「名誉教授」のスレ2 (139レス)
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(2): 11/16(土)18:51 ID:XoMbXEhc(4/5) AAS
つづき

5まだまだメジャーとは言えなかったディリクレ問題を一躍有名にしたのは“名付け親”リーマン(1826-1866)と“精密の権化”ワイエルシュトラス(1815-1897)である.リーマンは(2次元の)ディリクレ原理を使って彼のリーマン面上のアーベル関数についての壮大な理論を打ち立てる.正則関数の実部と虚部が調和関数になる事実から,正則関数の理論は調和関数の研究に有用であるが,リーマンは,逆に,調和関数の理論を正則関数の研究に用いることによって,単連結領域が単位円板と等角同値になるという有名な写像定理などを得るのである.ディリクレ原理ではエネルギーを最少にする関数の存在を(物理的考察から)自明なものとしていた.この点にワイエルシュトラスが非難を浴びせたのは1870年である.彼は「下限と最小値は同じでない」ことを強調した.例えばF={f ∈C[0,1];f(0) = 0,f(1) = 1} に対して

を考える.inff∈F I(f) = 0 であるが,I(f) = 0 となる f はF の中に存在しない.この指摘はガウスの研究にも当てはまる.当時の研究姿勢は物理の問題と直結しており,解の存在証明よりも,具体的な解の表示を求めることを目標としていたという事情もあったのかもしれない.しかしながら,ディリクレ原理の推論に問題点があることは疑いようもなく,その方法に頼ったリーマンの結果にも影を落とすのである.一旦は闇に葬られたかと思われたリーマンの研究は,ディリクレ原理を使わない証明によって復活する.それはシュヴァルツ(1843-1921)の“交代法”,C. ノイマン(1832-1925)による“算術平均法”,そしてポアンカレ(1854-1912)の“掃散法”である.(途中略) 1900 年にヒルベルト(1862-1943) は「この原理の魅惑的簡明さと豊富な応用例の可能性は,その中に真実が含まれていることを確信する」という信念で,ディリクレ原理自身を復活させることに成功する.彼の方法は“直接法”と呼ばれ,Ωとf の適当な条件の下で,D(vn)が下限に収束する列{vn}の中から,Ff の元に収束する部分列を見い出すものである.現代的に言えば「コンパクト集合上の下半連続関数は最小値をもつ」ことであり,コンパクト性は「一様有界かつ同程度連続な関数列は収束する部分列を含む」というアスコリ・アルツェラの定理の考えが基本となっている.この考えは関数空間の完備性の萌芽であって,ヒルベルト空間の理論へと発展する.(ディリクレ問題の発展の歴史(数学セミナー2005年11月号に掲載)から抜粋,ホームページ ccmath.meijo-u.ac.jp/∼suzukin/ の著書・書評欄を参照せよ)
(引用終り)
以上
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