ガロア第一論文と乗数イデアル他関連資料スレ11 (684レス)
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一般社団法人平和政策研究所
政策オピニオン
立憲君主制の国際比較 ―象徴天皇制のあり方と今後の日英関係―
君塚 直隆 関東学院大学教授
2020年7月31日
(本稿は、2018年5月17日に開催した「IPP政策研究会」における発題内容を整理してまとめたものである。)

4.日英君主のきずなと象徴天皇のゆくえ

(1)日英王室の交流史
 日英の王室外交の歴史を簡単に振り返ってみよう。
 明治維新の翌年(1869年)、近代最初の国賓としてヴィクトリア女王の次男アルフレッド王子が来日された。同王子は、オセアニア歴訪の後、日本に立ち寄ったのである。このときアルフレッド王子は延遼館に宿泊されたが、当時は宮中晩餐会もなかった。
 1881年には、のちのジョージ5世が兄エディとともに来日した。二人とも海軍軍人であり、世界周遊訓練の途中に日本を訪問したのだった。そのとき明治天皇から厚い接遇を受けた。その後、1921年、裕仁皇太子(昭和天皇)が欧州歴訪に発たれ、最初の訪問地が英国だった。明治天皇から接遇を受けたジョージ5世が、今度は彼の孫の裕仁皇太子を接遇した。ちなみに、この直後に(1923年)日英同盟は解消されてしまう。
 やがて太平洋戦争になると、日本は英米と敵国同士となって戦ったが、戦後は双方の王族同士の交流も進めながら徐々に和解に向けて進んでいった。1971年には昭和天皇の英国を含む欧州歴訪があり、その返礼訪問として75年にエリザベス女王が来日された。このようにして今日までの日英関係がある。

(2)戦後処理と天皇制
 天皇制に関するGHQの戦後処理の方向性については、象徴天皇制として存続させることになった。GHQは欧州の法律には余り詳しくなかったが、英国のコモンローについては理解していた。その結果、英国の「君臨すれども統治せず」の立憲君主制を範として、日本の天皇制を残していくべきだとの方向に(マッカーサーをはじめとして)まとまっていった。さらに象徴としての天皇制にも英国の立憲君主制の影響があった。
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