野々村元県議の今後を考える5 (994レス)
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915: 2023/10/25(水)01:34 ID:uusXZ2C+0(1/6) AAS
在りし日の夜の尾道。乗車するのはほんの数人なのに、金帯のブルトレがカーブしたホームに自分達のために停車して
くれたかのような特別な雰囲気がよかったなぁ。暗闇と光、ブルーの装いにゴールドの帯、最高の光景だったなぁ。
第一希望〜あさかぜ、第二希望さくら、第三希望はやぶさ、第四希望みずほ…と言うのが当時窓口で申込書に書く際常だった。
「さくら」や「はやぶさ」乗ろうと思ったら、かなり早く仕事切り上げて会社抜けださないといけないから
自ずとそうなる、列車の格の話でなないだろ
やはりブルトレの絶頂期は20系の頃だった。
新幹線岡山開業でも平日でも九州行は連日満席だった。
それが一変したのは新幹線博多開業。
しかしまだブルトレの需要はあった。途中駅からの乗車や朝一の現地入りなど。
それが崩れたのが航空機の安売りとビジネスホテルの台頭。
これがネットで予約できるようになってブルトレの需要は終わった
東海道ブルトレに止めを刺したのは公立校の修学旅行の航空利用が解禁になったことが大きい。
全盛期の主な客層だったビジネス客や観光客が航空機や新幹線に移った後、修学旅行の団体が東海道ブルトレの主な客層になったが、
その修学旅行団体の航空利用解禁が東海道ブルトレに引導を渡したようなもの。
「あさかぜ」で“ブルートレイン”という言葉が生まれて半世紀余り
退勤時間に東海道線を次々と下って行くブルートレインを眺めて旅に出たくなったのも、
ついこの前のことのように思い出す
「朝風と共に着くんだ!!」
この名台詞を残して「あさかぜ」の愛称を決定したのは
当時、国鉄常務理事で、後に日本食堂代表取締役となられた石井昭正氏。
…この時点まで、夜行列車といえば夜をイメージした愛称の列車名ばかりだった
20系と、こだま型電車や近鉄ビスタカーが日本の鉄道業界で最初に冷房化された列車ですが
昭和30年代当時、家庭用エアコンは ほとんど普及していません。
職場にもクーラーが存在しないのが当たり前です。企業でもエアコンを設置してるところは極めて珍しく、
ホテルや旅館でも最高級ホテルや最高級旅館にしか存在しない設備でした。
当時は冷暖房が付いてるだけで高級ホテル・高級旅館と名乗れたため、
そこら辺のサービスが『当時』では【ホテル】並のグレードだったんです
冷房車がまともに使えるようになったのは、安全性が高く、マトモな性能がある冷媒である
ジクロロジフルオロメタン(通称フロンガス)が登場・普及してからの話
当時の道路事情は今のベトナムと大差ない道路で、主要国道でさえ、舗装されている区間は少なかった
舗装区間が劇的に増加するのは昭和40年以降の話
欧米先進国と異なり、馬車交通等を経なかったため、強烈に遅れていた。
大昔の飛行機は高額なだけではなく、今の飛行機より遥かに霧や悪天候に弱かった
あさかぜに限らず関西民にとっては東京発ブルトレは憧れだったわ
当時の大阪発ブルトレはヘッドマークなしのEF58牽引か583系だったからEF65ヘッドマーク付きの神々しかったこと
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