国立アイヌ民族博物館ウポポイ(民族共生象徴空間) (683レス)
上下前次1-新
抽出解除 必死チェッカー(本家) (べ) レス栞 あぼーん
498: 2021/03/25(木)00:10 ID:Tt/SWaLv0(1/3) AAS
外ケ浜の?\村――津軽の蝦夷部落
津軽海峡には、むかし点々と?\村があった。?\は「狄」のつくりを犬に替えて作字したものである。
名高いのは三厩村の宇鉄である。その東どなりの今別村、石崎村、宇田などにもアイヌ系の人々が住んでいた。
西どなりには竜飛村の兵路というアイヌの漁民の集落があった。
宝暦五年(1755)の「津軽外之浜後潟組伏御改覚」では?\村八カ村で二百三十四人のアイヌがいたと記されている。
?\村の人たちは外向きの和人名のほかにアイヌ本来の名前ももっていた。
万五郎犬とか万五郎逢犬とか、和人名の下に「犬」もしくは「逢犬」をつけているものはアイヌ系であるという印である。
宝暦年間(1751-1764)に津軽落の政策によって和人同様の扱いを受けるようになり、
その名の下に「犬」の文字をつけて差別していた取り扱いが撤廃された。
『陸奥州駅路図』に、「宇鉄村は宝暦年間まで蝦夷の容貌たり。曾長をクマタカイノ、フルクイン、
省7
499: 2021/03/25(木)05:03 ID:Tt/SWaLv0(2/3) AAS
横穴墓の分布と征討軍の地方制圧ルート
九州は横穴墓が広範囲に分布していますが、景行天皇の九州行幸ルートとほぼ合致します。
景行天皇12年に熊襲が朝貢しないため、景行天皇は西征に発っています。
経由地を記すと、娑麼から豊前国、日向国に移り、夷守を経て襲国の熊襲梟帥を討ち、大和に還っています。
しかも、佐賀県や長崎県、宮崎県以南に横穴墓が分布しないという点でも合致しています。
太平洋側の横穴墓の分布は、日本武尊の東征ルートと合致しています。
日本武尊は景行天皇40年に都を出て、伊勢神宮から東征し、上総国に入り、海路で蝦夷の境に至っています。
陸奥国の竹水門で蝦夷の賊首、嶋津神・國津神等を制圧・虜とし、日高見国で転じて常陸に戻っています。
日本武尊は「蝦夷の凶しき首、 咸く其の辜に伏いぬ。唯信濃国、越国のみ、頗る未だ化に従わず」と述べています。
東国が平定されても、信濃国と越国は大和王朝には従っていないことがわかります。
省3
504: 2021/03/25(木)22:52 ID:Tt/SWaLv0(3/3) AAS
坂上田村麻呂(758 - 811)
田村麻呂の出自をたどると、中国後漢の霊帝の子孫で、 阿知使主を祖とする東漢氏の一族と伝えている。
ところが、阿知使主は朝鮮半島南部から渡来しているので、朝鮮半島系というのが事実のようである。
『日本紀略』延暦13(794年)6月13日条に、「副将軍坂上大宿禰田村麻呂巳下蝦夷を征す」とあり
10月28日条には、「斬首四百五十七級、捕虜百五十人、獲馬八十五匹、焼落(焼き払った集落)七十五処」
とその戦果を報告したとある。日高見国において、朝廷軍が惨い行いをしたということだ。
田村麻呂は、この2年後に征夷大将軍になっている。征夷大将軍という称号は、こんな極悪非道なモノだったのだ。
桓武は前回の失敗に懲りて兵力を倍増した。征軍十万とあるから、前回のほぼ倍にあたる。
朝廷軍はアテルイを捕らえることもできなかったが、日高見国が受けた損害は大きかった。
斬首された者の数は、前回の約五倍であり、焼き払われた集落の数もおびただしい。
省11
上下前次1-新書関写板覧索設栞歴
スレ情報 赤レス抽出 画像レス抽出 歴の未読スレ AAサムネイル
ぬこの手 ぬこTOP 2.012s*