や療養施設から連行し、バスまたは列車で殺害のため集中ガス施設に移送しました。
これらの施設に到着後数時間以内に、被害者はシャワー室だと偽られ、特別に設計されたガス室内で純粋な一酸化炭素ガスを使って殺害されました。
その後、T4作戦員はガス施設に隣接する遺体焼却炉で遺体を焼却しました。
その他の職員は一緒にされた遺灰の山から火葬された犠牲者の遺灰を骨壷に入れ、犠牲者の遺族に送りました。
犠牲者の遺族や後見人は、その骨壷と共に架空の死因と死亡日が記載された死亡証明書やその他の書類を受けとったのです。
このプログラムは秘密裏に行われたため、T4の立案者と担当職員はその殺害を意図した仕組みを隠すため、巧妙な手段を講じました。
すべてのケースにおいて、犠牲者の死が自然死であったことを示すために医師と療養施設管理者が公式記録を改ざんしましたが、「安楽死」プログラムはすぐに公然の秘密になりました。
政策が一般に広く知られていたこと、また殺害に関する民間および政府内からの抗議、特にドイツ人聖職者からの反対が続き、ヒトラーは1941年8月後半に安楽死プログラムの中止を命令しました。
T4独自の内部情報によると、「安楽死」プログラムにより、1940年1月から1941年8月までに6つのガス施設において、療養施設に収容されていた70,273人もの心身障害者の命が奪われました。
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