[過去ログ] 同和地区の連中ってマジな話、一度関わると絶対に二度と関わりたくないって思うよな [無断転載禁止]©2ch.net (306レス)
上下前次1-新
このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています。
次スレ検索 歴削→次スレ 栞削→次スレ 過去ログメニュー
211: 名無し募集中。。。@無断転載は禁止 2017/08/28(月)22:32 O携 AAS
「路地」とは同じ新宮市でも、「春日地区」にしかないものだったことがわかってきます。新宮市春日地区、つまりは新宮で最も古い歴史をもつ「被差別部落」のことだったのです。中上健次(当
時はまだ、結婚する前の「なかうえけんじ」という姓名ですらなく、木下健次という名だった)はこの「路地」に幼い頃住んでいただけで、母ちさとが再婚すると同時に新宮市の野田地区へと転居
してしまいます。転居先は市の新興地で、そこには「路地」はなかったのです。これが中上健次に決定的な動機と契機を与えていきます。まさに「三つ子の魂百までも」です。ウィキペディアはだ
いたい単純化される傾向があるので、中上健次=被差別部落出身と表記してしまっていますが、「血」からみれば中上健次の身体のなかには、春日地区の「路地」の血は入っていません(『高山文彦著『エレクトラー中上健次の生涯』)。
どういうことかというと、母ちさとも実父の鈴木留造ももともと春日地区の外部の人間だったからで、古座川の河口の西向と三重の熊野市からそれぞれ流れ者のように新宮市の「路地」へとだどり
着き居着いたからでした。その地は、「人と人とが蔦のように縒りあわさり絡みつく一本の大きな樹木のよう」(高山文彦『エレクトラ』)で、昼間から酒を飲んでぶらぶらしている人が多かった
ことが鈴木留造を、この路地に引き寄せたのでした。しかし、多くがぶらぶらしている訳は、この路地の者たちが差別の目で見られていたため材木担ぎや丸太を使った木馬引き(木場や製材所が多
かった)か下駄の修繕(女も下駄の修繕手伝いか行商)の仕事にしかつけなかったためでした。27歳になっていた母もまた行商の仕事ならそこでなんとか就けたために居着いたようです。
上下前次1-新書関写板覧索設栞歴
あと 95 レスあります
スレ情報 赤レス抽出 画像レス抽出 歴の未読スレ AAサムネイル
ぬこの手 ぬこTOP 0.238s*