国立アイヌ民族博物館ウポポイ(民族共生象徴空間) (683レス)
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112: 2021/03/03(水)07:59 ID:y8Mwu0M70(1/3) AAS
「卑弥呼」 は古代朝鮮の 「シャーマン」 か
100年以上の論争が続いても邪馬台国はどこにあったか未だ決着がついていない。
この論争の元になる「魏志倭人伝 (AD280〜297年)」は漢字で書かれているので
漢字独特の原始性による不確定要素が、錯綜しやすい筋書きを生みやすくしている。
日本の研究者が勝手な判断によって解釈するため、様々な筋書きが公開され読者を困惑させている。
不確定な研究公開が続くため、史料価値がないという研究者もいる。
「魏志倭人伝」が書かれたのは3世紀後半であるから、日本では弥生時代末期になる。
すごい歴史書だと思うかもしれないが、中国の歴史書「三国史」の中にある一部の記事に過ぎない。
わずか2000文字の短い記事であるために、総合的な判断を下す資料としては不完備なものである。
当時、朝鮮の「高句麗」「百済」「新羅」「伽耶諸国」は中国との上層階級の婚姻などがあり
相当に深い交流が行われていた。中国が日本の情報を得るのは、主として朝鮮を媒介としていた。
交通手段に欠けるため、中国から日本へ来ることは極めて困難で、危険を犯して渡来する理由は希薄である。
当時の中国人がどれだけ日本について知っていたか疑問である。
「魏志倭人伝」を基にして当時の倭国を推測しても、所詮、断片的な結論を張り合わせたものになる。
朝鮮人が倭国へ渡来する場合、森林に覆われた不毛の土地であろうとも、稲作が渡来の明白な目的であった。
広大な土地に恵まれた中国人の場合、殊更に倭国へ渡来する理由は希薄である。
まして、中国の上層階級が渡来したとは想像すらできない。朝鮮からでさえ、上層階級が渡来したのは七世紀になってからである。
卑弥呼の時代に文字を書ける者はいず、同時代に書かれた「三国史」と
倭国で初めて文字で書かれた文献「記紀」までの間にはあまりにも遠い時が流れている。
弥生時代における縄文人の子孫は10人に1人もいなかったという埴原・小原氏らの説に従えば、
当時の九州や近畿地方に、日本原住民からなる「邪馬台国」があったという考えは、
当時の住民のほとんどは朝鮮渡来人によって占められていたということと矛盾する。
すなはち、奈良時代の朝鮮渡来人の上層階級によって形成された大和朝廷の傘下の基に日本人の生活が始まるのである。
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